ワンナイト・ディレクション
各務ありす
俺に、できること
「わたしを殺してください」
滅多に鳴らないドアチャイムがしつこく鳴るので表に出ると、高校のクラスメイトだった女性が立っていた。
そして彼女は冒頭のとおり言ったのだ、私を殺せ、と。
俺は逡巡する。彼女はなぜ俺にこんなことを言ったのか。そもそもどこで俺の部屋を知ったのか。そして彼女はどうして殺してほしいなんて思ったのか。
答えを知るには彼女から話を聞くしかないのだろう、俺は渋々だが扉を開けて招き入れる。
「お邪魔します」
「何もないけど、お茶くらいなら出せるよ」
彼女は一度も俺の目を見ようとしなかった。その目が何を捉えているのかは分からない。かつて俺が知っていた彼女の瞳とは大違いだった。一体何が彼女にこんな目をさせたのか気になるが、俺にそれを聞く権利はないだろう。
「そこ、座って」
「失礼します」
実家から持ってきた古い座布団で恥ずかしかったが、彼女はそんなことを気にする素振りもなく座った。
「いま、お茶出すから」
「はい」
蚊の鳴くような声だった。そして相変わらずその目はどこを見ているのか分からない。俺は冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して、グラスに二人分注いだ。なんとなく、この話は長くなるような気がしたので、ペットボトルは仕舞わずにテーブルの上に置いておくことにした。
「冷たいのしかなくてごめん」
「……いえ」
彼女と自分の前にお茶を置いて、俺は胡座をかいた。
彼女は膝の上に置いた自分の握りこぶしを見ているようだった。
「あのさ、聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「話すことはありません」
きっぱりそう言って、彼女は黙りこくってしまった。俺は何を言えば正解になるか見当がつかない。
「いやでもさ、俺だって殺人犯にはなりたくないわけよ」
「手伝ってくださるだけでいいんです」
顔をあげて、初めて俺の顔を見て言ったが、それも無理なお願いだった。俺が関係ない彼女の行為に巻き込まれて捕まる筋合いはないからだ。
「手伝うのも犯罪になるんだってば、なんだっけ、ほら」
「幇助ですね」
「知ってるなら、どうして俺にこんなこと頼んだ」
彼女は俺を巻き込むことに何も感じていないのだろうか。どこを見ているかは分からなかったが、その目は俺を捉えているように見える。グラスのお茶を飲み干した彼女が立ち上がった。そして俺の側で土下座する。
「お願いします、本当に困っているんです」
喉の奥から絞り出すような声は切実さをはらんでいた。
「顔あげろよ」
遠慮がちにあげられたその顔は、恐怖と焦りが満ちた表情だ。彼女は何も言わずにその表情のまま、俺を懇願するように見つめていた。
「困ってるって、何に困ってんの」
「………聞いてくださるんですか」
「俺は君を殺すことはできないけど、君の話を聞くことはできる」
それで君の気が変わるかどうかは保証できないけど、と言って俺は苦笑いした。俺の表情につられたのか、彼女の表情も和らいだ気がした。ぽつり、ぽつりと高校を卒業してからのことを話し始める。
大学に行かず就職したことは知っていたが、去年転勤してきた50代の男が彼女を変に気に入り、絡んでくるようになったという。男の行為はエスカレートし、性的な言動が増え、彼女に触れてくる機会が段々と増えていった。彼女は嫌だと断りその職場を退職したが、ある日その男がマンションの前に現れたらしい。
「わたし、実家と縁を切ってしまっているので、逃げるところがないんです。あの男がマンションの前で待ち伏せするようになって、最初はただ見られているだけだったんです、でも……昨日のことです」
そこまで話して彼女は黙ってしまう。この先に語られる話の推測はできたが、それは他人に話しづらいことのはずだ。
目には涙が溢れてきていた。
思わず彼女の肩を抱きそうになったが、そんなことは求めていないだろうと思いとどまった。
「男が、あの男が……マンションの裏にわたしを引きずって行って、わたしは声が出せなくて、されるがままで」
彼女はその先を言うつもりはないようだったが、俺は聞いていた。
「……犯されたってことか」
こくり、と小さく頷いた。涙は溢れて、頰を伝った。
テーブルの上にあったティッシュの箱を差し出した。
ハンカチじゃなくてごめん、と謝れば、彼女は頭をふるふると振って礼を言った。
しばらく嗚咽を漏らしていたが、落ち着きを取り戻した彼女は言った、
「わたしは汚いから、もう嫌なんです、この身体が」
だからって死ななくてもいいじゃないか、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
嫌悪感を抱く相手に犯された彼女の気持ちは彼女にしか理解できないものだ。
俺が何を言っても事実は変わらないし、彼女の心が救われることもないのだろう。
だけど俺はこう言わずにはいられなかった。
「こっちに越してくれば?隣の部屋が空いてるから」
隣部屋なら何かあった時に俺が助けられるし、と付け加える。
彼女は東京からこの青森まではるばる俺を訪ねてきたのだ。俺に殺してもらうためだけに。もちろん殺すことはできないから、苦し紛れの提案だが。
「死ぬつもりでここに来たので、携帯も財布もすべて捨てました、だからその提案には乗れません」
確かに彼女は手ぶらだった。
聞けばこの近くの川にすべてを放り投げたという。
「家賃なら貸す。だから死ぬな」
死にたい彼女に、死ぬなと言うのは酷だろう。だがこれは俺の本心だった。
殺人犯になりたくないというだけの理由ではない。かつて想いを寄せた彼女に死んでほしくなかったのだ。自分が殺すのは論外だし、死なれるのもごめんだった。
彼女の目に少し光が見えた気がした。
ほんの少しだけ、奥底で煌いた。
「でもそれは、隼人くんの迷惑にはなりませんか」
「ならないよ」
自分でも驚くほどの即答だった。
そして彼女に名前を呼ばれたことで、高校時代の思い出が脳裏に浮かんだ。
「なあ、理沙」
彼女の名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。
「俺がお前を上書きしてもいいか」
これはもう、賭けだった。
俺の心の隅にはまだ、彼女を想う気持ちが残っているのだから。
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