第87話

 すっかり日も沈み、町に灯りが点る頃紫苑は借りている月天の自室でそわそわと落ち着かずに部屋の中を行ったり来たりしていた。


黄金の話ではもうそろそろ月天が来るはずだ。ここ最近色々なことが起きすぎて忘れていたが二人きりで会うのは久しぶりなのだ。


以前はどのように接していたのか思い出そうとしてみても、月天の事を思い出すとなんだか胸がいつも以上にドキドキしてしまい集中できない。


紫苑が大窓の前をうろうろとしていると廊下から声がかけられる。


「紫苑、私だ。入っても良いかい?」


「は、はい!」


久しぶりにきく月天の声になんだか懐かしさを感じつつも、慌てて長椅子まで戻り姿勢を正す。


久しぶりに見た月天の姿は相変わらず優美で、月天が居るだけでその風景が一枚の美しい絵画のようにさえ感じてしまう。


思わず魅入ったままの紫苑の様子を見て月天はくすりと笑みを浮かべた。


「そんなに見つめられては期待してしまうよ?」


月天はそう言って流れるような動作で紫苑の手を取ると、手の甲に軽く口付ける。


「す、すいません!お茶!お茶の用意をしますね!」


紫苑は真っ赤になった顔を隠すようにして慌ててお茶の用意を始める。月天はそんな紫苑の事を愛おしそうに眺めている。


「紫苑、私と会っていない間変わったことはなかったかい?」


お茶の用意をしながらなんとか冷静さを取り戻すと、紫苑は月天と向かい合うようにして座り会っていなかった間の出来事を話す。


「天神祭に関する講義を受けていたくらいで、講義以外では双子と黄金以外の方とは会っていませんね」


「そうか、双子や黄金からも話は聞いていると思うが、今回の天神祭には正式に紫苑と双子を使者として送り出すことが決まった。もちろん、面倒なことは全て双子がやることになっているが他所の里の管理地区に入ることになるから紫苑も十分に注意してほしい」


分かってはいた事だが、こうして月天から話されると本当に自分がそんな大役を引き受けることになったのだなとじわじわと不安と緊張が押し寄せてくる。


「天神祭に関して必要な知識や最低限の身を守る術などはすでにある程度講義で取得したと聞いている。明日は妖猫の屋敷に滞在する間に紫苑の身の回りの世話をする者たちを紹介する。その者たちは必ず紫苑の役に立ってくれるだろう」


「そんな、自分の身の回りのことは自分でできますので大丈夫です!」


ただでさえ今回の派遣の面子の中で足を引っ張っているであろう自分に侍女までつけるなど恐れ多くて素直に頷けない。


「紫苑、今回の天神祭へは単なる術者としてではなく私の婚約内定者として行ってもらう。だからこそ紫苑にはある程度の侍女やお付きの者が必要だし、紫苑自身も私の婚約者として恥ずかしくないような振る舞いが求められる。分かってくれるかい?」


確かにそうだ。単なる人間の娘である紫苑がこんな破格の対応を受けられているのは月天の婚約者(仮)として一族内で公表されているからだ。


他所の里の管理下に行くとなると今より月天の庇護は薄れる。だからこそ、正式な身分として月天の婚約者というのを多くの者に知らしめる必要があるのだ。


「わかりました。けど、その方達はどのような方なんでしょうか?」


紫苑が不安げに月天へ尋ねると月天は意味深な笑みを浮かべて明日になれば分かるよと微笑んだ。


◇◇◇


 翌朝、寝ているとさらりとした何だかすごく手触りの良いモノが手に触れる。


そう、例えるなら猫の毛並みのようなそんなずっと触っていたくなるような心地の良いモノだ。


紫苑は自分の視界にぼんやりと何かが見えた気がしたが、ぬくぬくとした心地よさに抗えずにその手触りの良いモノを引き寄せるようにして二度寝の体勢に入る。


「今朝は随分と大胆だな、紫苑?」


うつらうつらと微睡の中にいた紫苑の耳元でやけに色ぽい声で囁かれると、紫苑はその場で飛び起きる。


「っうぇ!?」


驚きのあまりに言葉にすらなっていない声をあげ自分の手が握るモノに視線を落とすと、そこには柔らかい朝日に当たり時折きらきらと美しく反射する一本の尾が握られていた。


恐る恐る握った尾の先を辿るとそこには少し乱れた寝衣を纏う月天の姿があった。


「紫苑?どうした?尾を触るだけでは物足りなかったか?」


あまりに妖艶に微笑む月天に紫苑は思わず顔を真っ赤にすると慌てて手に握っている月天の尾を離し距離を取る。


近くにあった肌掛けを手繰り寄せて真っ赤になった顔を必死に隠そうとしている紫苑を逃すまいと月天が距離を詰めるが、月天が手を出す前に寝台の帳が開けられ月天の手が止まった。


「月天様、お戯れはそれくらいに」


いつも通りの柔かな笑みを浮かべて現れた黄金に対して月天は小さく舌打ちをすると、黄金から少し乱暴に上着を受け取り着崩れた寝衣を整える。


紫苑は慌ててこの状況を弁解しようとするが、あまりの羞恥心で何をどう言えばいいのかうまく言葉が出ない。


「あの、これは誤解で!私たちは本当に何にもなくて!」


慌てふためく紫苑の様子を見て月天が少し傷ついたような表情を浮かべ着物の袖で口元を隠す。


「紫苑、それではまるで浮気現場を見られ必死に隠そうとしている者のようではないか……私たちの関係はそんなものだったのか?」


袖で涙を拭う仕草を見せる月天を見て紫苑は先ほどまで赤かった顔を今度は青くさせてどうしたものかと黄金と月天の顔を交互に見る。


そんな朝から紫苑を弄んで喜んでいる月天を寝室から追い出すように黄金は相変わらずの笑みを浮かべたまま月天に退出を促す。


「月天様、お遊びはその辺にしていただいて御支度をお願いします。今日も朝から夕方までぎっしり予定が入っておりますので」


「なんだ、つまらん」


月天は先ほどまでの態度を一変させると、状況を掴めずにきょとんとしている紫苑の額に軽く口付けをしてから部屋を出て行く。


「では、紫苑様も本日は天神祭の行事に侍女として同行する者達との面会がありますのでお支度を整えてしまいましょう」


ようやく回転し始めた頭で黄金の言葉を理解し、紫苑は慌てて寝台から降りて支度を整えるために部屋を後にした。





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