triangulate 終章 1

天水二葉桃

第1話

 


 聖一せいいちさんの実父が既に亡くなっているので彼が祖父から相続したというもう一つの彼の家に連れて行ってもらったのは春ごろのことだった。


 切り立った崖の上から大きな湖が見渡せるちょっとしたプライヴェースペースのような場所が裏庭を抜けて森の小道を辿たどった先にあるので、彼は私をそこに連れて行ったのだ。


 二人で緑の丘の上に立ち、向こう側に開ける大きな湖を眺めていたらなんだか不思議な気持になった。


 低い雲の隙間から光の筋がいくつか差していて、それらは天国への道のように見えた。


 水面を揺れるさざ波が光を跳ね返してはきらきらと光り、時折風が吹き抜けて周囲の木立を揺すって緑の葉がさらさらと揺れる音が微かにしていた。


 私は風景に溶け込んでしまうような感覚になり、時間を忘れてしまった。


 どれくらいそうしていたのかわからないけれど、隣にいる彼も何も言わずにただ向こう側を眺めているだけだったので、私はそのまま彼も湖も空も雲も光の梯子はしごも風も木々もみんなひとつに優しく溶け合うような不思議な心地の良い感覚をただ漂っていた。


 ふと気づいたら、隣にいる彼が私の手をそっと握っていて、私たちは手をつないでそのまま湖を眺めていた。私が彼を見上げると、気づいた彼が私を見て


「ずっとここに君を連れてきたかったんだ」


 と言った。


 光にふちどられて、彼の優しい穏やかな表情はとてもきれいに見えた。優しい光の円環に包まれているように、金色の光が彼を包んでいるみたいだった。私はなんだかそれに見とれてしまって、何も言わずに彼を見つめていた。


「ここに君と二人で立って、こうして一緒にここからの風景を眺めている、そういう夢をよくみたんだけれど、今日現実になった」


 そう言って彼は笑った。


「きれいなところだね」


 私がそう言うと彼はそうでしょう、と言うように微笑んだ。


 


 湖の見渡せる丘から森の小道を辿り木々のアーケードを抜けて裏庭に出ると、そこにはちょうど彼の仕事場兼住居の拡大版のようなログハウスがあり、そこが彼のもう一つの家だった。桜澤家にある彼の仕事場兼住居はここをモデルにして建てられたものだとのことで、確かに中のつくりなどもよく似ていた。暖炉のあるリビング、あたたかみのある空間、ここのリビングの方が少し広いのでアップライトピアノが置いてあったり、個室の数が多かったりしたけれど、ほぼ見慣れた空間のような感じで奇妙な既視感きしかんに襲われた。


 一応仕事でここに来ていたので、湖から戻るとすぐに私は倉庫に案内された。ちょっと埃っぽいそこにはたくさんの棚と箱に入れられた物凄い量の資料があり、それもまた仕分けして整理すると同時にスキャンしたりファイルに保存したりするのだが、とにかく量がものすごくてめまいがしそうだった。


「こんなとこにまだ隠してたんですか」


「いつか整理しようと思っていたんだけれど、いい機会だからお願いしようと思って」


 笑いながら言って、彼はちょっと咳をした。


「埃っぽいから掃除したほうがいいんだけど、今日はとりあえずこのケースの分だけリビングで仕分けしてくれればいいよ。今度来る時までに掃除しておくから」


「またここに来るの?」


「土日を利用してここに来ようかと思うんだけれど、どうかな」


「二日とも一日がかりになるってこと?」


「そうだね。行き帰りの時間も合わせると一日がかりになっちゃうけど。大丈夫かな?」


 私は目の前の資料の数に圧倒されていたので、むべなるかな、という感じでただうなづいていた。先が思いやられそうになるけれども、目の前のことを一つ一つこなしていけばなんとかなっていくものだ。そう、初めに彼の仕事場兼住居の資料の山を目の前にしたときもくらくらしそうになったけれど、いつの間にかそれらはほとんど片づけられ、残すところあとわずかとなっていた。とにかく手をつけ始めれば、あとはちょっとずつ何とかしていくだけなのだから。


 しかし目の前に膨大な資料の山を積まれているのをこの目で見ると、めげそうにもなるのは仕方ない。なんだか思わずため息をついていたらしく、笑われた。


「そんなにうんざりさせて悪かったと思うけれど、一度に全部やってとは言わないから。本当にちょっとずつ、できるところからやってくれれば助かるよ」


「もちろんやりますとも」


「そんなにはりきってくれなくてもいいから。今からそんなんじゃ疲れちゃうよ。のんびりマイペースにやってくれればいいよ」


 そう言われて、基本的に楽が好きな私は


「そうだね」


 とあっさり納得した。


 リビングで風の音や鳥の声なんかをBGMに、少し離れたところでノートパソコンに黙々と向かっている彼と一緒に仕事をしていると、何だかあっという間に夢中になっていて時間を忘れてしまった。室内は温かく、少し開けているガラス戸からは明るい陽射しが差し込み、風が草木のにおいや鳥の歌声を運んきたりする。雇い主は物静かでうるさいこと言わないし、最高の仕事環境と言ってもよかった。


 ケースいっぱいにある資料を仕分けしてスキャンしてファイルに保存して、と黙々と手を動かしていたら、いつの間にか西日が夕陽に変わりかけていた。


「ちょっと休憩して、散歩に行かない?」


 聖一さんがそう言ってコーヒーをテーブルに置いてくれたので、私は彼を見上げた。彼はコーヒーをすすりながらガラス戸の向こうをながめていたので、またあそこに行くのかな、と思いながら私は頷いた。切りのいいところで手を止めてコーヒーを飲んでから、また二人で裏庭を抜けて湖の見える丘まで歩いて行った。


「わあ、きれい」


 思わず感嘆かんたんの吐息を漏らすと彼は隣で嬉しそうに微笑んでいた。


 夕陽が空を美しく染めていて、揺れる水面にはきらきらと金色の光が反射し、辺りの草波までも金色に輝かせていた。湖に映る黄金の光だまりにそのまま飛び込んでいきたいような、そのままその光の中に溶け込んで消えてしまいたいような衝動に駆られた。自ら火のなかに飛び込んでいく虫はこういう逆らい難いような光源へのどうしようもなく惹き付けれてしまう心で命さえも投げ出していくのだろうか。何だかその気持ちも分かるような気がするなあ、とか考えていた。


 圧倒されるような美しい風景。その光の中に自分のすべてを投げ出して、小さな自分の何もかもそのからのすべてをて去り、解放されたい、大きなものへ溶け込んでいきたいという衝動。それは故郷へかえりたいという衝動のようなものなのかもしれない。生まれて来る前にいた場所。私たちがそこからやって来て、そこへと帰る、そんなところへの抑え難い郷愁きょうしゅうのような──


 なんとなくそんな奇妙なことを考えていたら、彼が私を見つめていた。


 また、あの透明な眼差しで。


 自分はなにものか、何のためにこうしてここに生きているのか、どこからきてどこへと帰っていくのか、それを覚えているか──そんな風に私に問うてくるような、不思議な眼差し。


「聖一さんはいつもそうやって私を見るんだね」


 私がそう言うと、彼は私を見つめたままで言った。


「僕がこうやっていつも君を呼んでいるのが、君にはわかるでしょう?」


 私は頷いた。


「初めからわかっていた。君にはそれがわかるはずだって。だからいつでも僕は君に呼びかけていたし、君も僕のことを呼んでいたんだよ。気づいているかどうかわからないけれど」


 自分も彼のことを呼んでいる、とは初めて知る事だったので私は少し驚いていた。


「僕は君を呼び覚ます呼び声でもあるけれど、君自身も僕を呼び覚ます呼び声だったんだよ」


 そう言って彼は視線を湖の方へ向けた。


「たぶん、僕らは同じ場所に還るための道しるべを互いに贈り合っていたのかもしれない」


 黄金の光だまりが映る水面を見つめながら私はそこに飛び込んでいきたい衝動に名前をつけた。郷愁ノスタルジー、と。


「あの光のたまり場のようなところ。あそこに飛び込んでいきたい、全部投げ出してあの光の中に溶けていきたい、帰りたい──あの光の中に帰りたい、どうしようもないような郷愁のようなものを感じるの。それは私の気のせい?」


 私が湖に映る黄金の光を指さして言うと、彼は笑うでもなく


「わかるよ。でも実際に飛び込んだら水の中に沈むだけだけど」


「そのくらいわかるって」


「そのどうしようもないような希求や衝動に駆り立てられて、僕らは自分が誰だったか、真実の自分へと還る道へと歩き出すんだよ。そうして気づいたらもう歩き始めていて、戻ることはできない。だからそのまま歩き続けていくしかない。その道のりはとても孤独なものだから、魂の仲間に出会ってしまうと、協力し合わずにはいられない。お互いの成長のために協力し助け合うことも組み込まれているんだろうと思うよ。きっとその道には」


 淡々とそう言って彼は私の手をそっと握った。


 二人でそうやって手をつないで黙ったまま切り立った崖の上に立ち風に吹かれていると、今がいつの時代でここはどこなのか、なんだかよくわからなくなってきた。何だかずっとこうしていたようなそんな気すらしてきた。何だろう、不思議な感覚。でもこれをあれこれと調べたり名前をつけて分類したりする気はなく、ただその感覚にまかせていた。


 


 


 


 土日のたびに聖一さんが車で午前中に迎えに来て夜に家まで送ってくれる、そんな週末をしばらく過ごした。エスカレーター式に大学生になってからはかいりくは実家を出てしまい、マンションで暮らすようになった。お隣には深夜まで両親の仕事関係の来客もいることがあったので、ちょくちょくそれまでもマンションに泊まり込んでいた二人にとってはそれほど生活が変わったという感じではないみたいだった。私は土日はバイトと家の往復で、彼らはマンションにいるためにすれ違う毎日が続いた。


 華やかな周囲と新しい環境で海と陸の周辺では恋愛の駆け引きやゲームが盛んに繰り広げられていたらしい。そうして自然に私たちの間には距離ができていった。お互いに新しい生活に入っていき、環境も時間の使い方も変わっていったために、それはゆっくりと自然なかたちで進行していったので、気づいたらもうだいぶ距離ができていた、そんな感じだった。陸には新しい彼女ができていたし、何だか私はその彼女とも仲良く友達になってしまっていたり、海の周辺にも女性の影がちらついているけれども、それはそれで私も干渉しないでいるみたいな、でもまだ友達以上で恋人でもあるような不思議な関係のままでいた。海と私は二人の関係にはっきりと何か形をつけることを避けているみたいな感じ。陸の方はわりとあっさりしていてすぐに友達に戻れたけれど、海との関係はちょっと複雑で微妙なままで続いていた。彼の方がどうしたいのかはっきりさせたくないみたいな感じで、私はそれに対して自分の立ち位置を決めかねたまま保留にしているみたいな感じだった。明らかに別の女性の影があるのだけれど(これはやはり女のカンというものか)、でもそれに対してどうこうしたいという気もない、自分でも自分の気持ちがよくわからなかった。ちょっとそれで気が楽になるようにすら感じているところもあったから。海のことは好きだし嫌いになったわけでもない。彼が別の女性と深い関係になっているような気配に嫉妬も感じないわけでもない。でもそれは淡い雪のようにすぐに溶けてなくなった。悲しみが降り積もっていくよりもそのときそのときで私の心に痛みを残しては淡く消えて行くので、次第に私はあまりそれにも自分から関わらないように、彼の事情に関しては切り離すようにしていった。干渉しないという態度で自分のするべきことに集中することを優先にしたかったのもある。


 平日の共同勉強は高校卒業とほぼ同時に終了していて、その頃から彼らから声をかけられる以外は私の方から彼らのところに行くことはなかったので、海と会うのは彼から思いだしたように連絡が来たとき以外はなかった。


 


 


 


 キイナと克己かつみくんは高校三年生の終わりごろには既に家族公認の恋人関係になっていて、聡子さとこ輝幸てるゆきさんは順調に付き合い続けていた。大学に進学してからはそれぞれにまた新しい友人関係に入っていったので三人でいることはほとんどなくなったけれど、それぞれに連絡はとりあっていたので近況なんかは互いに知っていた。バイトも私は桜澤さくらざわ家の敷地内にある聖一さんの仕事場に行くよりも、彼のもう一つの家の方に行くことが多かったので、自然にキイナとも距離ができていったのだが、聡子やキイナとは大学内で会えば仲良く話す、たまに一緒にランチをとる、そんな感じだった。お互いにそれぞれの新しい生活で忙しくなっていたのもあるし、私たちはそれぞれに楽しんでいた。


 大学に進学してから咲良さくらとまたちょくちょく会うようになった。相変わらずもてもてみたいでトラブルも絶えないらしいが、高校時代に比べて彼女は周囲からそれほど浮くこともなく、でも相変わらずマイペースに自由に毎日を楽しんでいた。


 海外に留学した葉月はづきとは会うことはなくなったが、たまにメールで連絡がきたので互いに近況を報告し合った。


 平日のバイトも聖一さんと待ち合わせして彼の車でもう一つの家の方に行き、また送られて帰る様な日が続いた。この頃では彼はもう殆ど桜澤家の敷地内の仕事場ではなくもう一つの家の方に住居兼仕事場を移していて、仕事に必要なものは殆ど移し替えていたようだった。


 街の喧騒けんそうから離れた自然の多い静かな場所で暮らすことを好んでいた彼にとってはそれは理想的な環境だったようで、何でも末っ子のキイナが高校を卒業するまではそばにいてあげるつもりで、元々はこうするつもりだったとのことだった。桜澤家の複雑な事情も少し知っている私としては微妙な感じだったが、こちらに移ってから彼がずっと快適そうに過ごしているようなのでこれはこれで良かったのだろうと思っていた。


 


 


 


 海が付き合っていた女性を妊娠させたらしい、と陸から情報が入ったときにはさすがにショックだった。そういう関係の女性がいるらしいのはわかっていても、実際にそれが紛れもない事実だとわかるのとではだいぶ違うものなのだということを改めて知った。どこか遠い国の物語のような遠い世界の出来事のように思われていた物事がはっきりとあらわになると、現実に向き合わざるを得ない事実となって立ち上がって来て、それにまず衝撃を受けたのだった。


 これはもう二人の関係をきちんと清算するべきときが来ているんだな──そう覚悟を決めていたところ、海から連絡が来たのでそのつもりで私は彼らのマンションで彼に会った。


 陸から伝えてくれるように言っていたのは彼自身だったので、隠すつもりはないけれど、私には直接話しづらいみたいな感じだったようだ。


 マンションには海が一人でいた。陸はどこかに出かけていたので不在だった。


「陸から聞いてるよ」


 私がそう言うと、海はなんだか暗い瞳をしていて、私をじっと見ていた。


 後ろめたいように思っているのかなあ、と何となく気の毒に思いながら(責めたい気持ちは何故かまったくなかった。自分でも不思議なほどに)、どうやってこのいつの間にかややこしくなってしまった関係を清算させる話を切り出そうかと考えていたら、海の方から相手は年上で以前から関係を持っていて、それで向こうが妊娠したので結婚を迫られているというようなことを話し出した。私はただ黙って時折頷いうなづたりして彼の話を聴いた。


 彼の言い分としては、妊娠と結婚は別物で、彼女がどうしても生みたいのなら責任をとって認知はするけれども結婚までは考えていないとのことだったが、彼女や彼女の家族が納得をせず、そうして自分の両親にもそれが伝えられてしまったので、双方から入籍をしてきちんと責任をとるように言われている、とのことだった。


 どうしても生みたいという彼女の意志が固いので、それならもう籍を入れてきちんとするように、というのが彼の両親の言い分で、海本人は認知をしてその後の費用も子供が成人するまで自分にできる限りは負担するつもりはあるけれども入籍まではしたくない、とのことらしい。


 何でこんな人生相談まがいの話を、まがりなりにもまだつきあっている恋人から私は聞かされているんだろうか。しかもこの年で。私たちはまだ18歳で、成人すらしていないというのに。何なんだこの展開は。


 奇妙な気分になったが、何だかあまりにも自分を置いてけぼりにしたかけ離れた世界の話を聴いているようで現実感がどうしても湧かなかった。ガラス越しの景色のように、それに対する質感が殆ど感じられないのだ。そんなわけで私は妙に冷静だった。


 別に怒ってもいなかったし、悲しんでもいなかった。


 後からそれらが嵐のように襲ってくるだろうことは何となくはわかっていても、とりあえずその場では、それらの情動は殆ど感じられなかったのだ。どこか遠くのほう、胸の奥で何かが騒いでいるような気配は感じる程度にしか、感じられなかった。


「海の話はよくわかったけれど、それは海自身の問題でしょう。周囲がどう言うとかではなくて自分で決めるしかないよ」


 私が淡々とそう答えると、彼は何故か傷ついたような表情をした。


 そうして私に訊いた。


神奈かんなはそれでいいの?」


 それで私はやっと、彼は私の気持ちをはかっているんだ、と気づいた。


 ぐるぐると何か言いたいような言葉が頭を駆け巡ったが、それのどれもがとりとめのないようなものばかりで、私は何を言っていいのかわからなくなった。軽くパニック状態になったのか、本当に何を言っていいのか、自分が何を考えているのか、自分でもよくわからなくなったのだ。


 黙りこんだ私を海はじっと見つめていた。


 私の表情や目の動きの一つも漏らさないように、観察するみたいな瞳で。


 それで私は何となく、ああ、もうだめだ、そう思った。


 海はどのような状況にあっても、私をコントロールしようとする野心は絶対に手放さない、何となくそれがわかったからだった。考えてみたら、この状況は私がもの凄く傷ついていても不思議ではないような状況なのだった。それなのに、その状況を使ってまで、彼は私の心を測ろうとしていた。


 それがもう無理だ、と私の決め手になった気がした。


「私がいいとかだめとかではなくて、海が自分で決めて。それから、私たちに関しては、もうきちんと終わりにするときが来ているんだよ」


 私ができるだけ静かに、彼を傷つけないように、責めるのではなく、と心掛けて優しい声で言うと、彼は私の目の前で静かに泣き出した。


 本当に静かに涙を流しだしたので、私が驚いた。


 この状況で泣きたいのはこっちなのではないか。


 なんだかそんな事もちらっと思ったが、実際には私は泣きたい気持ちにすらなっていないし、彼は目の前でただ黙って静かに泣いていたので、どうしようもなかった。


 何だか目の前の彼を抱きしめてあげたい気持ちにすらなっていて、私よ、しっかりしろ、と自分で自分を励ます始末だった。


 こういうときに情にほだされてはいけない。


 誰に教わるでもなく、確信のように降りてくるそれがなかったら、私はそのまま彼を抱きしめて彼の気持が済むまでそうしていたくなったかもしれないけれど、それでは余計に傷が深まるだけだとも何故かはっきりとわかっていたので、自分で自分を叱りつけるようにして私は何故かそこで耐えるほうを選んだ。


 うっかりここで手を伸ばしたら、そのまま彼の情動に巻き込まれて、自分を見失いそうでもあったのもある。それで私は距離を保ったまま、ただ彼が泣きたいだけ泣くのを見つめていた。


 海がひとしきり一人で涙を流すのを見つめて、それから私は彼に言った。


「私は海のことが本当に好きだったよ。今も別に嫌いになっていない。でも私たちのこの関係はもう終わりにするときが来ているんだよ。海がこの先どういう決断をするのかは、私には解らないけれど、それはあなたにとって必要な決断なんだから、それを私の気持ちでどうこうしようとするのはやめて。あなたの問題に無理に私を巻き込もうとしないで。ちゃんと自分で決めて。あなたはそれをちゃんと解っているはずでしょう?」


 彼は私をじっと見てうめくように言った。


「解っているんだけれど、どうしても気持ちが追いつかない」


「慣れ親しんだ関係から新しい関係に移行するまでの過渡かと期みたいなものだって考えたら?」


 私がそう言うと、彼はじっと私を見つめた。


「神奈はそれでいいの?」


「いいも何も、そういうものだって私自身が本当に思っているから、言っているんだよ」


「俺のこと怒っている?」


「怒ってない」


「嫌いになってない?」


「言ったでしょう。嫌いになってなんかないよ」


「じゃあ、まだ好き?」


 それで私はちょっと黙った。


 彼は私をじっと見つめていた。


 それから言った。


「ちゃんと答えて」


 私は黙ったまま頷いた。


 そうしたら、何故かそこで初めてぽろっと涙が出てきた。


 そのまま黙ってぽろぽろ涙を流している私に、彼はそっと手を伸ばして、優しくためらいがちに抱きしめてきた。


 ああ、これでここまでせっかく耐えてきたのに、全部だいなしじゃないか。


 何やってんだよ、私は──


 そんなことを思いながらも、一度泣き出してしまったらもう自分では止められなくて、抱きしめてくれている海にしがみついて私は泣いていた。ただ泣きたいから泣く為だけに泣いているみたいな涙だった。


「お願いだから、今日はもう帰らないで。ただそばにいてくれるだけでいいから。ずっとここに一緒に居てほしい」


 海に言われるままに、私はそのままマンションに泊った。


 何も余計なことは考えないようにして、ただ以前のように一緒にご飯を作ったり、陸が帰って来てからは三人でまた仲良くゲームをしたりDVDを観たりして過ごして、できるだけ(必死に)楽しく過ごした。それは何だか痛いような時間だったけれど、久しぶりに楽しかったのも事実だった。陸は私と海のそんなあまりの痛々しさに耐えられなかったのか、出かけてくると言ってそのまま翌日の夕方まで戻って来なかった。


 海と私は夜眠るときには別々の部屋におやすみ、と言って別れたけれど、夜中に海は私の泊っている部屋に入ってきた。物音で目を覚ました私に、既に入室していた海が静かに近づいてきて


「抱きしめて眠りたい。それだけでいいから」


 と言ってベッドにそのままするりと入ってきた。私は疲れていたので、そのまま海の胸に押しつけられるように抱きしめられながら、すぐに眠り込んでしまった。海が私を抱きしめながらまた泣いているのに気づいてはいたけれど、気づかないふりをした。本当に疲れていて、眠かったのもある。


 翌朝、彼の腕の中で目を覚ましたら、隣で彼はすうすうと健やかな寝息をたててぐっすりと眠っていた。しばらくあたたかいその胸に頬を押し当てるようにして彼の心臓の鼓動を聴いていた。規則的に響く彼の心音を聴いていたらまたすぐにまぶたが重くなり、私はまたそのまま眠った。


 結局私たちはものすごくぐっすりとよく眠ったようで、ベッドから起き出したのは午後の陽射しが少し傾き出してきてからだった。


 


 


 


 何でこんなことになってしまったのか、いつしか距離ができていたはずの私と海はまた離れがたいように一緒に過ごす時間が増えていた。でもそれはある意味で私にとっては生き地獄みたいなものだった。一緒に過ごしている時はできるだけ何も考えずに、お互いに穏やかに楽しく過ごせるように心がけたし、実際に楽しかったけれど、その分離れた後に襲ってくる色々な自分自身の複雑な感情に私は苦しめられた。海の内側に燃え盛るような得体の知れない暗い情熱に引きずられるようにして、彼の問題に深く巻き込まれていくような不快な感覚も私にはあった。でもどうしようもなかった。自分からそこを脱け出すことができずに、むしろ自分からそこに巻き込まれに行っているようなもので、天国と地獄を一日に何度も行ったり来たりするような、そんな感じだった。海とその相手の女性のことに関しては、私は何も知りたくなかったし、聞きたくなかった。海が自分から私に話してくる以外は自分からは聞かなかったし、それについて考えたくなかった。


 以前のように海と陸のマンションに泊まりに行って、一緒にご飯を作って食事をしたりして、私にあてがわれた部屋で海と一緒にただ眠る。彼は私との間を特に詰めてこようとはしなかった。抱きしめてキスするとかそれ以外では何も手は出さなかったし、何だかそれが当たり前のようになっていたので私もそんなものかと思ってその関係に慣れてしまっていたのもある。


 でもそんな中で、私は少しずつ確実に消耗して疲弊ひへいしていった。


 食欲が落ちてだいぶ痩せてきた頃に、心配した陸から、もう海とは別れるようにとさとされる始末だった。海の相手の女性は着々と出産に向けて準備を進めていて、海がどんなに抵抗しても、結局は押し切られるだろう、それほどに向こうは揺るぎない構えでいて、仮に海の言うとおりに認知だけで済ませたとしても、そこから先も何らかの関わりを持ち続けることになる。どうしても私の方が分が悪すぎる、との意見だった。


 だいたい、まだ何も決着がついていない進展してない段階から私自身が既にこんなに消耗しているのが何よりの証拠だと言われた。一旦別れて、お互いにそれぞれすっきりとしてから、また考えてみたらどうか、とまで言われてしまった。


 それでさすがに自分でもこのままではまずい、お互いに良くないと思いたち、海と別れようと決心してその話を切り出そうとすると、不思議なことに彼はその雰囲気だけで察するのか、それとも本当に偶然なのか、その度に彼はかなりの高熱を出して寝込んだ。それでその日からしばらくはとにかく看病することで時間が過ぎてしまう。あまりに何度もそのようにタイミングよくそうなるので、神様がまだその時期ではないと言っているんだろうか、とかまで真面目に考えてしまったほどだった。


 その頃から私は、不思議な奇妙な夢を見るようになった。


 どこか深い森のなかで誰かと待ち合わせをしていて、その為に少し早足で、ちょっと待ちきれないような気持ちで、その場所へとわくわくしながら向かっている。どきどきして自然に駆け足になる。そうしてその相手と会えたとき、それは手を振って微笑んでいる見知らぬ少年の姿をしているけれども聖一さんであることが何故か私にはわかった。私たちはお互いにまだあどけない子供の姿をしていた。男の子どうしでとても仲良しのようだった。そうして何か私たちは一緒に熱心に色々なことを語り合ったりして、別れる時に、「また明日の朝ここで」と言って別れる。そうしてお互いに森のなかの小径こみちをそれぞれに手を振って別れて元来た道を歩いて戻る。


 ただそれだけなのだけれど、ものすごく色々なことを語り合ったような満足したような気分だけが残る。内容が何だったのかはすっかり忘れているにもかかわらず。ただ自分の言葉にできないような日常の気持ちの全てをわかってもらっているような、そんな安心感があったのだった。


 そんな奇妙な夢を見ていることを聖一さんに話したことはなかった。


 夢を見ると、ああ、またあの夢だ、とすぐにわかるけれど、夢から醒めて日常に戻るとすぐに忘れてしまうのもあったし、それほどそれに気に留めていなかったのもある。何といっても現実の方が悲喜こもごも含めて、物凄い勢いでどんどんと新しい何かを次々に私に迫ってくるような毎日だったので、それで精一杯という感じだった。起きてくる出来事に対して自分がそれについてどう感じているのかどう考えているのか、それすらじっくりと考えるひまがないくらいに、毎日どんどん押し寄せてくる波を何とか乗りこなして毎日が過ぎていく。今となってはあの頃に自分は一体何を考えて何をやっていたのかほとんど記憶にないくらいだ。ただ必死だった、それだけの毎日。でも楽しいこともあったし、悲しいこともあった。ただそれらのすべてが過ぎ去った今では、いったい何だったのだろう、と夢を見ているみたいな気分で、何だか遠い見知らぬ人の出来事のようだ。


 ただ繰り出される現実からの要請に応え続けるだけの毎日。そんな時期が過ぎ去って、気づいたらもう以前と全く違う地点に自分はいつの間にか押し出されている。何かがそこで終わって、次のステージに気づいたらもう立っている。始まっている。そんなような感じだった。


 色々と面白い人たちとも知り合ったし、仲良くなった。彼ら彼女らとの関係はそれほど深まることはないけれども新鮮で楽しいものではあった。何というかカルチャーショックから価値観の思わぬ転換まで幅広い(?)交友関係ではあったので、視野が広がったり、今まで苦手と思っていた物事や人を好きになったり、今まで良いと思っていた物事がつまらないように感じたり、自分自身の内面でも変化の多い時期だったように思う。


 


 

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