ひと夏の人喰い神獣

佐武ろく

第一章 人喰い神獣

人喰い神獣1

 これはまだ幼かった私が体験したひと夏の不思議な想い出。




 当時七歳だった私は父方の祖父母の元へ家族で向かっていた。記憶に残っている限りでは三度目となる祖父母の家は、幼い私にとってちょっとした旅行でとても楽しみにしていたのを今でもよく覚えている。しかも今回は父が仕事を調整し一週間ちょっともいられるらしい。

 そんな祖父母が住んでいたのは、真口島まくちじまという小さな島。

 そこまではフェリー(と言っても小型だが)で向かうのだが、最初にはしゃぎ過ぎた私は島に着く頃には夢世界を冒険していた。


「――あ。乃蒼。起きなさい」


 母に体を揺すられ目を覚ました私は寝ぼけ眼を擦る。おまけに欠伸もひとつ。


「降りるわよ」

「ぅん」


 腑抜けた声で返事をしながらお気に入りのショルダーポーチとリュックを背負い、母に帽子を被せられる。その後、はぐれないようにと母と手を繋ぎながら父の後に続き、数人の乗客とフェリーを降りた。サングラスをかけた二人組の男性や老夫婦、年配の女性や男性など色んな人がいたけど子どもは私だけ。

 下船後、私たちは迎えに来てくれていた祖父母と合流した。両親と二、三言葉を交わした後に祖母は私の方を向き皺くちゃだがとても優しく温かな笑みを浮かべた。


「乃蒼ちゃん元気にしてたかい?」

「うん! ばぁばは?」

「まだまだ元気一杯よ」

「それにしても大きくなったなぁ」


 祖父はそう言って私の頭を少し雑に撫でた。


「私もう大人?」

「そのためにはまず、小学校を卒業しないとな」


 私の問いかけに父が答えるとみんな「そうだな」と口を揃えながら頷く。

 母は「心配しなくてもあっという間に大人にはなれるわよ」と言っていたが私はその時、小学校の卒業ですら果てしないものに感じていた。同時に大人になるのは大変なんだと、本当に大人になる日は来るのだろうかと少し不安な気持ちにもなっていた。


「それじゃあ行くとするか」


 この年にしてもう将来に不安を抱えてしまった私だったが祖父の言葉に一旦その不安は他所へ置き、すぐ傍に停められていた車に乗り込んだ。

 そして祖父の運転で走り出した車は真っすぐ祖父母の家へと向かった。


「よーし! ついたぞー」


 家に着き両親の後に車を降りた私は誰よりも先に玄関へと走り出した。

 いつも通り玄関に鍵は掛かってなくてガラガラとドアが開く。祖母が言うにはこんな小さな島に泥棒はいないから大丈夫だとか。だけど私は祖父母の家というのはどこもそうなんだと勝手に思い込んでいた。

 ドアを開け玄関に入るとまず大きく息を吸う。祖父母の家の匂いが肺一杯に満たされると今年も来たんだなと実感できる。私はその瞬間がたまらなく好きだった。畳や柱などに長い年月をかけて染み込んだあの独特の匂いは子どもながらにどこか落ち着き安心する。

 深呼吸をして今年も祖父母の家に来たんだと感じた私はサンダルを脱ぐために玄関へ腰を下ろした。

 そして私がサンダルを脱ぎ終える頃には、玄関へやって来ていた両親も靴を脱ぎほぼ同時に家へと上がった。だが上がってすぐに走り出した私は再び両親に差をつけて奥の部屋へ。襖を開けると何もない畳の部屋が眼前には広がった。何もないただの畳部屋。

 だけど私にとっては毎年寝泊まりする懐かしさと馴染みの詰まった部屋だった。


「入り口で立ち止まってないで早く入りなさい」


 後ろから母に軽く背中を押されながら部屋に入るとリュックを背負ったまま障子を開ける。縁側を挟んだ向こう側に広がる裏庭は家で見ることはないからかいつ見てもテンションが上がる。


「乃蒼。リュックぐらい下ろしたら?」

「はーい」


 母に言われリュックとポーチを荷物がまとめられた所に下ろす。


「にしてもいい天気だなぁ」


 私が開けっぱなしにした障子から縁側に出た父はガラス戸を開け蒼穹を見上げながらそう呟いた。

 そんな父の隣に並んだ私も父を真似るように空を見上げる。色々な青の中でも一、二位を争う程に綺麗な青色の空には美味しそうな雲がいくつも浮いていた。いつも見るのと同じはずなのにここから見る空は何故か一段と綺麗に見えるのはなぜだろうか? その疑問の答えは今でも分からない。


「よし! 海でも行くか」


 頭上に疑問符を浮かべながら空を見上げていた私だったが、父のその言葉に関心は一気に別の青へと持っていかれた。


「行く! 行く!」

「お前はどうする?」


 後ろで畳に座る母はそう訊かれると少し考えてから返事をした。


「折角だし行こうかな」

「よーし。じゃあみんなで海に行くか」

「わーい! 海だ!」


 海に行けることが嬉しかった私は真っ先に部屋を飛び出し玄関へと走り出す。


「あんまり走ると危ないぞー」

「玄関で待ってなさいよ」


 両親の声を聞きながらあっという間に玄関まで来た私はすぐにサンダルを履き終え、ドアを開けると二人が来るのを待った。それはほんの数秒だったが当時の私にとってその時間はとてもとても長いものに感じた。もう置いて行ってしまおうかと思ったほどに。

 だけどそれをうずうずしながらも耐えて両親を待ち、その姿が見えると待ちきれないと飛び跳ねて体を動かしながら叫んだ。


「もう早く! 早く!」

「はいはい。ちょっと待ってね」


 母は軽くあしらうように返事をしながら手に持っていた帽子を私の頭に被せた。


「あっ! 日焼け止め塗るの忘れてた」

「それに入ってないのか?」


 父は母の持っていた小さなバッグを指差す。


「別のに入ってるのよ」

「まぁでもそんな長居はしないから大丈夫だろ。それに君の娘さんは待ってはくれないぞ」

「早く行こうよー」


 一分一秒でも早く行きたかった私に母は諦めた様子を見せサンダルを履く。

 そして父は靴箱を開け、私は母と一足先に外へ出た。


「いやぁー! 気持ちいなぁ」


 遅れて出て来た父は空から降り注ぐ夏の眼差しを浴びながら大きく伸びをした。


「パパ早くー」


 急かす私の声に少し早足で横へ父が並ぶと私は手を伸ばした。そして右手は父と、左手は母と手を繋いだ私は上機嫌で海への一歩を踏み出す。

 それからまるでこの世界に残されたのは私たちだけなんじゃないかって思うぐらい人も車も通らない道を三人で並んで歩いた。激しい陽光に照らされ汗が滲むが両親に挟まれた心躍る道のり。楽しさの所為か祖父母の家を出てからどれくらい歩いたのかも分からなかったが、段々と風に乗って運ばれてきた磯の香りが海までもう少しだと教えてくれた。

 そして更に少し歩くと私の目の前には待ち望んでいた景色が。満天の星が輝く夜空にも引けを取らないぐらい煌びやかで茫洋とした青い海がそこには広がっていた。


「わぁー」


 初めて見た訳じゃないけど何度見ても綺麗なその海に気が付けば声を漏らしていた。この時多分私は、目をキラキラと輝かせて海を見ていたと思う。それは子どもだけじゃなくて時折大人も見せる心が感動に満たされた時、無意識にしてしまう表情。この海にも負けず劣らず輝く煌びやかな表情。そんな表情を私は浮かべていたんだと思う。

 そして私は花の蜜に誘わる蝶のように両親の手を離れ海へと走り出した。


「奥まで行くなよ!」


 父のその言葉は一応聞こえていたけど頭には入っていなかった。道から階段を下り走りづらい砂浜を駆ける。私は青色が一番好きだ。二番目は白。多分それはこの島の綺麗な空と海が大好きだったのが大きく影響してるのかもしれない。

 短い砂浜を真っすぐ走った私はサンダルのまま海へ足を潜らせた。太陽の下に居るだけで汗が流れる暑い日というのもあるだろうが、足を包み込む海水は冷たくて気持ち良い。

 そんな海水を手で掬い放り投げてみると、宙に舞った雫たちは太陽の光を浴び宝石のように輝く。私はそれが綺麗で楽しくて何度も掬っては放り投げた。

 すると突然後ろから体を持ち上げられ私も雫のように宙を舞った。


「パパとも遊んでくれー!」


 父は私を掲げたままぐるっと一回転するとそっと地面に下ろした。

 そんな私を迎えるようにやってきた波が足を包み込む。


「よーし! 何して遊ぼうか?」

「んー。お城作りたい!」

「じゃあでっかいの作ろうか」

「ママも手伝って!」

「いーわよ」


 それから家族三人で空が夕日に焼けるまで遊んだ。その時間は今でも鮮明に思い出せる。

 だけど楽しければ楽しい程に時間は一瞬で過ぎ去るのが世の常。


「そろそろ帰るか」

「えー。もっと遊ぶ」

「心配しなくてもこれからいっぱい遊べるんだぞ」

「それにおばあちゃんが美味しいご飯作って待ってるから帰らないとね」


 まだまだ遊び足りなかった私だったが渋々と頷き立ち上がる。

 そして手足に付いた砂を簡単に洗い流し階段を上がった。


「パパ肩車してー」

「いいぞ。ほらっ!」


 肩車を強請る私に父は快く答えると目の前にしゃがんでくれた。私が首に跨ると父は脚を両手で支えながらゆっくりと立ち上がっていく。私の視線はそれに合わせてどんどん高くなっていき、父が立ち上がる頃には、世界が変わって見えた。いつもとは全く違う高さから見下ろす海は夕日とオレンジ色の空も相俟ってとても――とても綺麗だった。

 それは私にとってどんな高い山頂から見る絶景にも劣らない景色。その景色は心にもしっかり刻み込まれたのは間違いない。

 そして私はそのまま家まで父の肩に乗っていた。

 家に帰ると三人でお風呂に入り(祖父母の湯舟は大きいのだ)祖母と途中から手伝った母が作った夕食をお腹いっぱい食べた。刺身や煮物など魚を中心とした料理は匂いだけで美味しいことが分かる程だったが、実際口に運べば子どもの想像など簡単に跳び越えてしまう。

 そして何度も満足に満たされたその日に別れを告げた私はあっという間にぐっすりと眠りについた。

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