第9話 世界の在り方

 胡蝶は獄幻家の本家に来ていた。

 時間と空間を断絶する廊下を一人、歩いていく。お付きの者もここまでは入ってこれない。


 と言うのもここは、特性魔法式・時空回廊と呼ばれる一種の異空間だ。


 時間と空間を隔てた、世界の理の外に繋がる回廊は資格の在る人間のみが通ることのできる。最もまれに、招かれざる、資格なきものも足を踏み入れることができる。


 胡蝶はどちらかと言えばその、招かれざるものの方だ。自力で時空回廊を引き裂き、正しい道を開き、その茶室の襖を開いた。

「……相変わらず手荒いな。胡蝶」

 立葵は澄ました顔で茶を啜りながら出迎えた。

「おう、久しぶりだなジジイ。まだくたばっちゃいねえようで残念だ」

「カカッ。そう簡単にくたばれるものか。胡蝶。人は長生きすればするほど、命への執着が強くなるものだ。よく、覚えておけ」

「けっ。そういうもんかよ。ほらよ、ジジイ。ほしかったのはこれだろ?」

 座布団に胡座をかくと持ってきた遺物を投げて寄越した。


 白いハンカチがほどけて、畳の上に現れたのは、一本の銀でできたような枝だった。折られたにも関わらず桜のような花をつけた枝を、立葵は嬉しそうに持ち上げる。

「ああ、そうだ。儂がほしかったのはこれだ。天寿の枝……その嘘偽りなき原点だ。お前も分かるだろう、胡蝶。これがどれ程の魔力を含有し、どれ程の代物なのか」

「ま、食ったら生まそうだよな」

「くく、そう来たか。お前にこれをくれてやってもいいんだがな。だがお前にも選ぶ権利があるだろう」

「ジジイにしては殊勝な心がけじゃねえか。今後も励め」

「態度がでかいな……」

 この老人に払う敬意があるならば、胡蝶はそれを蟻に払う。老人の方が偉いとかそんなわけがない。

「どれ、なにがほしい」

「〈禁忌七宝〉の〈刻世こくせの万年筆〉」

 胡蝶は少しも躊躇わず、迷わずにその名を口にした。立葵は指先を折り曲げて、異空間からそれを取り出した。


 禁忌七宝と言うのはその名の通り、使用を一般的に禁じられた七つの魔法道具だ。世界改編・世界再臨を起こす可能性を帯びた七つの道具。


 黒い化粧箱を胡蝶は開く。見た目は蝶の模様の刻まれは、凡庸な万年筆だ。だが異質な魔法がその表面を覆うように刻まれているのが目に取れる。

「使い方は分かるな?」

「ああ。しかし、蝶の模様っつーのは因果を感じるな」

「儂らにとって蝶はひとつのシンボルよ。お前が思うよりお前の名は深い意味を持つ」

 この万年筆は万年筆だけでは意味がない。書いたことを真実にする万年筆。勿論、多くの制限があるがそれでも。

「…………万一の保険に、な」

 影の中に万年筆の化粧箱を落とした。水銀が飲み込んだのを確認する。


「……儂は天才魔法師だ。世間がそういうし、儂もそうであると自負しておる」

 最早使えなくなった七宝のひとつ、天寿の枝を見ながら立葵は口を開く。

「事実このように時空の果てに封じられ、俗世への干渉を制限されようとも、我が力は衰えることなく。人間社会の保存に尽力し、常に細波として変化を与え続けている」

 立葵は今最も優れた、人間の魔法師だ。彼がどのような魔法を使うかは胡蝶も知らないが、少なくとも胡蝶が太刀打ちできる相手ではない。


「だからこそ常々思っておった。この力の全てを、儂は試してみたいと」


 政治にも人間世界の保存にも、最早興味がない。この老人は純粋な少年のごとく、ただ、己の力の極みを試したいと思っていた。

「だが儂には遅かった。それができるようになった時には、もう既に人間の中の異端となり、輪から外れていた」

 ただ一人、寿命すら超越し、人であるのか人でないのかを忘れ、没頭した先にあったのは無論、孤独と孤高だ。

「胡蝶。お前は分かるだろう。観測されることが痛い。そこにあるだけで苦痛を伴うお前ならば」

 胡蝶は黙ったまま立葵を見つめる。


 超越し輪から外され孤高の意味を知った老人と、輪の内に入ることで苦痛を伴う孤高の存在。この茶室に残ったのはそういうものだ。

「お前も分かるだろう。お前は儂の作り出した最高傑作だ。故に常に肌身で感じているはずだ。この世界の有り様を」

 立葵はただまっすぐと胡蝶を見つめる。まるで相手が同じ視点にあることを、確信しているかのように。


「この世界には大きなひとつの流れがある。それは大いなる円環。魂の輪。世界のカタチだ」


 そしてそれは、優れた魔法師であればあるほど、それをより身近に、より正確に把握することができる。


「水が海から蒸発し、雨雲となり、都市を濡らし、川へと還り、川が海へと流れ込むように……この世界もまた、大いなる流れの中で揺蕩っているに過ぎん。人の生死すら、な」


 魂もまた、水と同じようにただひとつの大きな、偉大なる円環を描いている。世界の形は真円なのだ。淀みなく、狂いなく、歪みなく、ただ廻り続ける円環。


「魔法もまた、円のカタチを描く。角ではない。何かが突出しているのではなく、ただ淀みなく、歪みなく、延々と廻り続ける円環。それこそがこの世界の有り様だ。故に理解しているだろう。国が興るのも、滅ぶのも」

 人が死ぬのも、生きるのも。


 悲しみも、怒りも、喜びも、苦しみも。絶望さえも、この流れの中では些細なもの。いずれ全ての苦しみは大いなる流れへと還元されていく。


 それがよいことでも、悪いことでもだ。

「そして儂はその大いなる流れから弾かれた者だ。突出したものは流れには必要ない。そしてお前はその逆よ。儂の持ちうる全てを注ぎ込み、全てを使い作り出した最高傑作。女神を作ると言う目的からすれば欠陥品だが、儂の全ての力を有したお前はいずれ、儂を殺すものになり得る」

 だからこそ、流れの中にいるのは苦痛だ。


 胡蝶は流れの外にあるはずの者。人ではないが、精霊ほど純粋ではなく、神ほど高見にはいない。

「儂がその視点を保有するのに二千年かかった。お前は僅かに五年でその視点を得た。当然だ。お前は今の儂の性能とほぼ同等の力を有するように設計されているのだから」

 流れていく。世界はただ、とうとうと流れていく。

「まあ、あまりにも素晴らしい魔法師として作りすぎた故に輪の方がお前を外に出そうと必死だがな。どうやろうともお前は苦痛を覚え続けている」

「だがジジイ。私は檻の中にあることを選ばねえぞ。それがどんなに苦痛を伴っても」

「そうだ。だから胡蝶よ。せいぜいその様に生きろ。人であろうと努力するお前は素晴らしい。人であろうと足掻くお前は美しい。見た目の話じゃないぞ。無論見た目も儂の理想の形をしているからに、美しいのは当然だが」

 けっ、と悪態つく。この老骨は胡蝶を廃棄したことに一切の悪びれを感じていない。そして輪から外され、世界の外側にいようとも、まるで内側にあるかのように永遠と影響を及ぼし続ける。


 殺せる、なんていうが胡蝶のビジョンにそれは含まれていない……と言うよりも想像ができない。


 要するにこの男は自分のできなかった、能力を全て用いると言うのを胡蝶で表現することにしたのだ。胡蝶に己の能力を全て刻むことで、それをなしたのだ。

「ま、最早死ぬこともできなくなるとは思わなんだ」

「くそが。ほんとあんたはくそだ」

 コピーはオリジナルには叶わない。

 例え神憑りのような力を持っていても、胡蝶が立葵に勝つことだけは決してない。


 鹿威しが傾く。

「……だからこそ分かるだろう。全てのものには作られただけの意味がある。その万年筆もそうだ。使うことをどんなに禁じようとも、この万年筆はいずれ役割を果たす定めだ。その様に作られたのだからな」

「天寿の枝と同じように?」

「そうだ。さ、これ以上爺の話を聞きたくなければとくと去れ」

「言われなくてもそうするっつーの」

 立ち上がった胡蝶を立葵は無言で見送る。

 その先にある地獄を見据えているかのように。

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