23 隣にいてほしい人 ②



 深く重たい溜め息を吐く。

 普段よりも熱を持った吐息が、馬車の中の冷えた空気に溶けていく。


 結局、熱を出した翌日は一日休息をとり、一晩明けてから宿舎を出発した。

 熱は下がりきることはなく体調も万全とは言えないが、あまりゆっくりしているわけにもいかない。


 風邪をうつす危険性も考え、シェラとは別々の馬車で移動することにした。彼女も体力が落ちているだろうし、ルーゼと一緒の方がなにかと楽だろう。


「後悔しているのかい?」


 向かいに座るハランシュカが、唐突に聞いてくる。その表情からは、先ほどまで浮かべていた苦笑は消えていた。


「何を」


 気だるげな視線を向けて、問い返す。


「彼女を攫ってきたことを」

「…………」


 無言で返すと、目の前の男は瞳を細めて言った。


「僕は後悔しているよ」


 ひんやりとした空気が肌を撫でる。

 この冷たさは冬の冷気のせいか、それとも二人の間に漂う不穏さ故か。


「僕らにとっての一番は君なんだ、ルディオ。今回は風邪をひいた程度で済んだけど、次にまたあんな無茶をするようなら、今度は首輪でもつけて鎖に繋いでおくしかないね」


 物騒なもの言いに、溜め息を重ねる。

 己の立場を考えれば、ハランシュカの発言は決して間違ってはいない。


「まさか僕の言葉をきっかけにして、呪いを発動させるなんてねぇ。いやぁ失敗したよ」


 皮肉げに言うその様子に、今度は黙っていられず抗議の言葉で返す。


「自分は好いた者と一緒になっておいて、私にはあきらめろなんて言うんだから当然だろ」

「君が本気だったのが意外だけどね。正確には、本気になってしまった、かな?」


 ハランシュカの視線を避けるように、床を見る。


 言われなくてもわかっている。

 自分が一番、驚いているのだ。


 彼女を攫ったのは、利己的な理由にすぎない。

 ヴェータの王女を娶ることは、アレストリアにとっては利がある。婚姻はあくまでも政略的なもので、それは彼女だってわかっていたはずだ。


 でも、初めて会った日の、グラスを片手に死を前にした彼女の顔が、ずっと頭から離れなかった。

 己の運命を恐れるでもなく、嘆くわけでもなく、ただ受け入れる。


 あの時の美しくも儚いその姿が、目に焼きついて離れなかった。

 今ならわかる。

 きっと、あの一瞬で魅せられたのだ。


 それからともに過ごす短い時間の中で、急速に落ちていった。

 夜会の日、己の胸で泣く彼女を見て、他の誰にも渡したくはないと、どこにも逃がしたくないと思うようになっていた。


 己の気持ちを完全に自覚したのは、彼女が川に落ちた時だ。

 体質の影響から、普段は何があろうとも冷静でいられるように訓練していたのだが……


 ――あの時だけは、違った。

 ただがむしゃらに、彼女を助けなければと思った。絶対に失いたくはないと。




 身体は勝手に、己の望むままに動き出す。


『シェラ、いま行く!』


 橋の欄干へ手をかけ、身を乗り出そうとした時、友人である男が止めに入った。


『やめろ、ルディ! あの娘は十分役に立った! 今後君の隣にいるのは、彼女じゃなくてもいいだろう!?』


 彼女じゃなくてもいい?

 何を馬鹿なことを。


 彼女じゃなくてはだめだ。

 私の隣にいるのは――シェラ、君がいい。


『君と彼女、どちらがアレストリアにとって大切なのかわかるだろ!?』


 ああ、うるさいな。

 いい加減に――


『黙れ』


 心の奥底へと沈めていた感情がわき上がる。

 思いのままに解放すると、己の身体は人の姿から別のものへと変化していた。


『ルディ……!』


 最後に自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、その後のことはよく覚えていない。

 気づけば彼女の身体を岸へと引き上げていた。

 慌てて駆けつけきたルーゼや騎士たちに託し、すぐにその場を去る。


 それから夜が明けるまで、川沿いの森の中で一晩を過ごした。この姿では、人前には出られない。


 寒さと不安の押し寄せる中で、一晩中考えていた。


 彼女を側に置いたのは、成り行きともいえる偶然だ。

 身の保護を条件として、シェラという人物を利用する。ヴェータとの条約を締結させる上で、これほどに使えるものはない。

 自身の目的のために、お互いを利用する。ただ、それだけの関係。


 それだけで、よかったはずなのに……


 人気のなくなった川岸で、水面を覗く。

 月明かりに照らされて、ぼんやりと己の姿が映り込んだ。

 そこにいたのは、黄金色の体毛に覆われた、長いたてがみを持つ獅子。

 恐ろしい、獣の姿。


 彼女との婚姻を結ぶ上で、最悪この姿を知られても問題はないと考えていた。

 服毒の件から見ても、彼女が訳ありなのは明らかだ。

 きっと自分の夫が恐ろしい獣の姿に変わるとしても、逃げる場所も行く当てもないだろう。


 もともと情があったわけではないし、嫌悪されたところで、思い悩むこともない。

 形だけの夫婦を続ければいいだけだ。

 

 ――そう、考えていた。


 だけど、今は違う。

 この忌まわしい体質を、彼女はどう思うだろうか。

 なじって貶して、私を恐れるだろうか。


 獣の姿に変わるだけならまだいい。

 しかし、自分が抱えているものは……それだけではない。


 溜め息をつくように息を吐き出すと、鋭い牙の間から漏れ出た空気が、冷気によって白く変わっていく。この姿であればある程度寒さは凌げるが、さすがに水に浸かったあとでは体力の低下が著しい。


 そのあとは森の中に戻り、木陰で丸まりながら朝日が昇るのを待った。




「あんなところで呪いを発動させるから、後の処理が大変だったんだよ? もともと一般人は遠ざけていたからよかったけれど、あの場には特務隊じゃない騎士も沢山いたからね。口止め料は経費から落としておくよ」


 あきれた声でハランシュカが言う。

 この獣の姿に変わるというアレストリア王家の呪いは、ごく一部の者しか知らない。


 あの時橋の上で目撃していた者の対応については、朝になってルディオが戻った頃には、ハランシュカがあらかた終わらせていた。

 最終的には王太子自らが事情を説明したのだが、完全に口止めするには、ある程度の代償は支払うことになるだろう。


「経費ではなく私の私財から落としてくれ。好きに使って構わない」

「なら、そうさせてもらうよ」


 ハランシュカはくすくすと笑いながら頷いた。

 それからまっすぐにルディオを見て言う。


「それにしても、君が本気になるなんてねぇ」


 面白そうに言うその声に、治りかけていた頭痛が再発する。

 先のことを考えると、痛みは増していくばかりで。身体のだるさも、また酷くなったような気がした。


「どうだい? ミイラとりがミイラになった気分は」


 そんなものは決まっている。


 ああ、本当に――


「――最悪だ」


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