1章
2 さらわれた先で
早足で石畳の上を歩く、複数の靴音が聞こえる。
周りを歩く騎士たちは、みな険しい顔つきをしていた。
腕を引かれ辿りついたのは、主城から少し離れたところにある離宮だった。
アレストリアの王太子を迎えるにあたって、ヴェータ側が用意した宿だ。ヴェータを訪れる条件として、アレストリア側が離れを丸々貸し出すことを要求したのだ。
幸い使っていない離宮があったので、主城からも歩いていける程度の距離にある、この場所を使用してもらうことにしたらしい。
アレストリアから連れてきた騎士や使用人も、全てこの離宮に寝泊まりしている。
建物の周りには厳重な警備が敷かれていた。
敵国ともいえる相手の本拠地に乗り込んだのだから、用心を重ねるのも当たり前だろう。
警備をしている騎士の横を通り抜ける。建物に入り連れてこられたのは、離宮にあるサロンと思われる一室だった。
「おや、早かったね」
中央にあるソファに腰かけ、ティーカップを手にしていた人物が声をかけてきた。
顎の下あたりまで伸びた癖のある髪は、青みがかった灰色をしている。
「その顔を見ると、随分と歓迎されたようだね?」
「ああ、その通りだ」
金色の前髪をかき上げながら、隣に立つ人物が柳眉を寄せて言った。
先ほど、兄であるバルトハイルの前で見せていた笑顔は、とっくに消えている。
「私が渡したワインに、毒かなにかを仕込んでいたらしい。どうやら、本気でこちらを潰しにきたようだ」
苦い顔で溜め息をつきながらも、シェラの手首を握っていた手をそのまま指先へと滑らせ、ソファへとエスコートする。促されるままに腰を下ろすと、やっと手が解放された。
今まで感じていた他人の温もりが消えたことに、少しだけ寂しさを感じ、無意識に自由になった腕をさする。
「出迎えた直後にアレストリアの王太子を毒殺とは、さすがヴェータはやることが違うねぇ」
間延びした声でくすりと笑いながら、向かいに座る人が言った。
「笑い事じゃないぞ、ハラン。それに標的は私ではない」
「ほう?」
ハランと呼ばれた男性が首を傾げると、隣に座ったルディオの視線がシェラに向けられた。
「……自国の姫君を? 血の繋がった妹を餌にするなんて、むごいことをするねぇ」
しみじみと頷きながら、ハランもシェラを見る。微笑を浮かべてはいるが、どこか警戒心を滲ませた瞳に、思わず目を逸らしてしまった。
「それで、かわいそうなお姫様を攫ってきたのかい?」
「あの場に残して行ったら、彼女があの男からどんな扱いを受けるかわからないからな」
バルトハイルの策略が感づかれた時点で、作戦は失敗している。妹の命を簡単に捨てるような王だ。酷い仕打ちをされるのではと思ったのだろうか。
そう考えると、多少強引ではあったが、このアレストリアの王太子に助けられたことになる。
そもそもルディオの行動のおかげで、毒を口にせずに済んだのだ。彼が止めなければ、シェラはとっくにこの世にはいなかっただろう。
「あの、ルディオ殿下、助けていただきありがとうございます」
礼を述べると、ルディオは少し驚いたような表情を見せた。
「いや、結果的に君を助けることになっただけだ。礼はいらない」
確かにシェラが毒殺されれば、ルディオが罪を被ることになっていたかもしれない。そう考えれば、今のこの状況は必然でもあるのだ。
しかし、ひとつだけ疑問が残る。
「……どうして、あのワインに毒が入っているとわかったのですか?」
新緑色の瞳を見て、問いかける。
彼はあの時の状況を思い出すように言った。
「君の呼吸が異様に短く、浅かった。冷静に努めていたようだが、訓練でも受けていない限り、緊張は必ず身体のどこかに表れる」
まさかそれだけで判断したというのか。もともと警戒はしていたのだろうが、鋭すぎる思考に背筋が震えた。
「おおかたこちらが持ち込んだワインで王女を殺し、私に罪を被せる気でいたんだろう? それとも、ヴェータは妹を服毒死させるのが、歓迎の習わしなのか?」
そんなことはない。
いくらヴェータが野蛮な国だと言われていても、わざわざ出向いてきた他国の王子の前で、妹を殺す習慣などあるわけがない。
ヴェータは四年ほど前まで戦争を繰り返し、領土を広げることに国力を費やしてきた。
先の戦争で侵略した国は数知れず。人々の死体の上に築かれた国家として有名なのだ。
しかし、そのヴェータが手も足も出せなかったのが、隣に座るルディオ王太子がいずれ王位を継ぐであろう、アレストリアという国だ。
とても豊かな大国で、領土も広く、産業や農業も盛んらしい。戦争の繰り返しで痩せ細ったヴェータとは、正反対とも言える。
「兄にとって私は、国を広げるための駒のひとつにすぎないのです。それであなたを陥れることができたのなら、私は駒として最高の名誉を与えられたでしょう」
死んだ後に、という言葉はのみ込んだ。
あのバルトハイルという男にとって――いや、この国の王族にとって、聖女は国を造るための道具でしかない。
そもそも聖女というのは、通常の人間には持ち得ない特殊な力を宿した者を指す。力を発現するのが女性のみのため、いつからか聖女と言われるようになったのだ。
ヴェータはその人ならざる力を使い、今まで数々の戦争に勝利してきた。これはヴェータ国内でも、王族とそれに関わる極少数の者しか知らない。
「ふむ。……君は名誉と命、どちらが惜しい?」
ルディオは腕を組み直して、シェラに問いかける。
「どういう意味でしょうか?」
「いつまでも君を私のもとで保護するわけにはいかない。だが、君が生きたいと願うのなら、ひとつだけ方法がある」
生きたいと願う――シェラが長いあいだ忘れていた感情だ。
今まで、言われるがままに聖女の力を使い、数々の戦争を勝利に導いてきた。その道程で、シェラの力によって死んだ人間は多いだろう。直接手を下したわけではないが、自分が殺したと言っても過言ではない。
人殺しの自分が生きたいと願うなんて、おこがましい。
どうせ、力の使いすぎで長くはもたない身体だ。あのワインを飲まなくとも、近いうちに朽ちることに変わりはない。
だけど、それでも……少しでも長く生きたいと、そう願ってもいいのだろうか。
「それは、どのような方法でしょうか?」
身体ごとルディオの方に向き直り、新緑の瞳を見つめながら問いかけた。
彫りの深い端正な顔が、とても真面目な表情でとんでもないことを言い出す。
「私の妻になればいい」
形の整った唇から紡がれた内容に、言葉を失った。
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