捨てられ聖女は、王太子殿下の契約花嫁。彼の呪いを解けるのは、わたしだけでした。

鷹凪きら

プロローグ

1  使い捨ての聖女



 冷たい雨がぽつぽつと窓を叩く。

 赤や黄色に染まった葉が、秋の終わりを告げるように散っていった。


 冬の匂いを乗せた冷たい風が、城内へと迷い込んでくる。


 今日という日が、19年間生きてきたわたくしの、人生最後の日になるはずだった。




 ―― 使い捨ての聖女 ――




「シェラ、そこに座れ」


 言われた通り、指定された座席に腰を下ろす。

 豪華な皮張りのソファが、臀部を包み込むように沈んだ。


 向かい側には背中まで長く伸びた、金色の髪をもつ男性が座っている。今の季節とは相反した新緑色の瞳が、シェラを捉えた。

 その鮮やかな緑色に、背筋が粟立つ。

 あんなにも美しい宝石のような瞳なのに、どこか底冷えするような輝きを感じる。


「両国にとっての祝いの場だ。妹も同席させてもらうよ、ルディオ王太子」


 隣に座る、豪勢な衣装に身を包んだ兄が、ルディオと呼ばれた金髪の男性に向けて言った。


 シェラを見ていた緑色の瞳が細められる。

 獲物を狩るときに見せる、獰猛な獣に似た鋭い目つきに、思わず身体が竦んだ。


 動揺を悟られないように、できるだけ柔らかくほほ笑む。

 少しして、緊張を含んだ空気がほぐれるのを感じた。


「ええ、構いませんよ。バルトハイル王」


 雰囲気を一変させて、ルディオはにこりと笑う。

 刺すような視線を受け止めていたシェラは、ほっと小さく息を吐いた。


「それでは始めに、手土産としていただいたワインで乾杯といこうか」


 テーブルに置かれていたベルを鳴らすと、給仕のメイドがやってきて、ワイングラスを机に並べはじめた。


「シェラ」


 兄に促されるままに身を乗り出し、ワインボトルを手に取る。腰ほどまで伸びた、緩くウェーブのかかったシェラの銀色の髪が、ふわりと揺れた。


 震え出しそうになる己の手をなんとか押さえ込み、ワインを注いでいく。

 透明なグラスに、とくとくと赤い液体が沈んでいくさまを眺めながら、シェラは一時間ほど前に兄と交わしたやりとりを思い浮かべた。




 昼食を済ませてから、力の入らない身体を休ませるために、自室のベッドで横になっていた。

 この身体はいつまで保つのかと、ぼんやりと天井を眺めていると、呼び出しの声がかかる。


 だるい身体を叱咤し用意を済ませ、目的の部屋へと急ぐ。中に入ると、いつものように食えない笑みを浮かべた、このヴェータ国の若き王、バルトハイルが座っていた。


『お兄様、お呼びでしょうか?』

『シェラ、仕事だ』


 どくんと心臓が脈打つ。

 もう何度、この言葉を聞いただろうか。


『わたくしにはもう、まともな力は……』


 遠慮がちに言葉を紡ぐと、バルトハイルはくすりと笑って言う。


『聖女の力は必要ない。ただワインを飲むだけだ』

『ワインを、ですか?』

『そうだ。アレストリアから王太子が来ているのは知っているな?』


 こくりと頷く。

 アレストリアとはヴェータ国の南西側に位置している大国で、長いあいだ警戒し合う関係だった。特にここ一年は臨戦態勢が続いており、いつ本格的な戦争が起きてもおかしくない状態が続いている。

 しかし今のヴェータに、アレストリアとまともにやり合って勝てる戦力はない。


 そこで今回、卑怯な手を使って先手を打つことにした。

 平和条約の締結を理由に、王太子を呼び出したのだ。もちろん、ヴェータ側に条約を結ぶ意思などないのだが、ルディオはのこのことやってきた。


『王太子が国の特産品だと言ってワインを持参した。おまえはそれを飲むだけでいい』

『そのあとは……?』

『あとなどない。――どういう意味か分かるな?』


 全身の血の気が引いていくのを感じた。

 指の先から氷のように冷たくなっていく。


『力を失いかけた聖女を、いつまでも生かしておくと思ったか? いいタイミングで、あのアレストリアの王太子を呼び出せたんだ。この国の聖女としてできる、最後の仕事だと思って全うしろ』


 冷ややかな微笑を浮かべながら、バルトハイルは言う。

 理解などしたくはない。でも、言葉の意味がわかってしまう。


 それは、つまり――


『謹んで……お受けいたします』


 震える声で答えた。

 今にもくず折れそうになる脚を気力だけで支える。


『あの王太子は相当な切れ者だ。気取られないように』


 シェラよりも少しくすんだ銀髪をかきあげながら、だるそうに言った。

 この自分より六つ年上の男を兄として敬うのも、今日が最後になるのだろう。それだけは、唯一喜ばしい。


 掠れる声で返事をして、シェラはその場をあとにした。



 このまま逃げてしまおうか。

 そんな思考が、何度も頭にちらつく。

 だが、行く場所などない。

 たとえ逃げたとしても、自分に残された時間はあと僅かだ。


 聖女として何度も、国のために力を行使してきた。

 人が使うには大きすぎる力の代償は、己の命。

 聖女の力を使うには、生命力を削ることになる。

 最近は身体も思うように動かず、起きているのもつらい。きっともうすぐ、終わりがくる。


 そっとまぶたを閉じると、目尻に浮かんだ涙が頬をつたった。




 ゆっくりと目を開ける。

 現実へと戻った視界に、赤い液体が注がれたワイングラスが映りこむ。


 このワインには毒が仕掛けられているはずだ。

 アレストリアの王太子が持ち込んだワインで、ヴェータ国の王妹が死ぬ。毒を仕込んだとして罪を捏造し、あの王太子を捕らえるつもりなのだろう。


 これはわたくしにできる最後の仕事。

 そして、最後の罪。


 もう――恐怖は、ない。


 置かれたグラスを手に取る。

 一時間前の波打つ心情が嘘のように、心は凪いでいた。

 いまは己の心臓の脈動しか聞こえない。


 向かいの席に座る、ルディオ王太子の視線を感じながらグラスを傾ける。


 その瞬間、耳をつんざくような、ガラスの割れる音が室内に響いた。

 はっと我にかえり、音のした方へと視線を向ける。割れたグラスがテーブルの上に散らばり、そこからこぼれ出たワインが、床へと滴る様子が見えた。


「おっと、失礼」


 悠長な声が、しんと静まりかえった空気に割って入る。


「これは申し訳ない。随分と冷えてきたもので、手がかじかんでグラスを落としてしまいました」


 向かい側に座るルディオが、苦笑を浮かべながら申し訳なさそうに言った。

 思わず兄を横目で見る。驚いた表情を浮かべながら、割れたグラスを凝視していた。


 このままの流れでワインを口にするのもおかしいと思い、どうするか迷っていると、再びルディオが口を開く。


「シェラ王女、顔色がすぐれないようですが、ご気分が悪いのですか?」

「……え?」


 そういわれると否定はできない。最近の体調不良のせいだ。

 しかし、分からないように化粧を施してきたので、それを指摘されるとは思っていなかった。


「ああ、そうだ!」


 ルディオはいいことを思いついたとばかりに、パンと手を叩いた。


「アレストリアから腕利きの侍医を連れてきているのです。体調が悪いのであれば、彼に診てもらいましょう。きっとすぐに良くなりますよ」

「え……ちょっと待ってください!」


 向かいに座るシェラの元まで歩いてくると、強引に腕を掴み、ルディオは部屋の入口に連れ出そうする。


「あっあの……!」


 掴まれた腕を振りほどこうとしたが、逆に引き寄せられ、ルディオとの距離がさらに縮まった。

 不本意だが兄に助けを求めるしかないと、振り返ろうとしたシェラの耳元で低い声音が響く。


「あのワインは、君が飲むべきものじゃない」


 それはどういう意味なのか。

 わざわざ持参したワインを、シェラに飲まれるのは納得がいかないということか。

 ――それとも、この人は全てを知って?


 真相を探ろうと顔を上げ、目の前の美しい顔を覗き込んだ。

 長い睫毛に隠れた切れ長の瞳が、鋭い目つきでシェラの朝焼け色の瞳を見つめる。スッと細められた緑色の眼光は、全てを見通しているように見えた。


「バルトハイル王、わざわざ用意していただいたこの場ですが、彼女の体調が気になるので先に失礼します」

「いや、妹のことならこちらで――」

「割ってしまったグラスは、後ほど弁償致します。それとは別に、アレストリア製の高級ガラスを使用したグラスを送らせていただきますので、楽しみにしていてください」


 悪意のない笑みを向けながら、ルディオは早口で捲し立てた。二の句が継げないでいる兄を尻目に、素早く扉を開ける。

 外に出ると、アレストリアの騎士と思われる数名の男女が待機していた。


「殿下、どうされました?」

「宮に戻る。すぐに警備を強化しろ」

「御意」


 指示ひとつで騎士たちは迅速に動き出す。

 彼らの後を追うように、ルディオが歩き出した。


 掴まれたところから伝う温かさに戸惑いながら、ただ腕を引かれるままに、広い背中について行くことしかできなかった。


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