第5話 希望



 弥勒菩薩はもう神の尊厳を取り戻していた。


「私はすでに土地の守り神となった。ここを離れることは出来ぬ」


 言葉を尽くしたが願いは届かなかった。若者の姿をした雲龍は、悲観のあまりうずくまった


「神でもなく、龍神でもない。定命じょうみょうの俗人が口を挟むことをお許しください」


 いつの間にか、僧が立ち上がっていた。


「我々ちっぽけな人間は、日々間違いばかり犯しております。その罪は大から小まで様々ですが、どの過ちも愚かで許しがたいものです。


 しかし過ちを認め、償おうと足掻あがく者の心を、捨て置いて良いのでしょうか。死ぬまで許されず、無念のまま世を去った者たちが、仏の慈悲を頂くことはかなわないのしょうか」


 僧の低い声は夜の池に深く響いたが、弥勒菩薩に届いたかどうかは分からなかった。


 やがて奇跡が終わる時が来た。


 蓮の花びらが閉じ、菩薩の御姿みすがたを覆った。閉じた蕾となった巨大な球体は、茎を中心に螺旋を描いて池の中に沈んでいった。


 あたりは再び小半刻前の夜の静けさを取り戻した。


 若者が立ち上がった。踵を返して歩み去ろうとしている。また次の二百年をこの地で過ごすつもりか、それともすべてをあきらめ雲上へと帰っていくのか。


「待たれよ。あれを見なされ」


 僧の言葉が雲龍を引き止めた。


 振り向いた若者の目は、池のほとりに光るたまを捕らえていた。僧がそれを拾い上げた時、空から菩薩の声が降りてきた。


「そのをこの池で育てなさい。年月としつきが過ぎ、再び私が現れたその時に、花を咲かせて見せよ。ぬしが真に我が心を変えたいのであればな」


 僧の手から雲龍へ、光る種が渡された。若者はそれを大事そうに懐へしまった。


「ありがとうございます。あなたが那智に語った言葉を、私は生涯忘れません」


「楽な道ではないですぞ。二百年後に現れる弥勒様にあわせて、この種を開花させるなど、それこそ奇跡の技じゃ」


「良いのです。それが叶わねば、また次の種を二百年かけて育てます。それが私にできる、ただひとつの那智へのあがないなのですから」




(まぼろしの花    おわり)

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まぼろしの花 まきや @t_makiya

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