2年C組、カオス組!
おとーふ
新任教師
2022年4月某日。朝7時35分。
部活の朝練に励む生徒の声が校庭に響き渡っていた。8時過ぎからのホームルームのため、校舎内にはまだ生徒の影はない。
桜台学園高等学校の綾瀬理事長に呼ばれた俺は、重い足を引きずって理事長室の前に立った。新調した黒スーツのすそがやけに気になって仕方がない。手首を何度もさすってから、ようやく木目調のドアをノックした。
「入ってください」
中から初老の男性の声がした。俺は大きく深呼吸を一回し、そして右手でドアを開いた。
「こんにちは、綾瀬理事長」
正面の黒革の椅子に座る理事長に、深々とお辞儀をする。
「そんなに畏まらなくてもいいですよ。こちらへ」
にっこりと微笑みながら近づくよう促され、俺は数歩進んで姿勢を正した。鞄を脇の椅子に立てかけて、理事長の前に立つ。
「この度は、赴任していただきありがとうございます」
「いえいえ、私にはもったいないお言葉です」
事実、大学の教育学部を出て間もない若輩者を拾ってくれたのは、寛大としか言いようがない。教育実習もあまり振るわなかった俺をよく雇ってくれたものだと、改めて感じた。
「早速ですが本題に入りましょうか」
「はい」
しかし俺は、教師の道は大変過酷だと先輩から何度も聞かされていた。よしんば有名私立校に勤められるとしても、せいぜい補助員が関の山だろう。そんな風に考えてたかをくくっていた俺にとって、理事長が次に発した言葉は寝耳に水だった。
「如月先生、あなたには本校の2年C組の担任を担当していただきたい」
「……は?」
思わず間抜けな声が漏れ出る。このじいちゃんは今、何と言った? 俺の認識が間違っていなければ、この新米に担任を丸投げしようと言ったのだが。まさかな。
「えっと、それは……ドッキリ的な何かですか?」
「まさか。私は本気ですよ」
「……マジっすか」
もう敬語を使うのも忘れて、素の自分に戻ってそう呟いてしまった。俺に担任を? この俺に? 大学卒業ほやほやの、この俺に?
「如月先生が驚くのも分かります。私だって、この提案が常軌を逸していることは承知の上ですよ」
あ、自分がおかしいことを言っているのは分かっているのか。
「それなら、なぜ?」
「実はこみいった事情があるんですが……」
このフリは話がかなり長くなると、経験上知っている。理事長の長話か、と若干滅入りながらも、表情は変えずに続きを待った。
「まあ、そういう面倒くさい話はさておき」
「さておいちゃうんですか!? そういうのって若干後々の伏線とかになるんじゃないですか!?」
まさかの手のひら返しに、ガクッと首を落としてしまう。この溢れ出るこれじゃない感はなんなんだ。
「伏線? 如月先生が何をおっしゃっているのか、私にはちょっとよく分からないですが……」
「でしょうね」
「それはさておき、まあ、ありていに言えば前任の先生が今年、退職されてしまいまして……」
「なるほど。でもそれなら、他の先生をまわせばいいだけじゃないですか?」
理事長が簡潔に話した理由に、俺は少しの違和感を覚える。他にも俺より優秀な先生はたくさんいらっしゃるはずなのに、なんでわざわざ俺を呼んだのだろうか?
「そこらへんもこみいった事情がありまして。もしよかったら、お伝えしましょうか?」
「それってどれくらいかかりますか?」
「正味、2時間ぐらいですね」
「授業始まっちゃうじゃないですか! カットで!」
本当に理事長ですよね? 俺、早くも疲れてきましたよ。
という言葉はのみこんで、体の前で組んでいた手を組みかえる。
「とにかく、詳しい事情はまたいずれお話しします。とりあえず先生には、担任をお願いしたくて呼ばせていただきました。引き受けていただけますか?」
その言葉と共に綾瀬理事長が、生徒名簿と出欠確認表をこちらへスライドさせてきた。任せる気満々ですね、あなた。
まあでも、実際悪い話ではない。実地経験が大事なのはどんな職業でも同じだし、私立高校だから多少の融通は理事長権限でしてくれるだろう。前任者退職の経緯は気になるが、そんなぶっ飛んだクラスなら俺には任されないはずだ。
「やらせてください」
燃える心を秘めて、俺は名簿を受け取った。
「ありがとうございます。先生なら引き受けてくれると信じていました」
さっきと同じ柔和な笑みを浮かべて、理事長は立ち上がった。差し出された右手を見て、それが握手のサインだと気づく。俺は組んでいた手を放し、理事長の手を握り返した。
「初めての担任経験、頑張ってください」
「改めて言われると、やっぱり緊張しますね……」
「大丈夫ですよ。うちの生徒はみな、いい子ばかりですから」
その言葉に多少安堵した俺は、脇に置いた鞄を持ち直した。
「職員室はどこですか?」
「いえいえ、如月先生には直接教室へ行っていただきます」
「……なぜでしょうか?」
「せっかくの新学年なんですから、ついでに生徒たちの名前と顔を覚えていただきたいと思いましてね」
そう言って、理事長がぎこちなく両目をしばたいた。数秒後、俺はそれがウインクのつもりだったのだとようやく気づく。え、ウインク下手すぎじゃね?
「……分かりました」
「教室は2階です。今日は始業式ですので、特にしなければいけないことはありません。肩の力を抜いて、楽しんできてください」
「正直、楽しめるような状況じゃないですけどね」
「何を言っているんですか。何事も楽しまないと損ですよ」
「……」
そう言って、全力で縄跳びダンスを始めた綾瀬理事長。それはまずいって。
しばらくしてこの微妙な空気に耐えきれなくなり、俺は逃げるように理事長室から出た。
「……ったく、あの人やばいな……」
頭を抱えながら、俺は南棟と書かれた階段を上った。
2階に着く。校内案内図を見ると、2-Cは廊下のつきあたりの教室のようだった。ちらほらと登校している生徒も見受けられる。廊下ですれ違う彼らに挨拶を返しながら、俺はC組の扉の前に立った。
再び深呼吸。小さい頃から欠かさないルーティーンのひとつだ。気持ちを落ち着け、頭を切り替えることができる。
少し間を置いた後、俺は意を決して扉を開けた。
「——おはようございます!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます