2人目 瓢箪山の銭湯のおじさん
新卒で入社したアパレルメーカーは、大阪の西に連なる生駒の山の麓にあった。
小さな本社の敷地の中に、新卒男子がみな収容される寮があった。
通勤時間は10秒。
午前中の出荷から、深夜に到るデスクワーク。
学生時代に腐らせた身体と頭はまるで動かない。
その上、要領も悪い。
時間だけは長く働いていた。
3畳の寮でも、眠るだけなので不自由はなかった。
ただ、途中で急に水に変わることのあるシャワーしかない。
湯船に浸かれないのはやはり辛かった。
仕方なく、社用車を拝借して銭湯に向かう。
近鉄の瓢箪山の駅の側に、深夜1時まで開いているところがあった。
いつも0時を過ぎた頃に慌てて浸かりに行く。
他に客はいなかった。
古くて薄暗い。
潰れないでくれよと、ちょっと祈らずにはいられないくらい寂しい銭湯だ。
番台には、これまた全く愛想のないおじさんが座っていた。
濃い眉、大きな丸い肩と短い首。
シュレックというディズニーアニメキャラは、おじさんが緑色になった姿にしか見えない。
そういう風体なのに、ボソボソっと聞き取れないほど低い声で話す。
仕事を終えた開放感で、僕のテンションはいつも高かったので、無愛想は気にならなかった。
火照った身体を冷ましながら、フルーツ牛乳を片手に、古いテーブル型のゲーム機で遊ぶ。
瓢箪山の銭湯は、時計が1時を指すまでの、
束の間の息抜きをさせてもらう場所になった。
半年、一年と深夜の慌て客として時々お世話になっていた。
そうなると、さすがにどこか打ち解けた感じがでてくる。
一言、二言、話すようにもなった。
遠距離中の彼女を、どこに連れていこうかと考えあぐねていた時のこと。
ダメもとで相談してみた。
驚いた。
信貴山から大阪の夜景が一望できるスポット、蛍が舞う秘密の水場を教えてくれた。
地元民しか知らない穴場。
そんなロマンティックな場所を隠し持っているとは思わなかった。
そんな風にポツリポツリとしたエピソードがあって、
おじさんとの距離感は縮まっていたのだろう。
ただ一度だけ。
シュレックおじさんから情熱が溢れ出した時のことが忘れられない。
ドライブに誘われたのだ。
行き先は奈良、
しかも、風呂を閉めた1時から出かけるがどうかと。
おじさんは、春日大社裏の原生林の凄さ、
夜にそこに踏み入れる感動を伝えようとしていた。
口下手で、いつもは単語で終わるのに、
なんとか伝えようとして、一生懸命語ってくれた。
その熱意に、ちょっと行ってみようかという気にさせられた。
ただ、おじさんと二人きりで夜の原生林を彷徨う勇気は出なかった。
時々一緒に銭湯に行くことのあった同期を誘って見たが、関心は示されなかった。
そして、結局、ドライブには行かず。
遠距離を終えて、市内のマンションで所帯を持った自分は、銭湯と縁がなくなってしまった。
桜を観に、奈良に旅をする計画を立てていた時、
急に後悔が立ち上がってきた。
おじさんとドライブに行けばよかったな。
人生に、あの時こうしておけば、と思うようなことはほとんどない。
あの時は、今のように自然の美しさや癒し、生命力に触れる悦びを知らなかった。
若かったから、
必要なエネルギーは内側にあって、外から採り入れる感覚すら知らなかった。
月明かりに、仄白く浮かび上がる原生林の幹。
得体の知れないものが跳梁跋扈している気配。
生き物がガサッと、急に動き出す音。
ライトで追った向こうに光りを返す暗闇の中の眼。
どんなイメージも超えて、
何もかも混じり合って、夜の深い森がみせる圧倒的な姿。
あの静かで、内気なおじさんが、一線を超えて客と共有したかった世界。
どんなだったのだろう。
瓢箪山の銭湯おじさん。
随分と時間が経ってしまいました。
もうきっと銭湯はないでしょう。
居場所をなくしたおじさんは、どうやって時を過ごしたでしょうか。
案外、夜のドライブを楽しんで、たくさんの穴場を見つけ続けたかもしれませんね。
そうだ
そうでなくては、あんなにも夜景やホタルや原生林の美しい夜を知っているわけがない。
おじさんと銭湯で過ごした時間の気配は、今も残り続けています。
逢えてよかったです。
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