守りたい
≪今日、律子さんが伝票チェックをしていってくれたぞ。支払いは全て、陽子が済ませている。データは智が入力してくれたそうだ。玲美さんも確認してくれたようだが、念のため杏奈も確認しておいてくれ。それから、明日は何点か搬入があるから、品出しを頼む。≫
昨日の朱鳥の業務日誌に書かれていた、最後の一文。
店に入るとまず、業務日誌に目を通す。
杏奈たちが決めた、ルールの1つ。
その日にあったこと、次の日にやるべきこと、その他気付いたこと等、当番の人はそれぞれ、業務日誌に記入することにしていた。
そうすれば、真咲が戻ってきた時にも、不在中の店の状態が把握しやすいだろうとの、智の提案だ。
日誌には、業務に関係の無い雑談のような内容の記載もあったが、それはそれで読んでいて面白い。
特に、陽子の業務日誌は、その日の天気から始まり、新入荷の商品に対する陽子自身の感想や、店を訪れたお客様の詳細、交わした会話等も書かれていて、面白い上に今後何かの際に役に立ちそうだと、毎回楽しみにしているほどだった。
(よし、頑張りますか!)
一通り日誌を読み終え、杏奈は気合を入れた。
会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。
今ここに、オーナーである真咲の姿は無い。
『一旦この店、閉めよ思てるんや。』
言葉の通り、真咲は店を閉めようとしたのだが。
杏奈は、この店が好きだ。
会社の後輩も、真咲の店を好きだと言っている。
他にも、杏奈は真咲の店で、たくさんの人たちの笑顔を見てきた。
その店を、2年間とはいえ、閉めてしまうなんて。
杏奈にはどうしても、受け入れる事ができなかった。
真咲の決意は受け止めるが、自分の思いも貫きたい。
杏奈の思い。それは真咲の店を続けること。
どうすれば、叶うのか。
杏奈は必死に考え、そして行動に移した。
まず、杏奈が頼ったのは兄夫婦だった。
「お願い、お兄ちゃん!陽ちゃん!」
真咲の店を続けるには、絶対的に店員が必要だ。
見ず知らずの人を雇うにはリスクもあり、人件費という費用も発生してしまう。
かと言って、会社勤めの杏奈が雑貨屋の店員となるのは、現実的に不可能だった。
「土日はなるべく私がお店に出るから!平日だけ、陽ちゃんにお願いしたいの!」
事情を説明し、杏奈は兄夫婦に頭を下げた。
「何故お前がそんなことを・・・・」
渋い顔をする兄とは対照的に、陽子は杏奈の話に乗り気な反応。
「いいじゃない、朱鳥さん。私、やってみたいわ、なんだか楽しそうだもの!」
「遊びじゃないんだぞ、陽子。それに、いきなり週5日は多すぎるだろう。馴れない仕事で疲れて倒れでもしたら・・・・」
(確かに、そうだわ。)
大丈夫よ~、それくらい!
と笑う陽子ではあったが、考えてみれば、これでは陽子にばかり負担を掛けてしまうことになる。
やはり、自分の思いは、所詮無理な事だったのだろうか。
肩を落とす杏奈に、朱鳥は言った。
「それに、お前だって土日店に出ていたら、休みが無くなるだろう?陽子だけじゃなくお前まで倒れでもしたら、俺は真咲の奴を恨む事になるぞ?」
「うん・・・・そうだよね。」
諦めるしかない。
杏奈がそう思った時。
「土曜は俺が出てやる。日曜はお前が出ろ。それから、陽子が店に出るのは週2日まで。それ以上は認めない。」
(えっ!)
顔を上げると、兄の頼もしい笑顔があった。
「どうしても真咲の店を続けたいのなら、それ以外の人材はお前が何とかするんだ。いいな、杏奈。」
「頑張ろうね、杏奈ちゃん。私も、頑張るから。」
「うん・・・・ありがとう。」
温かい涙が溢れて来る。
杏奈は大きな感謝の気持ちを込めて、兄夫婦に深く頭を下げた。
次に杏奈が相談したのは、智だった。
「やっぱり君って、最高に面白いね、杏奈ちゃん。」
事情を説明すると、本当に楽しそうな顔で、智は笑った。
「でも、平日お店に出られる人が足りなくて・・・・どなたか心当たり、ありませんか?」
恐る恐る、杏奈は尋ねたのだが。
「あるよ。」
智はあっさりと答えた。
「ほんとですか!」
「うん。僕。」
「えっ?!」
「あれ?その反応、僕じゃ不満ってことかな?」
不機嫌そうに顔をしかめる智に、杏奈は慌てて否定の言葉を発する。
「違います!」
「だろうね。」
不機嫌そうな顔から一転、上機嫌な笑顔を浮かべる智。
こんな時ですら、不機嫌そうな顔も今の目の前の笑顔も、なんて綺麗なんだろう・・・・、と智の顔に見惚れてしまいそうになる杏奈に、智は言った。
「僕は店長だから無理だろうって思ってたんでしょ。でも僕だってこれでもちゃんと週休2日は取ってるんだよ。土日のどちらか1日と、平日に1日。まぁ、バイトが急病で来られなくなった時なんかは休みが潰れる事もあるけど。でも、うちのバイトは自己管理ができている人ばかりだからね。僕が直接面接して採用している人達だから信用できるし、僕がいなくたって十分にこの店は任せられるんだ。」
「そうなんですか。」
ほっと胸をなで下ろす杏奈に、智は笑顔を消して告げた。
「ときに、杏奈ちゃん。」
「なんですか?」
「僕はボランティアをするつもりは無いんだけど、それでも大丈夫?」
これは、仕事のお願いだ。つまり、ビジネスだ。
家族に頼るのとは訳が違う。
もとより、智に相談することを決めた時から、杏奈は人件費が発生することを考えていた。
まさか、智自身に手伝いをお願いすることになるとは、思ってもいなかったのだが。
「はい。ですが、あまりたくさんは・・・・」
「僕は仕事の対価が貰えればそれで十分だよ。そうだな、時給500円でどう?」
「・・・・は?」
智の提示した額に、杏奈は耳を疑った。
聞き間違いだろうか。
今時、時給500円で接客業に就こうと思ってくれる人など、皆無に等しいに違いない。
「あれ?高すぎたかな?」
「いえっ、逆ですっ!」
慌てて答える杏奈に、智は再び笑顔を向ける。
「本当は、ボランティアでもいいんだけど、真咲は僕に借りを作るの、嫌がるだろうしね。それから」
言葉を切って、智は杏奈に頭を下げる。
「ごめん。君の本気がどれほどのものか、知りたかったんだ。」
「智さん、やめてください。頭をあげてください。」
「じゃ、時給500円で僕を雇ってくれるかな?」
頭をあげ、智は目に笑いを滲ませながら杏奈を見る。
「もちろんです!ありがとうございます、智さん。」
智の優しさに、杏奈は感謝の気持ちを込めて、頭を下げた。
「1日は定休日にするとして、あと、1人・・・・。」
1杯目のヒューガルデンを飲み干し、杏奈は2杯目にギネスを注文した。
「あら、杏奈ちゃん。ギネス飲むようになったの?」
玲美が目を丸くしながら、ギネスの入ったグラスを杏奈の前に置く。
仕事の帰り。
玲美の勤めるビア・バーに寄り、杏奈は平日に店を任せることになる残りの1人に、頭を悩ませていた。
「はい。苦いのを飲んだら、いい考えが浮かぶかなと思って。」
「どうしたの?何か悩みでもあるの?」
淡いブラウンの大きな瞳をさらに大きく見開き、玲美は杏奈を見る。
「もしかして・・・・真咲がなんかやらかした?」
(玲美さんもしかして、真咲さんから聞いていない・・・・?!)
黙ったままの杏奈に勘違いをしたのか、玲美はその場でスマホを取り出し、真咲へ電話を掛けようとし始めた。
「玲美さんっ、違うんです!」
杏奈は慌てて、玲美を止める。
「いいのよ、杏奈ちゃん。真咲のアホが何かやらかしたんだったら、私がガッツリ言ってやるから。」
「本当に違うんです、玲美さん。あの・・・・」
「なに?どうしたの?」
気遣わしげな玲美の瞳。
(私から伝えても、いいものだろうか・・・・)
迷いに迷った挙句、杏奈は玲美に事情を説明することにした。
「なによそれっ!あのアホ、何でそんなに大事な事、私に話さないのよっ!」
話の序盤から玲美の大きな瞳はみるみるつり上がり始め、聞き終わると同時に怒りを吐き出す。
「・・・・すみません。」
玲美の怒気に気圧され、思わず杏奈は玲美に謝ってしまった。
考えてみれば、真っ先に相談すべきは、真咲の姉である玲美だったのかもしれない。
ただ、杏奈は真咲から玲美に話はしていると思い込んでいたのだ。
「杏奈ちゃんが謝る事ないのよ。教えてくれてありがとう。それに」
つり上げていた瞳を緩め、玲美は優しい笑顔を浮かべて言った。
「あのアホのために、こんなに一生懸命になってくれて、本当にありがとう。」
「いえ、私はただ・・・・。」
「もちろん、私もやるわよ。残りの1人、私にやらせてね。」
真咲と同じ、淡いブラウンの瞳が、杏奈に力強く頷く。
「はい。玲美さん、よろしくお願いします!」
じゃ、ごゆっくり!
そう言って、玲美は他の客の席へオーダーを取りに向かう。
杏奈はグラスに手を伸ばし、ギネスで喉を潤した。
(あれ?おいしい・・・・かも?)
喉を通過するほろ苦さを、杏奈は初めて『おいしい』と感じたような気がした。
「無理は承知の上です。律子さん、どうかお願いできないでしょうか。」
店員という名の店番であれば、素人であってもどうにかできる。
もちろん、真咲の代わりなど到底務まりはしないだろうが、馴れてくれば少しは商品説明等もできるようになるかもしれない。
店の常連さんであれば、説明など聞かずとも、自分で欲しい商品を探す人もいる。
でもそれは、店が開いていてこそのことだ。
だから、杏奈は何としても、真咲の店を続けたいと思った。
だが、素人にはどうあがいても出来ないことがあった。
それは、商品の仕入れ。
真咲が律子の店で一から勉強したように、知識や経験が無い素人がそう簡単にできるものではない。
(そうだ、律子さんなら・・・・)
真咲に連れて行って貰ってから、杏奈は一人でも何度か律子の店を訪れていた。
真咲の店とはまた異なる律子の店の魅力に、杏奈は強く惹かれたのだ。
さすが、真咲の師匠の店だと、訪れる度に出迎えてくれるネコ達に杏奈は癒されていた。
だからこそ。
縋るような思いで、律子の店を訪れたのだが。
「ええ、もちろん。」
拍子抜けするほどあっさりと、律子は杏奈の願いを快諾した。
「まぁ、ここのお店もあるから、そう頻繁には行けないけれど。それでもいいかしら?」
「もちろんです!ありがとうございます!」
頭を上げる杏奈の肩に、律子は優しく手を添える。
「これでやっと、茶倉くんに借りを返す事ができるわ。」
「え?」
律子の言葉に顔を上げると。
「茶倉くんはね、このお店で働いてくれていた期間のお給金を、一切受け取ってくれなかったのよ。勉強させて貰ってるんだから、お金なんて受け取れない、って言って。ああ見えて、意外に真面目で頑固なのよねぇ、茶倉くんて。だから、今度は私が、その分しっかり働かせていただくわ。」
律子は、優しいながらもどこか嬉しそうな微笑を浮かべ、杏奈を見つめていた。
あの日から、1年。
残り、あと1年。
(真咲さん、頑張ってるかな・・・・)
そんなことを思っているうちに迎えた、開店時間の直後。
「こんにちは。」
本日一人目のお客様が来店した。見覚えのある、常連のお客様だ。
「いらっしゃいませ!」
真咲のいない雑貨屋で、杏奈は精一杯の笑顔でお客様をお迎えした。
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