兄と雑貨屋さん

金曜日の朝。

出勤支度中に、杏奈のスマホからコールを知らせる着信音が鳴り出した。

画面に表示された発信者名は、『陽ちゃん』。

独り暮らしの杏奈を気遣い、度々連絡をくれる『陽ちゃん』こと陽子は、兄の妻であり、杏奈にとっては義理の姉にあたる。

「もしもし。」

“杏奈ちゃん、おはよう!ごめんね、朝の忙しい時間に。”

いつものように、明るい声が杏奈の耳に響く。

「大丈夫です、まだ時間あるし。どうかしました?」

“あのね、朱鳥さんが今日仕事で杏奈ちゃんの会社の近くに行くから、杏奈ちゃんのところに泊まるって言ってるの。聞いてる?”

「・・・・聞いてません。」

(また、勝手に決めて・・・・)

“そうなの?ごめんね、いつも突然で。後で連絡行くと思うんだけど、宜しくね。”

「はい。」

杏奈の兄・朱鳥は、たまに突然杏奈の所を訪ねては泊まっていく。

そのため、杏奈も慣れたものではあったが。

“杏奈ちゃんだって、彼氏とデートの予定とかあるだろうから、先に連絡しなきゃダメよって、言ってるんだけど・・・・”

「いえ、それは・・・・」

ふと、杏奈の頭に真咲の顔が浮かび、杏奈は慌てて頭を振る。

(違う違う、あの人は彼氏では・・・・)

“そうなの?でも、杏奈ちゃんもお年頃だし、いい人、いるんじゃないの~?”

この話になると、陽子の電話は長くなる。

「すみません、私そろそろ出なきゃいけないので!陽ちゃん、連絡ありがとう!」

そう言うと、杏奈は急いで通話を切った。

見れば、陽子との通話中に入ったのか、スマホの画面には、朱鳥からのメッセージが表示されている。

『お前の会社の近くに、いい店があるんだ。仕事が終わったら、そこで待ち合わせないか。で、悪いが今夜は泊めてくれ。』

「もちろん、お兄ちゃんのおごりだよね。」

画面に向かって呟き、先日真咲に直して貰ったばかりの髪留めで髪を束ねると、スマホを鞄に入れ、杏奈は会社へと向かった。


(ここ・・・・だよね?)

残業をなんとか切り上げて会社を出た杏奈は、朱鳥から送られた地図を頼りに、待ち合わせの店へと向かった。

そこは、駅から会社までの大通りから、杏奈の行きつけの雑貨屋とは反対の通りの脇道を入った所にある、小さなビア・バー。

店名を確認し、恐る恐る足を踏み入れた杏奈を、意外な顔が出迎えた。

「いらっしゃいませ・・・・あれっ?主任ちゃん?!」

淡いブラウンの大きな瞳は、かなりの衝撃を伴って、杏奈の記憶に焼き付いている。

「真咲さんの、お姉さん・・・・ですよね?」

「覚えててくれたの?!嬉しい~!」

最初の出会いと同じく、両手を握られ、なすがままに上下に振られている杏奈に、少し離れたところからほぼ同時に声がかかった。

「なんだ、杏奈。玲美さんと知り合いか?」

「なんや、杏奈ちゃんやないかい!」

どちらも、杏奈にとってはよく知った声。

(えっ?)

見れば、カウンター席に朱鳥と真咲が並んで座り、驚いた表情を浮かべてお互いに顔を見合わせている。

そして、すぐそばでも。

「えっ?!」

真咲の姉が、驚きの表情で杏奈を見ていた。

(えっ、なにこの状況?)

「もしかして主任ちゃんて、間宮さんの妹さん?」

「そう、ですが・・・・」

「そうだったんだ。あなたが噂の・・・・どうぞ、こちらへ。」

手を取って案内された席は、朱鳥と真咲の間の席。

「真咲、ひとつずれなさい。はい、こちらの席へどうぞ。」

真咲がひとつ隣の席へ移動し、空いた席を手早くセッティングし直して、真咲の姉は杏奈を席に座らせた。

「玲美さん。とりあえず、ヒューガルデンひとつ。」

「はい、畏まりました。」

朱鳥は親しげな口調で真咲の姉を『玲美さん』と呼び、杏奈のお気に入りのベルギービールを注文した。

そして、『玲美さん』と呼ばれた真咲の姉は、慣れた様子で注文を受け、カウンターの中へ入り、杏奈の前にヒューガルデンの入ったグラスを差し出す。

「どうぞ。」

杏奈の隣では、まだ驚きの表情を浮かべたままの真咲が、口を半開きにしたまま、朱鳥と杏奈を交互に見ている。

(一体、どのような状況なんでしょうか・・・・?)

「・・・・いただきます。」

訳のわからないまま、杏奈はとりあえず目の前のグラスを手に取り、口をつけた。

「それにしても、まさか主任ちゃんが間宮さんの溺愛の妹さんだったなんてねぇ。」

しみじみとした口調で、玲美が呟く。

「でっ・・・・溺愛?」

思わずむせそうになり、杏奈は慌ててハンカチで口元を抑えた。

隣の席では、朱鳥がメニューを眺めながら、聞こえないふりを決め込んでいる。

「なぁ、杏奈ちゃん、ほんまに間宮さんの妹さんなん?」

そう尋ねる真咲の声は、気のせいか怯えているようにも聞こえる。

(・・・・これは絶対に、おかしい。)

杏奈は体ごと朱鳥に向き直ると、知らぬふりを決め込んでいる朱鳥の手からメニューを取り上げた。

「お兄ちゃん、私のことをいったいどんな風に話していたの。」

「決まっているだろう。大事な可愛い妹だと、話しただけだ。」

言いながらも、朱鳥は杏奈と目を合わせようとはしない。

「本当に、それだけ?」

朱鳥の顔を覗きこもうとした時。

「俺の可愛い妹に近づく悪い虫は、俺が全部抹殺する、て言うてた。」

杏奈の後ろで、真咲がボソリと呟く。

「俺の可愛い妹を傷つける奴は、俺が一生後悔させてやる、とかも言ってたわね。」

「・・・・お兄ちゃん・・・・」

顔から火が吹き出しそうなほど頬に熱を感じ、恥ずかしさに杏奈はうつむいた。

「もう、やめてよ・・・・」

「何を言ってるんだ、そんなことは、当たり前のことだろう?」

うつむいた杏奈の髪に見覚えのある髪留めを目に止めた朱鳥が頬を緩め、大きな手をそっと杏奈の頭に乗せる。

「お前は俺の大事な妹だ。お前のことは、俺が守る。それに、お前にもしものことがあれば、親父にもお袋にも申し訳が立たないからな。」

(お兄ちゃん・・・・)

もうだいぶいい年の大人になっている杏奈だか、兄のこの手はいつでも杏奈を落ち着かせてくれる。

8才年上の朱鳥は、子供の頃からずっと杏奈を可愛がり守ってくれていた存在ではあったが、杏奈が社会人になって間もなく、相次いで両親を亡くしてからは、更に頼れる存在となっていた。

が。

最近の朱鳥は、杏奈に対する過保護の度が過ぎているような気も、する。

「お兄ちゃん。」

頭に乗せられた手をそっと外し、杏奈は言った。

「ありがとう。でも、私もういい大人だし、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。」

「早速悪い虫が付いているようだが?」

「えっ?」

苦虫を噛み潰したような顔の朱鳥の視線を辿った先には、真咲の姿。

「俺、悪い虫ちゃいまっせ、お兄さん!」

ギョッとしたように目を見開き、真咲が早口で口を挟むが、朱鳥はさらに顔をしかめる。

「俺は貴様の兄ではない。」

「お兄ちゃんっ!」

「ちょっと、いいかしら?」

客のオーダーを取りに行っていた玲美が、いつの間にか戻り、朱鳥の傍らに立っていた。

「こいつ、こんなだけど、私にとっては可愛い弟なのよね。」

そう言って、玲美は真咲を見て笑う。

「だから。」

笑顔のまま視線を朱鳥へ向けると、玲美は朱鳥に告げた。

「たとえ間宮さんでも、もしこの子に何かしたら、ただじゃおかないわよ。」

笑顔ではあったが、玲美の瞳は一ミリも笑ってはいない。

ひんやりとした空気が、その場に流れる。

(玲美さん、すごい・・・・)

人は笑顔のままでも、回りをこんなにも恐怖に陥れることができるものなのか。

杏奈は妙に感心しながら、玲美を見ていた。

(でも・・・・ちょっと、陽ちゃんに似ているかも?)

「姉ちゃん怒らしたらあかんて・・・・」

顔をひきつらせた真咲が、小さく呟く。

「い、いやだな、玲美さん。俺が真咲に、何かするはずがないだろう。」

真咲に同じく顔をひきつらせながら、朱鳥は何とか笑顔を保っている。

「それなら、いいの。」

言いながら、フッと、玲美が目を細めた。

「この子はアホだけど、悪い人間ではないわ。ましてや、悪い虫なんかじゃない。」

「そや!俺は、ええ虫や!」

「真咲さん、虫って・・・・」

真咲の言葉に、思わず杏奈はツッコミをいれていた。

そんな杏奈に、真咲は慌てて口を両手で抑え、またそんな2人の姿を、朱鳥は驚きの表情で見つめている。

「あの2人のこと、お兄さんとして、暫くは温かい目で見ていてやってくれないかしら?」

玲美がそっと、朱鳥に耳打ちした。

「真咲は杏奈ちゃんを傷つけるようなことは、絶対にしない。姉の私が保証する。」

「・・・・そう、だな。」

諦めと寂しさの入り交じる笑顔を浮かべ、朱鳥は小さく頷いた。

「大丈夫。もし、あのアホが杏奈ちゃんを傷つけるようなことをしたら、その時は、私が許さないから。」

「・・・・それは頼もしい限りだ。」

玲美と朱鳥は一瞬視線を合わせて微笑み合うと、再び各々の弟、妹へと視線を移す。

その視線の先では。

「真咲さんは虫ではなくて、人間です。」

「いや杏奈ちゃん、そないな意味やなくて、やなぁ・・・・」

「どういう意味ですか?」

「せやから、その~・・・・あぁもう、ほんま天然やなぁ、杏奈ちゃん!」

「失礼ですね。私は天然ではありません!」

いつ終わるとも知れない真咲と杏奈の掛け合いが続いていた。



「もー、お兄ちゃん、飲み過ぎ!陽ちゃんに言っちゃうよ?」

「・・・・それは勘弁してくれ。」

足元の覚束ない朱鳥を支えながら自宅に戻った杏奈は、とりあえず朱鳥を壁際に座らせると、自分もようやくのことで一息ついた。

「しかし、驚いたな。お前が玲美さんとも真咲とも知り合いだったとは。」

「私も、驚いた。」

「しかもあいつ・・・・」

「え?なに?あっ、お兄ちゃん、お水飲む?」

「ああ、頼む。」

ミネラルウォーターを用意する杏奈の背に、朱鳥は小さく呟いた。

「よりによって、この俺に、杏奈との恋愛相談をしていたとは、な。・・・・真面目に答えてた俺も俺、だが。」

真剣な顔で朱鳥のアドバイスに聞き入る真咲を思い出し、無性におかしさが込み上げてきて、堪えきれずに朱鳥は笑い出す。

「ははっ・・・・あははははっ!」

「もう、酔っぱらい過ぎなんだから・・・・はい、お水。」

呆れ顔の杏奈から水を受け取り、一気に飲み干すと、朱鳥は言った。

「なぁ、杏奈。」

「なに?」

「お前は、お前のペースで、いいんだぞ。」

「・・・・は?」

キョトンとする杏奈に構わず、朱鳥は続ける。

「お前は、そのままでいいんだからな。」

そしてそのまま、唐突に眠りに落ちた。

「・・・・もぅっ!」

酔った朱鳥が突然眠りに落ちるのは、そう珍しいことでもなく、杏奈にとっては慣れたもの。

壁にもたれかかったまま眠ってしまった朱鳥を床に横たえ、朱鳥の宿泊用に用意してある毛布をそっと掛ける。

朱鳥の寝顔を眺めながら、杏奈はバーでのことを思い出していた。


一時はどうなることかとハラハラもしたが、その後は皆打ち解け、楽しい時間を過ごすことができた。

最初こそぎこちなかった真咲も、次第にいつもの調子を取り戻し、最後には酔いのせいもあってか、朱鳥の拒絶にもめげることなく、朱鳥を『お兄さん』呼ばわりするくらいに。

もともと朱鳥がフラリと立ち寄ったビア・バーで玲美が働いていて、同じ年ということもあって意気投合し、そこに玲美の弟である真咲が加わったのだが、朱鳥と真咲もウマが合い、意気投合したとのこと。

(良かった、みんな仲良くて。お兄ちゃんも、楽しそうだったし。)

ふと思い付いて鞄からスマホを取り出すと、杏奈は陽子宛にメッセージを送った。

『陽ちゃん、今帰ってきました。お兄ちゃんは、もう寝ています。少し飲み過ぎたみたい。でも、多分すごく楽しかったからだと思う。だから、あんまり怒らないであげてください。それから、今度は陽ちゃんも是非一緒に!とても、いいお店だから!』

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