まさか、恋?
会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。
そこは、少し変わったオーナーのいる、杏奈の行きつけのお店。
いつも通り、杏奈は会社帰りに雑貨屋へ立ち寄った。
「こんばんは、雑貨屋さ・・・」
『はぁっ?!何言うてんのっ!そないなこと急に言われても・・・・ちょっ、待て言うてるやろ・・・・って、あぁもぅっ!』
店に入るなり聞こえてきた真咲の声に、杏奈は入り口から一歩入ったところで足を止めた。
(取り込み中、ですかね?)
ではまた明日にでも、と、杏奈がその場で向きを変え、店から出ようとしたとたん。
「あ~っ、主任さん!ちょうどええ所にっ!」
何やら慌てた様子の真咲に、腕を取られて店の中に引きずり込まれる。
「なっ、なんですか?!」
「なぁ、頼むわ。少しの間、店番しとってくれへん?」
「えっ?」
いつもは余裕そうな表情しか見せない真咲が、初めて見せる焦りの表情。
まだ出会ってからそれほど長くはないが、杏奈の記憶にある限り、こんなに焦っている真咲を見たことは、無い。
(緊急事態、ですかね?)
「ええ、私で宜しければ・・・・」
「ほんまっ?!ほな、すぐ戻ってくるよって!」
言うなり、真咲は店から駆け出して行った。
(でも、『店番』と言っても、一体なにをすれば?)
とりあえず、と。
杏奈は店の奥にあるレジの前に腰を下ろす。
学生時代のバイトで、レジ対応の経験はある。
とりあえず、誰か客が来た時の応対くらいはできるだろうと思ったものの、目の前のレジスターがまた、持ち主に負けず劣らず、今まで見たこともないようなユニークな姿。
(これは一体、どのように使うのでしょうか・・・・?)
杏奈にとっては、運よく。雑貨屋にとっては、運悪く。
客の来ない店で、杏奈はレジをいじり始めた。
(このボタンは・・・・)
「わっ!」
思いもかけない所が開き、誰も居ない店内に杏奈の声が響き渡る。
(どうしよう?これは、どうすればっ!)
開いてしまった場所を慌てて手動で閉めて、ほっと胸をなでおろしたものの、やたらとあるボタンが一体どこと繋がっているのかがどうにも気になり、杏奈は再び別のボタンを押してみた。
とたんに、レジから流れ始める賑やかな音楽。
「わっ!!!」
(どうしよう、これ、どうしようっ!)
オロオロしながらも、杏奈は今押した隣のボタンを押してみる。
と、音楽が止まった。
「良かった・・・・。」
仕事とは別の疲れが、杏奈の肩にどっと押し寄せてきた。
(でも、なぜレジから音楽が?レジに音楽って、必要?)
「やっぱり、おかしな人。」
杏奈の小さな呟きが、思いのほか店内に響く。
「まぁ、あの人らしいけど。」
結局、レジとして一番肝心なお金を入れる場所の開け方が分からないまま、杏奈はおとなしく真咲の帰りを待つことにした。
(遅い・・・・)
すぐ戻る、と言ったものの、真咲は一向に戻って来ない。
杏奈が店を訪れて、と言うより、店に引きずり込まれてから、1時間は経過している。
(何か、あったのかな。)
真咲を待つ間に何人か客が来たものの、品物の購入までに至った客はおらず、杏奈も気ままに店内を見て回っていたのだが、気付けばもう閉店時間も間際。
どうにも気になり、外の様子を見ようと店から出た。
すると。
(えっ!)
すぐそばで、抱き合っている男女の姿が目に飛び込んできた。
杏奈の方から顔が見える女性とは面識は無く、男性は背中を向けているため、顔は見えない。
だが。
(・・・・雑貨屋さん?)
杏奈は小さく息を飲みこんだ。
間違いない。
あの、理解のできないセンスの服を着ている人など、他にはそうそういないはず。
あれは、真咲だ。
そう思ったとたんに、心拍数が異常な速さとなっていることを、杏奈は感じた。
早く店に戻った方がいい。
頭ではそう思うが、足が動かない。目を逸らすことが、できない。
そのうちに、杏奈側を向いている女性と、バッチリ目が合ってしまった。
(・・・・っ!)
とたん、女性は元から大きな目をさらに大きく開くと、真咲を突き飛ばすようにして杏奈へと駆け寄ってきた。
(なっ、なにっ?!)
「もしかして、あなた主任ちゃんでしょっ?!」
言うなり女性は杏奈の両手を握りしめ、華やかな笑顔を浮かべる。
「・・・・えっ、ええ、まぁ・・・」
「やっぱり~!」
うんうんと頷きながら、女性は握りしめた杏奈の両手をブンブンと上下に振り始めた。
まるで、非常に親密な者同士が、久々の再会を喜んでいるかのように。
だが、杏奈には全く、この女性に心当たりが無い。
(・・・・どちら様、でしょうか?)
決して大柄ではないこの女性はなぜだか圧倒的な迫力で、杏奈はされるがままの状態だった。
(なんでしょう一体、この状況は・・・?)
「ちょっ、姉ちゃん!何しとんねんっ!」
女性に突き飛ばされた拍子に尻餅を付いたらしい真咲が、腰のあたりをさすりながら杏奈の元へと駆け寄り、女性を引きはがす。
「だって、この子でしょう?あんたがいっつも話してる『主任ちゃん』って。」
「あぁもぅっ!はよ店戻れや。仕事中やろっ!」
「はいはい。じゃ、またね、主任ちゃん!この子のこと、よろしくね!」
真咲の怒鳴り声もどこ吹く風と、女性は再び満面の笑顔を浮かべて杏奈に手を振り、道の向こうへと駆けて行った。
そして、嵐が去った後のような静けさが訪れた。
「姉貴なんや。」
店を閉め、疲れたように今閉めたばかりの店のドアに背を預けて、真咲が困ったような顔を見せる。
「お姉さん、ですか?」
「そや。この近くの店で働いとるんやけど。いっつも突然無茶言いよんねん。」
「・・・・そうなんですか。」
言われてみれば、女性のあの大きな瞳も、綺麗な淡いブラウンだったなと、杏奈はぼんやりと思い出す。
気付けば、異常値を叩き出していたであろう杏奈の心拍数も、いつの間にかすっかり落ち着いていた。
「姉貴には小さい頃から頭上がらんねん、俺。迷惑もかけとるしな。」
あのお姉さんならそうだろうと、杏奈は妙に納得できた。
だが、驚きはしたものの、悪い印象は全く持っていない。
「仲がいいのですね。お姉さんと。」
「ん?なんで?」
ずるずると、ドア伝いに腰を落とし、その場に座り込んでいた真咲が、怪訝な顔を杏奈に向ける。
「私にも兄はいますが、さすがに兄妹で抱き合う事はしませんから。」
「へっ?」
「・・・抱き合って、いましたよね?」
「んな訳無いやんっ!」
目を剥きながら、真咲は一気に立ち上がる。
「あれはっ、俺を逃げんように押さえつけながら、姉貴が脅しとったんやっ!」
「・・・脅してた?えっ?」
「弟の俺が言うのもなんやけど、あない可愛い顔して、とんでもない奴なんやで、あの姉貴はっ!」
憤懣やるかた無い、とでも言うように、真咲はそう言ったが。
「でも、いいお姉さんなのでは?」
「・・・・ま、まぁな。そら、そやけど。」
杏奈の問いに、照れくさそうにそっぽを向く。
子供のような真咲の姿に、杏奈は小さく噴き出した。
『遅なってもうたから、家まで送らせてもらうわ!』という真咲の申し出を丁重に断り、杏奈は1人、自宅へと戻った。
『・・・せっかく主任さんの家分かるチャンスやったのに・・・』
という真咲の呟きは、この際聞かなかったことにする。
だが、杏奈にはどうにも引っかかっていることがあった。
(なぜ私はあの時・・・・)
店の前で抱き合う男女の姿を目にした時。
その男が真咲であることを確信した時。
思考が止まり、体を動かすことができなかった。
反比例するかのように、心臓はものすごいスピードで胸を叩き始めた。
(なぜ・・・・?)
問いへの答えは、ひとつしか無いように思える。
それでも、その答えは杏奈にはまだ受け入れ難くもあり。
(まさか・・・・ね。)
テーブルの上に置かれた、起き上がりこぼし。
杏奈は、起き上がりこぼしを指でつつき、中から響く美しい音に耳を澄ませながら、目を閉じた。
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