虹龍堂へようこそ

榊 せいろ

第1話 冷却の葛根湯

「あんたなんかもう知らない!別れて!」

恋が叶うとされる噴水の前で、握っていた手を振り払った。


「なんだよ。急なバイトなんだから仕方ないだろ?」

何食わぬような返しに、心が砕ける。


「ふざけないで!毎回毎回それで…

もう…信じられないよ!」


今日、半年間付き合っていた彼氏と別れた。

原因は、この通り。デート中に「バイトだから」という事で途中で抜け出してしまうのだ。もう、これで3回目。私の怒りは最高潮に達していた。


(きっと、他の女の所に行ってるんだ。

彼は私の事をとって都合のいい遊び相手としか思っていないんだ。)


出したくないのに涙が溢れてくる。

それを振り払うかのように、

私の壊れた心は、体を走り出させた。


走る、走る、全速力で走り続ける。


気がつくと、商店街の外れに来ていた。


「はぁ、はぁ。こんなお店あったかな?」

立ち止まり、顔を上げると古びたお店が目の前に見えた。


屋根の看板には掠れた文字で

虹龍堂こうりゅうどう』と書いてある。

壁にはつたが伸び、漆喰しっくいは所々剥がれ落ちている。

屋根の瓦もひび割れが目立ち、今にも落ちて来そうだ。

その風貌は錆びついた商店街のアーケードよりもその古さを際立たせていた。


(何だろう…不気味な外観だけど、

すごく気になる)


ガララ

私は店の引き戸に手をかけた。


「お邪魔します。」

店内は照明のお陰かとても明るい。

所狭しと整列した白い桐箪笥きりたんす

黄土色の薬草が並ぶ商品棚。

レジの横に置かれた、狐を象った灰色の像。

(ここは漢方薬の専門店なんだ。)

そう思える店内だ。


…レジがスーパーにあるタイプなのがちょっと残念だけど。


「いらっしゃい。おや、初めてのお客様ですね。こちらの机へどうぞ。」

店の奥から浴衣を来た男が現れた。おそらく店主だろう。まげのように束ねられた

黒髪に、古そうな丸眼鏡。まるで大正時代の人がそのまま出てきたような姿だ。


「失礼します。」

白木の椅子に腰掛ける。

緊張で肩が張ってきた。


「そんなに緊張しなくていいですよ。

まずはお名前を聞かせてください。」


「桜井 愛子あこと言います。」


愛子あこさんですか…少しお待ちくださいね。」

そう言うと店主はレジ裏の引き出しを開け、小さな麻袋を持ってきた。


「こちらの『葛根湯かっこんとう』をどうぞ。」


「どうしてこれを?」

私は不思議に思った。


愛子あこさん、あなたは人間関係でお困りなのでしょう?わたくし、直観で分かるんです。」


「はい、実は…」

彼に、私の悩みを打ち明けた。


「そうでしたか。それは辛かったですね。」「そんな悩みも、これを飲めば解決しますよ。」


「本当に解決するんですか?」

私は疑っていた。この金魚の餌のような物にそんな力があるとは思えない。


「これは、ただの『葛根湯かっこんとう』ではありません。

『体』ではなく『心』を冷ます効能を持つのです。不安でしたらここで試飲していきますか?」


『心』を冷ますとは、どういう事なのか?

「はい、お願いします。」

気になった私は試してみる事にした。


コポポ…

高そうな湯呑みにお湯が注がれていく。

漢方の独特な香りが漂ってきた。


「出来上がりました。お熱いので、気をつけて召し上がってください。」


「いただきます。」

ゴクッ…

飲んだ瞬間、気持ちがスッとして、壊れた心が修復していく感覚を覚えた。


「なんだか、楽になりました。店主さん。ありがとうございます。」


「それは良かった。それでは残りの分もお渡ししておきますね。漢方は継続して飲むと、さらに効果を発揮しますので。」


「これで、いくらですか?」


「今回はサービスですので無料ですよ。」


「ありがとうございます!」

私は店主さんに一礼した。


「最後にご注意を。

いかなる薬も、量を過ぎれば毒となります。

くれぐれも多量に服用しないで下さいね。」


「は、はい。」

こうして、私は店を後にし帰宅した。


〜次の日〜

私はいつも通りに学校に行った。

教室に入ろうとすると、元彼である拓海に、ばったり会った。


「おはよう。……その、ごめんな。」


「もう終わったから。話しかけないで!」

私は彼の手を払った。


「あっこ!実は秘密にしてた事があって…

聞いてくれないか?」


「言ったでしょ?話しかけないでと。」

私は彼を振り払い、教室に入った。


「あっこ…どうしちゃったんだ?

俺の、せい…か。」


そうして、彼の存在を消した1日が始まった

…はずだった。


眠い国語の授業の時も


仲のいい友達と喋ってる時も


何故だか彼のことがが頭をよぎってしまう。

彼との関係は葛根湯で冷ましたはずなのに…


放課後、私はトイレに駆け込んだ。

(もういい!全て冷ましてやる!)


ゴクッ

渡された葛根湯全てをペットボトルの水に溶かして飲んだ。


葛根の香りに、私の思いが冷めていく。

私は人としての私に冷めてしまったのだ。

「なんで生きてるんだろ…」

私は考える力も失い、ふらふらとトイレを出た。


「あっこ!具合悪いのか?」

朦朧とする意識の中、その声だけは、はっきりと聞こえた。


「誰?私の事はいいからほっといて…」


「俺の事が分からないのか?」


「分からない。あなたは誰?」


「本当に分からないのか。…わかった。」

私はその背中に背負われた。


「しっかり掴まってろよ。病院に連れてってやる。」

掴むことすら億劫だったが、何故だかその言葉に励まされた。


ブロロ…

風が頬を撫でる。早いスピードで進んでいる事だけはよく分かった。


キイィ…

しばらくすると停止した。


「地図アプリ通りに来たはずだけど、道を間違えたかな?そこの店で聞いてみるか。」

私を背負ったまま、彼は店内に入った。

古びた外観のその店は見覚えがあった。


「いらっしゃい。…!愛子あこさん。その様子だと忠告を破りましたね。」

この人は、この店の店主だ。かすかに記憶が残っている。

「あっこを知ってるのか!」


「はい。「彼氏が私の事を大事にしてくれなくて辛い」とおっしゃっていたので、この『葛根湯』を処方しました。」


「それでおかしくなったわけだ!」

彼は店主に食ってかかった。


「落ち着いて。治す方法はありますよ。」

店主は店の奥へ向かった。


「これは『人参養栄湯にんじんようえいとう』といって、血行を良くして体を温める効果のある漢方です。」


「本当に治るんだろうな?」


「ご安心ください。私の漢方の効能は絶大ですので。」

店主は漢方にお湯を注ぎ、座らされた私の元にやってきた。

「これで治ります。」

私の口に匙を当て、中の液体を流し込んだ。


味を感じた瞬間、私の心がじんわりと温かくなった。家族、友達、そして…拓海。

私は温かな心を取り戻した。


「…あっこ!あっこ!」


「拓海?ここは…あのお店?」

私は店のテーブルに座っていた。


「元に戻ったんだな!本当に…良かった。」

拓海は私に抱きつく。その頬には涙が流れていた。


「ごめんね!こんなに迷惑かけて…」

私の目から涙が流れてきた。


〜しばらくして〜


「店主さん。漢方の飲み方を間違えて迷惑をかけました。これから気をつけます。」


「分かって頂ければそれでいいですよ。

また、いらして下さいね。」

こうして私たちは店を後にした。


「なあ、あの店主のことどう思う?

ちょっとうさん臭いんだよな。」


「悪い人じゃないと思うよ。ちょっと隠し事をしてるような所はあるけど」


「隠し事…か。」

拓海は恥ずかしそうに、

私から視線を逸らした。


「どうしたの?」


「実は俺のバイト先…実家の「匠食堂」なんだ。」


「『匠食堂』ってハンバーグで有名な所だよね?! 超人気店じゃん!」


「だから常に忙しくて、あっことデートする日も客が少ない日を選んでいたんだ。」

「結果は散々だったけど。」

拓海は、ばつが悪そうに顔を背けた。


「そうだったんだ。」

私は自分の勘違いに気がついた。

拓海は忙しい中、私に付き合ってくれたんだ。


「今度、うちに遊びに来ないか。俺の作った『匠食堂』の出来立てハンバーグをご馳走するからさ」


「行く!私、目玉焼きトッピングがいいな〜」


「任せとけ!最高の一皿を用意するからよ!」


夕日が街に沈んでいく。

色々あったけど、虹龍堂に行ったお陰で拓海との仲を取り戻すことが出来た。



手を繋いだ2人の影が

遠く遠くに伸びていた。

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