15:40。プールサイドにて

偢 せう

一話目。水中にて

 墨を流し込んだかのような黒髪が、水面の上で揺れていた。


ぺたぺたと肌に張り付くセーラー服は水を吸って重く、しかし感じさせるのは非日常。


 五月十三日の金曜日、今は放課後。私は自分の通っている高校、近社高校のプールの中にいる。


無論、セーラー服は着たままで。お陰で全身がぐしょぐしょになってしまっていた。

心地よい風が吹き渡り、私のショートボブを良いように弄んで乾かしている。でも今の私には少し冷たいかも。


 何故私が制服のまま水を張られたプールに不法侵入する、そんな、一般的に奇行とされる行動に走ったか。それにはもちろん訳がある。


というより、訳もなくこんなことをしている人がいたならただの危ない人なので刺激しないようにゆっくりと後ずさって逃げて欲しい。人に対して積極的に攻撃しようとは思わないそうだから、鈴などで自分がいることを知らせることも有効だ。ただそれでも襲いかかってくるものもいるそうだから用心しないといけない。とりあえず走るのだけは厳禁。ダメ絶対。


‥‥何故私は熊に遭遇した時の対処法を語っているのだろうか。


 私が何故こんなことをしているのか。


「あなたは何度私を殺した?」


目の前で立ち尽くす彼にこの一言を聞くためだけに私はこの舞台を用意した。


学校のプール、着たまま飛び込んだセーラー服、スタート台に揃えたスリッパ、ぽつんと制服から外されて浮かぶスカーフの赤。

全て、あの時の通りに。


 この記憶が正しいのなら、私は今と全く同じ状況でこの人に殺されている。

違うのは目の前の人物がひどく焦っている、私が死んでいないということだけだろうか。


‥‥私はまだ死んでいないのに、こうしてプールの中に居ても体温を感じることが出来るのに。



 何故こんなことをするに至ったかを話すには、現代の記憶に関わる特殊なシステムを説明する必要があるだろう。


 今、昔あった錬金術、占い、魔法などの古代からあった技術の見直しが進んでいる。その中で発見された技術の中に、人の頭の中から記憶を抽出して結晶として取り出すことができるようにするというものがあった。

 映画のワンシーンように映像として抜き取るもの、小説のように忘れたいものを文章として綴るのもその人次第だ。それもある住宅街にある小さなアクセサリーショップで出来てしまう。


 まるで夢物語みたいな話だが、夢をふっ飛ばして現実まで光の速さで帰還出来る程度の料金設定である。

ただ初回限定で料金が格安に設定されていることもあり(それでも万単位)意外と世間では使ったことのある人も多い。

 そしてこのシステムの特徴は、忘れたい記憶を確実に忘れることが出来、確実に思い出すことも出来ること。

数少ない例外である自分の名前や容姿を除いて、もう一度結晶化した記憶を飲み込むまでは絶対に思い出すことも、もう一度知ることも、更には認識することも無い。


逆に言うと、その結晶を飲み込むだけで結晶に封じ込めた記憶は全て思い出すことが出来るということ。

そしてそれは、自分の記憶でなくても行うことは可能。滅多にすることは無いそうだけど。

料金さえ考えなければ手軽に、例えばトラウマでさえ消してしまえる。その手軽さに人々は、


「事故を目撃してした記憶を消そうと思って結晶化したらそのちょっと前に勉強してた明日のテストの勉強も間違えて一緒に消しちゃったこれ単位落とすやつじゃんヤバい詰んだ泣くタヒぬ」


なんていう笑い話に象徴されるように、嫌な記憶を実に簡単に消してしまっていた。


 きっと私もそうだったんだろう。


 幼馴染の家族が経営するその店で、私はとある記憶を、砂糖細工のようにキラキラと光る二つの結晶、透き通るように青いものと、桜のような淡い色をしたものとに変えた。そしてそのまま大多数の人たちがするように、その店で回収してもらった。


 そして一ヶ月が経ち、私はそのことを今更のように激しく後悔した。まるで穴の空いていないベーグル、赤い三角帽を被っていない例のあの人、絵を一切描いていないのに何故か小説を書いている絵描き、そんな本質に関わる確かな違和感というものが胸のあたりを占拠して高らかにその勝利を宣言している。

そして胸にぽっかりと空いた不安感もまた違和感に埋められたところで消えてしまった訳ではなく、依然その存在を主張していた。


 そうして私は後悔してでもまた記憶を取り戻そうと画策し、具体的には幼馴染の両親に泣きついて、そして思いの外あっさりと許されて、また一ヶ月かけて結晶が雑多に詰め込まれた箱の中から自分のものを探した。


 結論から言うと完全に自分のものだと確信が持てるものを見つけることが出来なかった。

人と記憶によって色は異なるらしいがその違いは微々たるもので、一ヶ月前に見ただけの、それも青色や桜色といったアバウトな色で記憶しているものが確信を持って探せるわけはなく。幼馴染の両親いわく、そこはフィーリングであるらしい。

更に、その箱の中には何度探しても桜色の結晶は見当たらなかった。これは絶対だ。私のなんのこだわりも無いハーフアップにかけて。


 なんとなく懐かしさを感じる青い結晶をようやく探し当てたのが三日前。それでも、自分のものだという確証は無い。それを確かめる術も無い。でもこれしか無い。

 私は探し当てた結晶を多少ためらいながらも口の中に入れた。


そしてひんやりと冷たく、少し甘さのある味、そう、例えるような氷菓を口の中に放り込んだかのような感覚。頭痛。

映画の観客が映画に集中するあまり自分の存在を忘れていく時のように記憶の海の中へ沈んでいった。

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