座椅子

あべせい

座椅子が壊れるとき


「宅配便でーす」

「いま、行きます」

 その家の主婦が玄関ドアを開けると、宅配業者のドライバーが大きなダンボール箱を抱えている。

「エッ、またなの……」

 主婦は途端に顔を曇らせる。

 ダンボール箱には、有名なネットショップのロゴが刻まれている。

「こちら、由岐希美(ゆききみ)さんで、よろしいンでしょ?」

 ドライバーは我関せずと、相手の返事を待たずに、ダンボール箱を中に入れようとする。

「ちょっとッ。待ってくださらない?」

「エッ!」

 ドライバーはそこで初めて、主婦の拒否反応を感じ取った。

「それ、受け取りたくないの。持って帰ってくださらないかしら?」

「受け取り拒否でしょうか?……」

 こんどは、配達業者が顔を曇らせる。手続きが厄介になるからだ。上司からも、理由をしつこく尋ねられる。

「これ、失礼ですが、料金はお支払い済みだとうかがっています。それでも受け取り拒否でよろしいのでしょうか?」

 配達員は、この仕事を始めて、まだ半年足らず。いろんなお客がいることは、先輩に教えられたりして承知しているつもりだが、受け取り拒否は初めての経験だ。

「出来れば、キャンセル扱いにしてくださると、助かるンだけれど……」

 主婦は、整った美しい瞳で、じっと配達員の顔を見つめた。

「それは、お買い求めになったネットショップのほうでないと処理できないと思います」

「そうなの……そうよね。仕方ないものね。あなたにお願いするのは、筋違いというものよね」

 配達員の胸には、「三嶋遊路(みしまゆうじ)」と記されたIDカードがぶら下がっている。

 一方、主婦の名前は、果於梨(かおり)。由岐家に嫁いで、3年になる。夫は、銀行の支店長だ。といっても、勤務している銀行は大手だが、いまは北九州に単身赴任している。

 遊路は、時間がかかりそうな予感を覚え、

「失礼して、荷物を置かせていただいてよろしいでしょうか?」

「重いでしょ、どうぞ」

 遊路は、足下にダンボール箱を置いた。

 長さ1m弱、幅60センチ、高さが50センチほどのダンボール箱だ。

「どちらでお買いになったのですか?」

 遊路は、玄関框からダンボール箱を見下ろしている果於梨を見て、ふと関心を抱いた。

 彼女が美貌の女性というだけではない。交通事故で亡くなった2つ下の妹に、目許のあたりがよく似ているのだ。とりわけ、やさしく微笑んだ笑顔が、妹が生き返ってきたような錯覚を覚えた。

 遊路は、ダンボール箱を見て、

「お使いになったのは、ネットショップのナイルでょ?」

「そォ、義母はいつも、インターネットで注文しているようなの……」

「ナイルなら、幸い、大学の同期が勤めています。開封しないで、ぼくが奥さんの家族ということにして、キャンセルしてみましょうか?」

 遊路は、幼い妹が、買ったばかりのソフトクリームを地面に落として泣きべそをかいたときの顔を思い起こしていた。

「ホントッ!」

 果於梨の顔は、突然パーッと花咲いたような笑顔になった。

 遊路は、妹が困ったあの昔、地面に落ちたソフトクリームを拾い上げ、スーパーのアイスクリーム店に事情を話して、新しいソフトを無償で手に入れ、妹を喜ばせた。そのときの妹の笑顔と、目の前の主婦のそれが見事に重なった。

 果於梨は、遊路の胸のカードを見て、

「三嶋さんね」

「はい」

「実は、この座椅子を購入したのは、夫の母なの。これで5台目。半年に一台、ネットで注文するの。型の新しいのが出たからとか、便利な機能がついたからとか言って……」

 そのとき、廊下の奥から声がした。

「果於梨さん、届いたの?」

 すると、果於梨は、遊路に顔を近づけ、小声で、

「義母(はは)よ。義母は認知症だから、まともに聞いてはダメ。適当に相槌を打って」

 そうささやくと、後ろを振り返って、

「お義母さま、どうされました? 食後は、いつもお昼寝なさるのじゃ、なかったですか」

 と、咎めるように言った。

「そうじゃなくて、いま配達の方が見えたのでしょう……」

 車椅子に乗った老婦人が、そう言いながら、玄関に現れた。すると、果於梨は、老婦人の後ろに回り、遊路に向かって、老婦人の後頭部を指差し、「ニンチショウ」と告げるように、口をそのことばの形に開いた。

 そして、

「じゃ、お義母さま、わたくし、まだ洗い物がありますから、失礼します」

 と言いおくと、そのまま姿を消した。いつものことなのだろう。

「では、私もこれで……」

 遊路はダンボール箱を持ち上げ、後ろ向きに背中で玄関ドアを押して、外に出ようとした。

 すると、

「どうしたの? それ、わたしが注文した座椅子でしょう。持って帰るの?」

「エッ!」

 遊路はびっくりして、ダンボール箱を再び、足下に下ろした。

「ここに来る途中、壊れたの?」

 老婦人は、いぶかるように言う。

「いいえ。そうではないのですが……」

 遊路は、どうしたものか、戸惑った。

 キャンセルはできる。しかし、配達するのが彼の仕事だ。持ち帰りは、NGだ。

 遊路は、もう一度、配達伝票を見た。届け先の氏名欄には、「由岐久代」とある。

「由岐久代さんでしょうか?」

「はい」

 久代は明るい表情で話す。

「いまの方、わたしの息子の連れ合いですが、わたしのこと認知症と言ったでしょう?」

「はッ、い、いいエ……」

 遊路は、久代の表情を見た。眼はしっかり見開いている。そして、涼しげな眼で、若い頃は、かなりの美人だったことをうかがわせる器量をしている。年齢はいくつだろうか。

「ウソをついても、三嶋さんの顔にかいてあるわ」

 遊路はハッとして、着用しているつなぎのユニホームを見る。

 確かに、彼の胸には、「三嶋遊路」と刺繍してある。それを目聡く、読み取ったのだろう。彼は、認知症に詳しいわけではないが、こんなひとが、本当に認知症なのだろうか。

「わたしが座椅子を注文したのは、確かにこれが5台目です。でもね、果於梨さん、いま奥に引っ込んだ女性ね。あの方が、これまでの4台をすべて、その都度壊したから。使えなくしたから、幾度も注文したの……」

 遊路は混乱した。どちらの話を信用すればいいのか。久代の見た目は、まだ60代後半だろう。果於梨が30代半ばだから、その姑なら、そんなものだ。しかし、60代後半で、認知症は、早い。若年性認知症という話は聞いたことはあるが、しっかりした眼の表情、しっかりした受け答えを見る限り、認知症というのは、果於梨のウソかも知れない。しかし、なぜ、ウソをつく?

 久代は遊路の疑問を察したかのように、次のような話をした。

「息子はいま、新幹線で3時間以上かかる、西のほうに単身赴任しています。もう、2年になるかしら。以前は、毎週、週末には帰ってきていたのだけれど、最近はよくて、月に一度、ひどいときは、仕事が忙しいと言って、半年に一度、お盆と正月くらい。それも、1泊したら、赴任先に帰っていきます」

 これが事実なら、連れ合いとしてはおもしろくないはずだ。若い遊路にも、その程度の見当はつく。

「当然、息子と彼女の夫婦仲はよくありません。去年の秋だったかしら、果於梨さんは息子の赴任先に、連絡もせずに出かけたことがあるの」

 話がおもしろくなってきた。午前中の配達は、まだ10個ほど残っているが、営業所に電話して、車がパンクしたことにして、応援を頼もう。遊路はそんなことを考えながら、久代の話に聞き入った。

「何か、あったのですか?」

 配達員が尋ねることではない。しかし、将来の結婚生活の参考に、なるかも知れない。

 遊路は無責任を承知で、久代の相手をすることにした。

「息子に若い愛人がいたらしいの。でもね、わたしは信用していない。その愛人というのは、職場のひとではなくて、息子がよく行く取引先の方。ひとり住まいの息子を見かねて、親切にしてくださるみたいで……」

 なるほど。遊路は、40男が、若い女性から、やさしく話しかけられるさまを想像した。

 彼にも、そういう女性がいる。最寄駅から自宅に帰る途中にあるスーパー「ベリスク」のレジ係、三代子だ。

 遊路は、三代子と交際したいと考えているが、話しかけるチャンスがない。

「それで、果於梨さんは、誤解されたのですか?」

「そうみたい。帰ってくるなり、ひどい荒れようで、わたしが使っていた座椅子を庭に放り投げたのよ」

「それで、壊れた?」

 久代は深く、頷く。

 由岐家は、元々資産家なのか、敷地は500㎡はある広い敷地に、鉄筋コンクリ造りの3階建ての家屋が建っている。

「わたしがこんな姿になったのも、実は……」

 久代は、そう言ってから遊路を手招きする。遊路は釣られて前に近寄った。

 すると、久代は、一段と声を落とし、

「わたしは階段から足を踏み外して落ちたことになっているンだけれど……」

「はい……」

 遊路はすっかり仕事を忘れている。

「わたしは、あのひとのせいだと思っているの。階段の下から8段目に、ふだんはない、小さな透明のポリ袋が落ちていて、わたしは知らずにそれに足を乗せて、滑ってしまった。それで、階段下まで、ズズ、ズーッと……」

 ということは、事故ではなくて、事件。何者かが、階段にわざと滑りやすいポリ袋を置いた……。

 遊路が尋ねる。

「そのとき、ご自宅には、どなたもおいでにならなかったのですか?」

「いたわよ。あのひとが……」

「それで、すぐに救急車が駆けつけた?」

「あのひとはね、こう言ったの。庭で草むしりをしていたから、気がつかなかった、って。でも、わたしは大声を出して、懸命に助けを呼んだ。結局、10分もたってから、お隣の方が、気づいてくださって、119番に通報してくださったの」

「果於梨さんは?」

「救急車のサイレンが聞こえたから、って庭から玄関に回ってきて、初めて事態を知ったと言っていたかしら」

 広い屋敷だ。義母の叫び声が聞こえなかったのは、事実かも知れない。

「それで病院での処置はうまくいったのですか?」

 遊路は何気なく尋ねた。

 すると、

「そう、この通り……」

 と言って、久代は車椅子から、すっくと立ちあがった。

「アッ」

 遊路は唖然となった。そして、その瞬間、久代は元の通り、車椅子にそっと腰掛けた。

「いまのは内緒よ。もう、すっかりよくなったのだけれど、あのひとに、またいたずらされるといやだから……」

 久代はそう言って、微笑んだ。

 遊路は、久代が認知症というのは、果於梨のウソであることを悟った。しかし、義母を認知症にして、どんな得があるというのか。

 嫁と姑の確執。夫は単身赴任先で、愛人を作っているという。妻が、その不満を、夫の母に向けるのも、わからないではない。

 そのときだった。

 遊路が背にしていた玄関ドアが、突然開いた。

「ただ、いま……」

 遊路がびっくりして振り返る。

 と、そこには、両腕で松葉杖をつき、頭を包帯で包んだ、風采のあがらない40男が立っている。

「堅持ッ、どうしたの!」

 久代が叫んだ。

 遊路は、玄関土間の壁に体を寄せ、堅持と呼ばれた男性が中に入れるスペースを作った。同時に、厄介なことになりそうな予感が走る。

「奥さま、このお荷物、受け取っていただけるのでしょうか?」

 すると、堅持は何を勘違いしたのか、その高さ50センチほどのダンボール箱の上に、どっかと腰を下ろした。

「ちょっと、それは困るンですが……」

 遊路は、ダンボール箱が変形しかけているようすを感じ取った。

 まずいッ。以前にも、ダンボール箱の角がつぶれて、客からクレームがついたことがある。返品することになれば、遊路の責任になりかねない。

「いいわよ。受け取るから。堅持、いまそこに、印鑑は持っていない?」

「エッ、母さん。これ、また、座椅子なのか?」

 堅持は、自分の尻の下の箱を見て、腰を浮かしかけた。しかし、すぐに、

「イテッ!」

 顔をしかめ、再び腰を落とす。

「堅持、早く上にあがりなさい。すいません。息子に手を貸していただけませんか」

 久代は車椅子から立ち上がりそうになりながら、堅持に手を伸ばす。

 遊路は見ていられず、堅持の脇の下に腕を差し入れ、松葉杖を使って家にあがりこむ堅持の手助けをした。

 そのときになって、ようやく、

「あなたッ、どうしたの、その格好!」

 果於梨だ。廊下から走り出てくると、久代の車椅子を脇に押しのけ、夫と正対する。

「いや、ちょっと階段を踏み外して、このざまだ。銀行は少し休むことにした。とにかく、寝かせてくれ」

 堅持はそう言い、松葉杖を慣れない手つきで使いながら、廊下をゆっくりした足取りで進んで行く。

 果於梨は、何かを感じるのか、夫の表情をジッと観察しながら、夫の腰を支えて行く。

「ご苦労さま。あとはこちらでやりますから……」

 残された久代は、遊路をねぎらうように言った。では、受け取ってもらえるのだ。

「奥さま、印鑑でなくてもサインでけっこうです。こちらにお願いします」

 遊路は伝票とボールペンを差しだし、署名をもらった。

 もう、用はない。10数分、かかっただろう。遊路はホッとして玄関を出て、6、7メートルある門扉まで走った。

 外に駐めてある軽トラックのエンジンをかけ、出発しようとすると、目の前をふさぐように、4㌧トラックが割り込んできた。

 由岐家の前は、住宅街の道としては幅10mはある広い道路だ。遊路は、邪魔なトラックを避けて走ることはできる。

 しかし、そのトラックは、遊路と同じ会社のものだった。しかも、運転席から降りてきたのは、この地域を一緒に担当する、同じ営業所の親しい同僚、若狭司浪(わかさしろう)だった。

「司浪、この家に配達か?」

「遊路、ちょうどいい。手伝ってくれ。助手でくるはずのやつが病欠で、困っていたところだ。おまえの配達はあとでおれも手伝ってやるからさ」

「それはいいが、モノは何だ?」

 司浪は素早く荷台に乗りこみながら、

「リハビリ用の歩行器や、平行棒らしい。いろいろパーツが分かれていて面倒なンだ」

「ヨシッ!」

 遊路は、日頃、司浪にはいろいろ世話になっている。一緒に酒も飲む仲だ。

 遊路は軽トラックから降りると、司浪のトラックの荷台前に立った。

 2人で手分けして、パーツごとに梱包されているダンボール箱を抱えて門扉を抜け、再び由岐家のインターホーンを押す。

 用件を伝えると、再び果於梨が現れた。

「あらッ、あなた、まだ用があるの?」

 果於梨はそう言いながら、遊路の横に立っている司浪を見る。

「お2人……」

 すぐに、司浪が、

「こんどはリハビリ用具のようです」

「リハビリ? あァ、主人のかしら。ちょっと待って。うちのひとに聞いて来るから」

 果於梨は奥に消えた。

 まもなく、果於梨が戻って来て、

「夫は首を傾げているンだけれど……、買った覚えはない、って……」

 司浪は、配達伝票を見ながら、

「おかしいな。料金は支払い済みで、宛先は、由岐堅持さんとなっているンですが……」

「ちょっと見せて。差出人は?」

 果於梨が、玄関前の、司浪たちの足下にあるダンボール箱の伝票を覗きこもうとする。

 そのとき、車の音が間近に聞こえた。

 3人が同時にその音のするほうを見る。

 鮮やかな真っ黄色のツーシートの車が、開いた門扉の間を、まるで我が物顔で走りこんで来ると、玄関前で急停止した。

 遊路と司浪は、この屋敷の家族だろうと考え、その家族の出入りの邪魔にならないようにと、下に置いたダンホール箱を脇にずらす。

 車から降り立ったのは、真ッ黒いサングラスをかけ、長い髪をふりかざした若い女性だ。

 黄色いワンピースに、靴もバッグも黄色。全体にスリムで、スタイルもいい。黄色づくしの女性は、つかつかと司浪たち3人の前にやって来た。

 女性はサングラスを外すと、ニッと笑いながら、

「こちらかしら、支店長さんのお宅、って?」

 その言葉で、遊路と司浪は女性が家族ではないことを知ったが、もっと驚いたのは、彼女が美人女優に負けない、いや、それ以上の美形だったからだ。

 まるで、おとぎ話の世界から、抜け出て来たような美女。白雪姫が実在するのなら、さぞかしこンな女性なのだろう、と思わせるような……。

「失礼ですが、あなたは?」

 しかし、果於梨はその美形に臆することなく、キッとした表情で尋ねる。

 果於梨には、すでに女性の正体に見当がついているのだろう。

「わたし? わたしは、こちらのご主人の銀行と取り引きがある、北九州の大手重機メーカーの一人娘です」

 自ら、親の経営する会社を「大手」と言いきるのだから、親のしつけのほどが知れるというものだが……。

「お名前は?」

 果於梨は畳みかけるように尋ねる。

「黄枝画伊美(きしえいみ)と申します」

 言葉遣いは、丁寧だ。

「で、ご用件は?」

「荷物が届きませんでしたか? 昨日、お送りしたのですが……」

 それを聞いて、遊路と司浪は顔を見合わせた。

 同時に、果於梨は薄ら笑いを浮かべながら、

「それでしたら、いま受け取り拒否をしたところです。こちらにおられる方が、配達に見えたのですが、宅では、そのようなものは受け取るすじあいがございませんから……」

 画伊美は、開け放たれた玄関ドアの外にいる遊路と司浪、その2人の足下にある3個のダンボール箱を振り返って言った。

「あなたたち、その荷物の宛先をご覧になって。名前は何となっています?」

「エッ」

 司浪は、ダンボールに貼りつけてある伝票ではなく、手に持っている配達伝票を見た。

「由岐、堅持さんとなっていますが……」

「そうでしょう。わたしは、由岐堅持さんにお送りしたのです。堅持さんが拒否なさるのなら仕方ありませんが、ほかの方では納得できません」

 すると、果於梨はにべもなく、

「夫はいま伏せっております。どうぞ、そのお荷物と一緒に、お引き取りください」

「わたし、今朝、東京に着いたのです。用件をすませないうちは帰れません」

 画伊美はそう言ったあと、遊路たちを見て、

「あなた方、その荷を早く、中に入れて組みたててください」

「組みたてる!?」

 遊路が驚いた。会社では実際そういうサービスをしている。で、司浪を見ると、彼は目顔でそうだと応える。

 そのときになって、

「画伊美さんッ!」

 夫の堅持が、母親に付き添われて、果於梨の背後に現れた。

「由岐さん、たいへんな誤解が生じているようです。奥さまに、何もお話なさっておられないのですかッ!」

 画伊美は厳しい表情で、堅持を見る。愛人の顔ではない。

「そ、それは……」

 司浪は玄関から見える位置に停止している車に気がついて、遊路に目配せをする。

 遊路は、画伊美が乗り付けた車を見た。ナンバープレートだ。「品川」ナンバーで、しかも、「わ」ナンバー。飛行機で羽田に着き、レンタカーでここまで来たのだろう。カーナビがあれば、地理に不案内でも、どうということはない。荷物とほぼ同時に到着したのは、彼女にその必要があったのだろう。

「あなた、どういうことよ。このひととどういう関係なのッ!」

「堅持、はっきりしなさい。あなた、都市銀行の支店長でしょッ!」

 果於梨に続いて、母の久代もようやく疑問を感じて、息子を詰問する。

 しかし、堅持は下を向いたまま、何も言えない。

「仕方ありません。差し出がましいようですが、わたくしからお話します」

 画伊美は次のような、驚くべき話をした。

 堅持が支店長を務める銀行は、画伊美の父が経営する重機メーカーと取り引きがあり、堅持は黄枝家に出入りするうち、大学を卒業したばかりの画伊美に好意を抱いた。好意だけなら、まだいい。しかし、やがて画伊美に恋心を持ち、それがどんどんエスカレートしていった。

 元々、堅持は女性に対してはだらしがない。由岐家は代々資産家で、その資産にものを言わせて、堅持はいま勤務する銀行に縁故採用されたようなものだった。

 堅持は、頭は悪くないから、それなりに仕事をこなし、都内の支店長にまで出世した。しかし、職場の部下だった果於梨と結婚後、元来の女好きが頭をもたげ、支店内の若くてきれいな女性に目をつけると、次々に口実を設けては勤務後一緒に食事をし、そのあとホテルにまで誘うようになった。その被害を受けたのは、1人や2人ではない。

 本店ではその噂を耳にして、北九州の支店に、堅持を飛ばした。左遷だ。それで、少しは懲りて、慎めばよかった。

 しかし、画伊美は美し過ぎた。若く、肉体的にも、男好きのするボディをしていて、堅持は一目見て、忘れられなくなった。

 親しくなりたい。そして、あわよくば……と、けしからぬ妄想まで抱くようになった。

 そして、ついにその日が来た。

 その日、画伊美は趣味の油絵を描くため、広い屋敷にひとりでいた。

 堅持はお手伝いの年配女性が買い物に出ている時間帯を狙って訪問すると、応接間でどうでもいい書類を父に手渡して欲しいと話してから、かねてからの想いを打ち明けた。

「あなたのことが、どうしても、頭から離れません。しかし、私は支店長です。この想いを断ち切る必要があります。そこで、私はそのために……」

 と言ったあと、手を伸ばし、画伊美の手を握ろうとした。画伊美は驚いて起ちあがる。彼女は、それまで、屋敷を訪れたときの堅持のいやらしい目付きに、気がついていた。危険だ。

 画伊美は逃げた。走り、階段を上がる。逃げられると、追いかけたくなるのが、好きになった者の心理だ。

 堅持は階段を上る彼女を追い、階段を駆け上がる。と、彼女を下から見上げる形になり、いままで見たことのない刺激的な角度から、彼女の姿を目にしてしまった。もう、あとは何がなんだかわからない。

 気がつくと、堅持は画伊美に振り落とされ、10数段の階段を下まで転げ落ちていた。

 救急車が呼ばれ、堅持は病院に搬送された。画伊美は、警察にこの事態を報告するべきか、迷った。彼女に実害はない。むしろ、肉体上の被害を受けたのは、堅持のほうだ。

 堅持は、脛と腕を骨折、頭部に打撲を負っていた。

 考えると、母と同じく階段から落ちてケガをしたことになる。母の久代は、軽くすんだ。しかし、堅持は、支店長としての勤務は不可能になった。堅持は訪問先の階段でうっかり足を踏み外して大ケガをしたと本店にウソの報告をし、帰京を許された。

 黄枝家には、幸い、防犯カメラが各所に設置されていた。画伊美がそのDVD映像を再現すると、堅持のその日の粗暴な行動が鮮明に映し出されていた。

 画伊美は、そのDVDを貸し金庫に収納して、万が一のために備えることにした。

 以上がことの顛末だ。画伊美はそれでも、取引のある銀行支店長をケガさせたことを思い、快復を早めるためにリハビリ用具を贈る決心をした。

 それが、司浪のトラックが運んできた3点のダンボール箱だった。

 果於梨は、すべて聞き終えると押し黙った。下半身にだらしがない夫の性癖は、結婚後すぐに気がついた。しかし、由岐家は資産家だ。こどもは、大学に通っている息子がひとりいる。あとは、息子を立派に育てることに腐心して、結婚生活を続けるだけだ。

 画伊美は、話し終えると、レンタカーを運転して帰った。その際、遊路と司浪に対して、

「あなたたち、いいひとね」

 と言い、清々しい笑顔を残して去っていった。

 遊路は司浪と一緒に、30分ほど掛けて、平行棒と歩行器を組みたてながら、ふと思った。

 画伊美のあんな美しい笑顔を見たら、だれだって、心が乱れてしまう。好きになって、誘いたくなるのは、堅持だけではないだろう。

 遊路はそんな気持ちがして、別れ際、司浪に言った。

「彼女、支店長を誘うようなことばを掛けなかったのかな?」

 すると、司浪は、

「女はわからない。自分ではそんなつもりはありませんと言うだろうが、いつも注目されたがっている女は珍しくない。おまえも、気をつけろ」

「そうだな。女もいろいろあるからな」

 遊路はそう応えながら、ふとスーパーの三代子のことを思った。すると、急に彼女の顔が見たくなった。

 その日の勤務を終えると、遊路は、営業所と最寄駅の途中にある、三代子の勤めるスーパーに立ち寄った。

 いつも、アルコールや食料品を買って帰る。そして、いくら混んでいても、三代子がいるレジに並ぶ。その夜は、給料前のせいか、レジ前はすいていた。

 三代子は、遊路の買った商品をすべて計算し終えると、いつもはしないのに、品物をレジ袋に詰めながら、

「あなた、ひとり?」

「エッ!? ハイッ、まだ、ひとりものです」

「そォ、わたし、明日、お休みなの。何も予定がないのだけれど、一緒に遊園地に行かない?」

「エッ、ぼくとですか?」

「当たり前じゃない。ほかに、だれもいないもの。あなた、この店に来るお客サンのなかで、いちばんやさしそうだもの。それとも、明日は、先約があるの?」

「いいえ、ありませんが……」

 と応えた後、遊路は、こんな誘い方をする女性は、警戒するべきなのか、と考えた。

 堅持という銀行支店長も、こんな風に画伊美を誘い、最悪の事態に陥ったのだ。

「どうしたの? わたしでは、ダメ?」

 遊路は、かわいい三代子の顔を見ながら、

「そんなことはありません。うれしいです。ただ……」

「ただ? ただ、どうしたの?」

「三代子さんは、腹が立ったとき、座椅子を壊すことはありませんか?」

「エッ!?」

 遊路は、自分でも、どうしてこんなヘンチクリンな質問をするのか、わからなかった。

                (了)

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座椅子 あべせい @abesei

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