第5話 元カノの寝起きドッキリ

 状況を冷静にまとめてみよう。


 留学したはずの元カノが突如、俺の高校に出現。

 結婚まで意識してそうな雰囲気で猛烈に大攻勢を仕掛けてきている。


 さらには16歳同士という法律的問題は権力でねじ伏せようとしている気配。

 あと、なんか……イヤらしいことを容認するような発言がちらほらと見て取れる。


 ……うん、キャパオーバーだ。


 一般人の俺にはすぐには対処しきれない。


 というわけで。

 階段での話し合いはとりあえず一旦保留という形に落ち着いた。


 とてもじゃないが頭の整理が追いつかないのと、優愛の方も何やら生徒会室に用があったらしい。


 無事入学できたので理事長を説得してくれた件について、改めて生徒会長にお礼を言いにいったのかもしれない。


 そして俺はというと、帰宅してから自室で延々と頭を抱えていた。


「結婚……結婚……結婚か……っ」


 寝間着の代わりのジャージ姿で、ベッドに座り、同じ言葉をお経のように唱え続けている。もう『結婚』という言葉がゲシュタルト崩壊しそうだった。


 優愛のことは好きだ。

 また会えて本当に嬉しい。


 正直、また付き合いたいし、なんなら電話して今すぐヨリを戻したいとも思う。


 しかし。

 ゲシュタルト崩壊気味の言葉があまりにも大きすぎる。


 そもそも中学の時に俺が別れを決断できたのは、何よりも優愛ゆあの将来のためなのだし。


「俺は一体どうすれば……っ」


 本当に大切だからこそ、答えが見つからない。


 そのまま明け方近くまで悩み続け、いつの間にか気絶するように眠っていた。



 ………………。

 …………。

 ……。



「……ま……ろ……起きなさいって……まひろ……」


 意識の向こうから誰かの声がする。


「まひろってば……ねえ、真広まひろ……」


 この声は……聞き覚えがある。

 世界で一番好きな女の子の声だ。


「ちょっと、いつまで寝てるの? このわたしが寝起きドッキリしてあげてるのよ? 感謝して感激して号泣しながら早く起きなさいってば」


「……ああ、わかってるよ。もう起きる。起きるからさ、ゆ……」


 寝ぼけまなこで瞼を開いていく。

 世界で一番好きな女の子の顔が超至近距離にあった。


「優愛ぁっ!?」


 俺はバネ仕掛けのオモチャのように飛び退いた。

 ベッドの頭の方へ退避し、毛布を抱いてガクブルする。


「なっ!? えっ!? 優愛っ、なんで優愛!? どういう優愛!?」

「どういうもこういうも、普通にわたしよ。あなたの知ってる、神の奇跡のような美少女、つまりはいつも通りのわたしよ」


「……げ、幻覚?」

「違う違う。幻覚はしゃべったりしないでしょーが」


 そりゃ幻覚はしゃべらないけど、どの口が言うのさ。

 と思ったけれど、驚きすぎてツッコミもままならない。


 確認するがここは俺の部屋だ。

 そこに優愛がいる。


 中学時代、受験勉強のために優愛がきたことは何度もある。

 でも目の前の彼女は今、高校のブレザーとスカート姿。


 夢……?

 いや現実だ。


 さすがに頭がはっきりしてきた。


「なにゆえ優愛が朝から此処に……?」

「なにゆえ武士のような口調? まあいいけど」


 ブレザーの肩をすくめる。


「真広の家の前って、わたしの通学路じゃない? ちょうど通りかかったらおば様がゴミ出しに出てきてて、真広を起こすの頼まれたの」


 ウチの母の差し金か……!


 中学の頃に何度も来ているので、俺の母親と優愛は面識がある。

 しかも母親は優愛のことを大層気に入っていて、距離感もすこぶる近い。


 家の前でたまたま会ったら、確かに俺を起こすぐらいは頼みそうだ。

 なんせ母親はまだ……俺たちが付き合ってると思ってるし。


「真広さー」


 ギシッとスプリングが軋み、優愛がベッドに腰を下ろす。

 鬼の首を取ったような超ニヤニヤ顔だった。


「わたしたちが別れたこと、おば様に言ってないでしょう?」

「う……っ」


 そうなのだ。

 俺は母親に卒業式での一件を話していない。


 優愛が留学するはずだったことすらあの人は知らないはずだ。


「まったくもう、話を合わせるこっちの身にもなってほしいものだわ。おば様に笑顔で『真広とはどう? 仲良くやってる? 高校でもよろしくね』なんて言われちゃって。わたしだからとっさに取り繕えたのよ? 感謝してよね?」


 くっ、何も言い返せない。


「ねえねえ、なんでおば様に言わなかったの? ほら、怒らないから言ってみなさい。ちゃんと聞いたげる」


 聞いたげる、とかまるで子供を諭すような口調で言って、ぐいぐい近づいてくる。


 優愛のきれいな顔が無防備に迫ってくる。


 俺はベッドの端にじりじりと逃げていくが、すぐ壁際に追いつめられてしまった。


「ほらほらー?」

「く、くぅ……っ」


 母親に言わなかった理由なんて決まってる。

 認めたくなかったからだ。


 離婚したばかりの母親に言うのがはばかられたというのもあるけれど、それ以上に言葉にしてしまうと現実感が増してしまう気がして嫌だった。


 しかしながら。

 それをここで白状してしまうのは、政治情勢的に非常に危うい気がした。


 俺はまだ将来について悩んでいる最中だ。

 具体的にどう悩んでいいかもわからないような状況だ。


 高度な政治的判断として、ここで優愛を調子づかせるわけにはいかない。


「優愛、一ついいかな」

「一つでも二つでもいくつでもいいわよ?」


「まずはベッドから下りよう」


 厳格な裁判長のようなイメージで粛々と告げる。


「まず厳然たる事実としては現在、俺たちは別れている状況だ。そんな二人が同じベッドの上に座しているのは倫理的にとてもよくない。そう、とてもよくない。だからまずはベッドから下りよう。優愛、君は正しい人間だろう?」


 我ながら極めて正論であると思う。

 しかし俺の発言を聞いた途端、


「ふーん……」


 優愛がジト目になった。

 非常に不穏な雰囲気だ。


「このわたしと同じベッドにいる状況で、そーゆーこと言っちゃうんだ? へー、ふーん……」


 そうつぶやいたかと思うと、優愛はわざとらしく目を逸らし、ボソッと。


「わたしにヤラしーことしたいくせいに」

「……っ!?」


 カチンときた。

 さすがにこれには物申さずにはいられない。


「お嬢さん、前言を撤回して頂きたい。俺は君のことを心底大切に思ってる。だからこそ、付き合ってる時も手を繋ぐ以上のことはしなかった。誓って言うが――」


 カッと両目を見開く。


「俺は優愛をヤラしい目で見たことなんて一度もないッ!」

「なぁ……んですって!?」


 優愛の顔が盛大に引きつった。


「人間が誇る造形美の到達点とも言える美少女のわたしを前にして、なんたる言い草!? 本気で言ってるわけ!?」

「ああ、本気さ!」


「昨日だって『ヤラしーことし放題』なんてセリフ、恥ずかしくて死んじゃいそうなのを我慢して言ってあげたのにーっ! 今日だって寝ぼけて真広がちょっとくらい触ってきても絶対逃げずに我慢してあげようと思ってたのにーっ! エッチなこととか怖いけど、真広のためなら頑張れるって思ってたのにーっ! それでも本気で言ってるわけ!?」


「ああ、本気さ! ……ってちょっと待った、本当にそんなこと思ってたの!?」


 ポンコツな勢いですごいことを白状され、こっちの厳格な雰囲気が崩れかける。

 しかし優愛の勢いは止まらない。

 

「そっちがその気ならいーわ。わたしにも考えがある!」


 突然、ギンッとベッドのサイドボードを睨んだ。


 そこにあるのは俺のスマホ。

 優愛が素早く手を伸ばす。


「没収!」

「没収!? なんで!? いやでもスマホなんて没収してもパスワードが……」


「付き合ってた時に見てたから知ってる」

「しまったーっ!?」


 流れるような手つきでパスワードが解除されてしまった。

 しかしスマホなんて見て、なんの意味が……と思っていたら。


「我はエッチなサイトのリンクを辿るなり」

「武士のような口調でとんでもないことを!? 何考えてんのさ!? やめて、やめてくれーっ!」


 スマホを取り返そうと手を伸ばす。

 しかしひらりと躱されてしまった。


 優愛は運動神経もいい。

 スカートをひらひらさせて蝶のようにベッドから離れてしまう。


「どれどれ……あ、これね」


 そして地獄の蓋が開いた。

 スマホを覗く優愛の目、虫を見るようなものになりました。


「うわ、男の子って本当にこういうの見るんだ。ちょ、なにこれヤバ……ええっ!? う、嘘でしょ? 正直引く……」

「ぎゃあああ!? 侵害っ、侵害! 深刻なプライバシーの侵害です!」


「権力者だから侵害していいの」

「そんな理不尽があるかーっ!? ……って、あいた!?」


 勢い余って俺は無様にベッドから落下。

 優愛はまだスマホを閲覧中。


「うーわー、思った通りだわ……」


 頭上から死刑宣告のようなドン引き声が聞こえてきた。


「社長令嬢のカノジョがどうたらとか、元カノと体育倉庫に閉じ込められてうんぬんとか、真広の観てるエッチな動画って……誰かさんを連想させるものばっかり」

「ぐわぁぁぁ! 殺して、もう殺して下さいぃぃぃっ!」


 床べちゃ状態で悶絶する俺。

 すると優愛が膝を折ってスマホを突きつけてきた。


 もはや鬼の首を取るどころか、討ち取った首でダンクシュート決めてるぐらいの超絶ニヤニヤ顔だ。


「はい、では彩峰あやみね高校1年A組の森下もりした真広くん。君は毎晩誰のことを思い浮かべてこんなものを観てるのかなぁ?」


「……勘弁して下さい。俺のライフはもうゼロです。ゼロどころかマイナス方面に振り切って虚数の値になってます……」


「じゃあ、証明終了。真広はわたしのことヤラしー目で見てる。異議はあるかしら?」

「早く死刑を執行して下さい。被告の望みはもうそれだけです……」


 厳格な裁判長のイメージで臨んだ俺だったが、結局、裁かれるのはこっちになった。


 わかってる。

 いつだって俺はこのお嬢様には敵わないのだ。


 でもこれだけは信じてほしい。

 確かに動画は観たが、優愛本人に邪な感情を向けたことなんて本当にない。


 それはしちゃいけないことだと思うんだ。

 ……まあ、うん、そんな説明するを本人にできるはずもないけれど。


「ふっふーん、完全勝利♪」


 床にスマホを置き、優愛はご満悦で立ち上がる。

 俺は返却されたスマホを抱いて、しくしくと泣くばかりだ。


「さて、じゃあ、リビングに下りて早く朝ご飯を食べて。待っててあげるから一緒に学校へいきましょう。あ、スマホの罰として、登校中はわたしの鞄を持つこと。いいわね?」


「へ?」


 思わず目が点になった。

 そのお裁きは……あまりに寛大すぎるのではないだろうか。


 優愛は言いたいことを言ってスッキリ、という顔でとっとと部屋から出ていってしまう。俺は慌ててその後を追った。


「ちょ、ちょっと待って、優愛……っ」


 この部屋は二階にあり、優愛はすでに階段に差し掛かっている。

 その背中に俺は言う。


「鞄を持つって……そんな簡単な罰でいいの!?」

「ん? 今日から授業あるでしょ? 辞書とか入ってるからそこそこ重いわよ?」


「そういうことじゃなくって……っ。なんていうか……」

「ああ、わたしを夜のオカズにしてること?」


「……っ」


 振り向いて開口一番のセリフに俺は固まった。


 お嬢様がオカズとか言ってはいけないと思う。

 しかしこの状況だとツッコめない。


 気まずくて目を逸らす。


「いや、その、嫌悪感とか……ないのかなって。いくら付き合ってたからって……」


 優愛は目をパチクリと瞬いた。

 そして当たり前の顔で。


「え、普通にキモいけど? ちょっと真剣に訴訟を検討するレベル」

「ですよねーっ!?」


 いかん、もう物理的に死にたい。

 膝から力が抜けて、ふらふらと膝をつく。


 そこに柔らかな声が届いた。


「でもいいよ。真広だから特別に許してあげる」

「え?」


 優愛は照れくさそうに自分の毛先をいじる。


「生徒会の先輩が教えてくれたの。男の子って……好きな子を一週間に一度は押し倒しちゃうような生き物なんでしょ?」


 え、なにそれ?

 そんな理性を消失したような男の子はいない。いるわけない。


 誰に聞いたの?

 生徒会の先輩? 生徒会長じゃなくて?

 どういうところなんだ、生徒会って。


「でも真広はわたしにそういうことしなかったし……ああいう動画観るのって、きっと回りまわってわたしを大切にするためなんでしょ? そこはちゃんと……わかってるから」

「……っ」


 わかって……くれてたのか。

 なんだか嬉しくなってしまう。


 そんな俺の顔をちらっと見て、優愛は続けた。


「だから……ね? キモいはキモいけど、真広だったら一周回ってアリかな、みたいな? 先輩の言葉を借りるなら『ふふふ、こやつめ』って感じ?」


 うん、その先輩の例えはさっぱりわからないけれど。


 迷いが少し晴れていく感じがした。

 将来まで見据えたような答えはまだ見えないけど、でも……。


「……わかった、罰として優愛の鞄を持つよ。だけど、その間さ……」


 やばい、恥ずかしい。

 顔が熱い。


 でも優愛がここまでいってくれたんだ。

 俺も気持ちを返すべきだ。


「……手を繋いでてもいい? 学校のそばまででいいから」

「あ……」


 ぱぁーっと優愛の表情が輝いた。


 しかし思いきり表情に出たのが恥ずかしかったのか、慌てたようにちょっと俯く。

 それからコクンと小さく頷いてくれた。


「……うん、いいよ」


 そうして。

 俺たちは手を繋いで登校した。


 最初は少しぎこちなく指先が触れ合い、ゆっくりと絡め合って、やがて昔のように手を握り合った。


「真広の手、やっぱり大きいね。なんだか久しぶりな感じ……」


 優愛は感触を確かめるようにきゅっと力を込めると、


「へへ、温かい……」


 はにかむように笑った。

 

 将来のこととか、考えなければいけないことは色々ある。

 でも笑っている優愛があまりに可愛いので。

 

 今日のところはまあいいか、と思った。

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