第12話

 公園を後にして、ぶらぶらと歩き回った。ぶらぶらと、と思っていたのは私だけで、あなたの足は小さなアパートの前でぴたりと止まる。

「ここが私の新居です」

「あ、ここが」

 質素な、貧しそうなアパートだった。あなたは私の手を握って、階段を上がる。カンカンと音のするような、古い鉄製の階段だ。

 あなたの手には、鍵がふたつ握られている。そのうちのひとつを鍵穴に差し込み回す。安っぽい鍵がはずれる音がして、玄関が開かれた。あなたは先に中に入る。動くのをためらっていたら、「お入りになってください」と小さな声で言われた。

「しかし」

「お願いです」

「入っていいものかと」

「先生、お願い」

すっと袖をつかまれ、玄関先に引き寄せられる。小さく一歩先に進むと、あなたは私の首に抱きついてきた。

「先生」

引き寄せられて、玄関に入ってしまう。私のすぐ背後で、ドアが閉まる鈍い音がした。


 アパートの部屋には、すでに最低限の住まいの準備がなされていた。蛍光灯をつけると、小さな部屋がぼうと浮かび上がる。小さなテーブル、ほんの少しの食器類、新品らしき布団が一組、そしてヒーター。あなたはすぐにヒーターをつけて、私に座ってあたたまるよう促した。

「お茶をいれますね」

「お手数を。申し訳ない」

キッチンに立つあなたの後ろ姿を見て、私は初めてその傷を見つけた。左のふくらはぎの上のほうに、青あざがある。ただの通行人ならば誰も気づかないようなものだろうが、暴力の話を聞いた私にはすぐにわかった。

「ゆりさん」

近づいて、背後からあなたを抱きしめる。

「はい」

お茶をいれる手を止めて、あなたはじっと私の腕の中にいた。

「あなたが殴られているなんて、私には耐えられない」

黙って身体を動かし、振り向いたあなたは、泣いていた。

「先生」

洗ったばかりのひんやりとした指が、私の両頬に触れる。その独特の感触が生活感を覚えさせ、あなたの痛みが伝わってくるようで、私の心は締めつけられた。

「先生、私のこと、好きでいてください」

「好きですよ、とても」

「もっと好きでいて」

唇に、唇が触れる。彼女の唇は、少しだけレモンの味がしたような気がする。

「ゆりさん、好きだ」

ため息まじりで囁くと、あなたのため息も聞こえてくる。色づいた息のかすかな音は、私の気持ちを掻き立てる。欲しい。あなたのすべてが。

「先生」

「どうしよう、欲しい」

「だめです、あざだらけだもの」

「構わない」

構わないわけがない。そんなことをしては。理性ではわかっていながら、あっという間に理性が崩れていくのが感じられる。


 私は、あなたを抱いてしまった。あざだらけの全身は、暗くてもわかった。あざなど、どうでもよかった。あなたの身体は甘く、柔らかく私を誘った。指先に絡まる長い髪の毛が苛立たしいと思うほどに、溺れきって身を任せた。このまま底なし沼の中に、あなたの内部に沈んでしまえたらと、私は祈らずにいられなかった。


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