エルカリム
Pixy
序章 革命編
第1話 『運命の悪戯』
木が生い茂る深い森の中、1人の若い娘が走っていた。
息も切れ、足元を悪路にすくわれながらも、道無き道を一心不乱に走り続る。
まだ20歳にも満たないであろう、あどけなさの残る可愛らしい顔立ちをしていた。
上質な絹の洋服は、木々の枝に引っ掛けてあちこち破けている。
よく磨かれていたはずの靴もすっかり泥にまみれ、可憐だった容姿は見る影もない。
彼女の震える華奢な腕には、鞘に収められた一振りの剣が大切そうに抱えられていた。
鞘も柄も貴金属や宝石で彩られた、まさに宝剣と言うべき代物だった。
ふと、彼女が恐怖に歪んだ表情で後ろを振り向く。
背後からは返り血に染まった鎧を着た男達が、赤黒く濡れた剣を手に追ってくる。
「いたぞ、あそこだ!」
「逃がすな!」
皆目を血走らせ、全身から殺気を放っていた。
(逃げなきゃ……!)
娘は再び前を向くと、また力の限り走り出す。
最早体力は限界に達しており、鬱蒼とした森の中で手を差し伸べてくれる者もいない。
彼女自身、逃げるアテすら分からず森の中を走っており、体力で勝る男達に距離を詰められるのは必然だった。
それでも息も絶え絶えに彼女は走り続けた。
生存本能が限界にまで高まり、動くはずのない身体に鞭打って突き動かす。
しかし無慈悲にも、彼女を追い越した1人の男が行く手を塞ぎ立ちはだかる。
「もう逃げられませんぞ!」
彼女は慌てて方向を変えようとするが、棒のような足は言うことを聞かず、その場に転倒してしまった。
急いで起き上がろうとするが、時既に遅し。
後方から追ってきた男達にも追い付かれ、彼女は取り囲まれる。
「やだ……来ないで……」
彼女は涙を浮かべながら後ずさろうとするが、八方を塞がれては逃げ場などない。
血塗られた剣を片手に、男達が娘へと迫る。
「来ないで!」
恐怖心がそのまま顔に出ている娘が精一杯の大声で叫んでも、追手は気に掛ける様子などない。
意を決したように、震える細腕がそれまで抱えていた剣を鞘から抜いた。
装飾以外は標準的な両刃直刀の片手剣で、力のない者でも扱えるようにかやや小振りな刃渡りをしていた。
この多勢に無勢な状況下では、あまりに頼りない武器である。
「まずいぞ、あの剣を抜いた!」
たかが装飾された宝剣一振りに何を怯えたのか、男達に一瞬動揺が走り足が止まる。
だがすぐさまその中の1人が発破を掛けた。
「ハッタリだ。あの剣の力を引き出せたのは五代前……使いこなせるわけがない!」
それを聞いて安心したのか、男達は再び彼女ににじり寄った。
このままでは殺されると、意を決した娘は剣を両手で上段に構え、半ば破れかぶれで正面の男へと斬り掛かる。
予想以上に速いその動きに、男は咄嗟に自分の剣で受け止めた。
女の細腕から繰り出されたとは思えない、重い衝撃が男を襲う。
転倒しそうになりながら踏ん張る男の剣には、たったの一撃で亀裂が入っていた。
「今だ、後ろからやれ!」
号令と共に、取り囲んでいた他の男達が娘の背後を狙う。
だが彼女は後ろも見ないまま紙一重で避け、残りの斬撃は剣で防いだ。
そして振り向きざまに横薙ぎの一太刀で、呆気に取られた敵を鎧ごと両断する。
おびただしい量の血が周囲に撒き散らされ、娘のあどけない顔に返り血が付着した。
鉄製の甲冑が全く意味を持たない一撃はあまりに異常で、他の男達に戦慄が走った。
「来ないでって、言ってるでしょう!!」
追い詰められてパニックに陥ったか、娘の表情と声が一変する。
それと同時に、彼女の宝剣の刀身が白く発光を始めた。
仄暗い森の中を陽光のようにまばゆく照らし出す。
光に思わずたじろいだ男達に、再び彼女は反撃に出た。
今度は前回と比べ物にならない力で宝剣を振り下ろし、受け止めようとした男の剣を粉砕してそのまま斬り伏せる。
顔も服も返り血まみれになった娘だが、発光する剣だけは液体を弾くのか血に汚れていない。
「くそ、こいつはどう見ても剣の力だ!」
「落ち着け、相手は1人だ! 全員で一斉にかかればやれる!」
動揺しつつも男達は体勢を整え、彼女を再び取り囲む。
警戒しつつ彼らが一斉に斬りかかろうとしたその時、彼女が両手で構える剣から眩い閃光が走る。
娘も、男達も、そして木々も、全て光が白く塗り潰していく――。
娘のいた山中から離れた地、大陸有数の大国であるアルバトロス帝国の、ここは帝都。
時は日暮れ。今日も帝都の大通りは人々で賑わい、一日の仕事を終え帰路に着く者もいれば、仲間と酒盛りに酒場へと入っていく人影もある。
気が早いのか、既に酔いの回った者もいた。
揃って赤ら顔のその集団は、下品なやり取りをしつつあっちへこっちへフラフラと蛇行運転しながら、行き交う人々の中から次の酒場に誘う女を探していた。
そんな一団の目に、一人の女が映る。
長身ですらりとしており、中性的な魅力のある整った顔を引き立たせる、青いショートヘアが滑らかに風になびく。
年頃は20歳くらいに見える若い女だ。
頭ひとつ飛び抜けたその容姿に、彼らが黙っているはずもなかった。
「よぉ、そこのねーちゃん! 俺達これから一杯やりに行くんだけどさぁ」
彼らの中でもまだ何とかろれつの回る男が、酒臭い息を吐いて女に声をかける。
だが彼が通り中に響くような大声で話し掛けているにも関わらず気付かないのか、彼女は肩に手を置かれるまで振り向かなかった。
「……私のことですか?」
「そうだよ。どうだい、一緒に飲まねぇか? たぁーんと奢るぜ」
下心を隠そうともしない男に、その女は心底呆れた表情を浮かべつつこう答えた。
「私は男です。他を当たってください」
帰宅の途中、酔っ払いに女と間違われた”彼”は淡々と家に向かって歩き続けていた。
子供の頃から女顔だからと頻繁に性別を勘違いされ、慣れてきてはいたが気分のいいものではない。
本当に女性に生まれていれば、端麗な顔立ちはそのまま武器にもなり得たのだろうが。
自分はそんなに男らしく見えないと言うのか、女々しいと言うのか。
そんな恨み事を脳内で反芻するうち既に道は大通りから外れて、人気はほとんどなくなっていた。
道の左右の民家には明かりが灯り、夕食の匂いが外に漂ってきた。
いつもと変わらぬ帰宅風景。
だがそこで一点だけ、見慣れない異物を彼は発見する。
(誰か、倒れている?)
道端にうずくまるその影に近づいてみると、それは行き倒れと思しき若い娘だった。
服はあちこち破けている上に、泥などの汚れにまみれている。
日焼けも知らないであろう白い肌は擦り傷だらけで、栗色のショートボブの髪も土に汚れ、酷い有様だった。
そんな中、両手で抱えている宝剣だけは汚れが付着せず、宵闇の中で煌めいている。
娘は意識がないのかぐったりと倒れ込んでおり、彼は一瞬死体かと疑った。
「大丈夫ですか?」
彼が声をかけると、娘は薄目を開けた。
意識が朦朧としており、髪色と同じブラウンの瞳は虚ろで、焦点は合っていない。
「に、逃げないと……早く……」
かすれた声でうわ言を口にする彼女を見た瞬間、男の脳裏に衝撃が走る。
(似ている……! いや、そんなはずはない)
かつて家族を喪った時の記憶と今の状況が重なり、彼は目を見開いた。
死んだ家族と彼女の容姿はさほど近くないはずだが、直感的に面影が似ていると感じる。
この状況も、数年前のそれにそっくりだった。
(あの時、弱い私には逃げることしかできなかった。だが……)
男は戸惑った。
彼女の面影だけでなく、明らかに訳ありの娘を助けるべきかどうかについて迷っていた。
できれば他の人間に任せたいところだが、周囲に人影はない。
彼が見捨てれば、間違いなくこのまま娘の命は尽きるだろう。
迷っている間にも、彼女の呼吸はか細くなっていく。
腹をくくった男は行き倒れの娘を担ぐと、そのまま急ぎ足で帰り道を辿った。
娘が目を覚ますと、民家のベッドに横になっていた。
窓から刺し込む朝日に照らされた室内は簡素ながらも整理されており、心地良い安堵感を覚える。
ボロ雑巾のようだった衣服は清潔なものに替えられており、鉛のように重たかった身体も上体を起こせるまでに回復していた。
最初に手で触れた栗色の髪は、ちゃんと櫛も通されていた。
状況が飲み込めず室内を呆然と見回していた彼女に、扉を開けて入ってきた青髪の男が静かに語りかける。
「よかった、目が覚めたのですね」
大人しそうな雰囲気の、落ち着いた若者だった。
寝起きで冴えない頭でも、恐らくこの人物が自分を介抱してくれたのだと察しがついた。
彼女は咄嗟に頭を下げる。
「ええと、ありがとうございます。助けてくれた……んですよね?」
「ええ。道端に倒れていたんです」
彼はそう言いながら、盆に乗せた食事をサイドテーブルに並べていく。
塩味のかゆに、野菜くずと豆を煮込んだスープで、病人用にとこしらえたものだ。
「どうぞ」
娘は垂れ目を大きく開き、だががっつくような真似はせず、ゆっくりとスプーンに手を伸ばす。
しばらくの間、まともな物を食べていない。
飢えた胃に温かいかゆとスープが染み渡る。
味は雑な庶民の料理だったが、彼女にとってはご馳走だった。
彼はがっつくだろうと思っていたが、予想外にも彼女は上品に食事を食べていった。
きちんと教養はあるようだ。
「……私はルークと言います」
食事が一段落ついた頃、ベッドの横の椅子に腰掛けていた彼は静かにそう名乗り、続けた。
「できたらで構いません。何があったのか、教えてもらえませんか?」
そう聞かれた彼女は、表情を陰らせるとうつむいた。
気まずい雰囲気の中、女は語り始める。
「……何も、覚えてないんです。自分が誰なのか、どこで何をしてたのか、どんな人だったのかも」
「記憶喪失、ですか。何らかのショックで記憶を失ったのでしょう」
目を伏せたまま困惑する彼女に、ルークは労るようにできる限り優しく語りかけた。
「大丈夫です。時間を置けば記憶が戻る場合もあるようですから」
「あ、そう言えば……」
ふと思い出したように彼女は、首にかけていたネックレスを取り出した。
「この裏、『KIRA』って書かれてますよね? 多分、これが私の名前だと思うんです」
確かに飾りの裏にはそう刻まれている。
名前がないことには会話もしづらい。
ルークはひとまず頷いた。
「ではキラさん……でよろしいですね。どうやら衰弱で倒れていたようですし、数日安静にしていれば元気になります」
「ありがとうございます、ルークさん」
一安心といったところだが、すぐにキラは落ち着きなく周囲を見回し始める。
「何か気になることが?」
「いえ、その……私の剣はどこに?」
発見当時、彼女が大切そうに抱えていた宝剣のことだと察したルークは、ベッドの向かいのタンスの横を指差した。
「あそこに置いてあります」
剣はキラを助けた時のまま触らず、立て掛けられていた。
行き倒れが持つには不釣り合いな代物で、何か事情があるに違いないと予想していたからだ。
「よかった……」
今度こそ胸を撫で下ろすキラに、ルークは尋ねる。
「大事な物のようですね。あれが何か、覚えていますか?」
しばしの沈黙の後、彼女は首を横に振る。
「でも、とても大切な物なんです。それだけは分かります」
それを聞いたルークは、少しばかり唸った。
(売っていいものなら、行き倒れになる前に換金していたはずだ。やはり、何か訳が……)
本人に問い質そうにも、記憶喪失だと言うのならば仕方がない。
思索を巡らせる彼に、キラはおずおずと話しかけた。
「ええと、お願いがあるんです。いいですか?」
ルークがどうぞ、と先を促すと彼女は申し訳無さそうにしながらも続けた。
「記憶が戻るまで、ここに置いてもらえませんか? 他に頼れるアテが私にはないんです」
「それは……」
即答は難しいのか、ルークは渋い顔を浮かべる。
「す、すいません! やっぱり迷惑ですよね、元気になったら出ていきます」
彼の様子を見て、まずい事を言ってしまったかと慌てたキラに、彼は首を振って答えた。
「いえ、あなたの言う通りここに居た方が安全でしょう。この国は今、戦争でどこも緊張しています」
「戦争……」
その言葉の響きに、キラは心のざわめきを感じていた。
奥底に眠る恐怖心なのか、思わず鳥肌が立つ。
そしてそれまで気になっていたことを口にした。
「そう言えば、この国はどこの国なんですか?」
どうやら彼女は、自分がどの辺りにいるのかすら知らない様子だった。
記憶を失っているので無理もないが、まずどこから説明したものかとルークはしばし思案した。
「そうですね……まず、ここは『アルバトロス帝国』という国です。聞き覚えはありますか?」
ゆっくりと首を横に振るキラ。
自分の住む国の記憶まで無くしたと考えられたが、別の可能性として国外からやってきたということも考えられる。
拾った時の彼女の様子からして、しばらくの間放浪していたようだったので、山間や森など険しく警備の薄い地帯を歩いてくれば、国境越えもできると視野に入れておくべきだ。
「ここは帝国の首都……『帝都アディンセル』です。戦争中とは言っても、ここまでまだ戦火は迫っていませんし、普通に暮らせるはずです」
ルークの言葉にキラは安堵を覚えたが、どうしても引っ掛かる事があった。
彼女は戸惑いながらもそれを口にする。
「あの、戦争ってどこの国と……?」
「正確には他国との戦争ではありませんね、今問題となっているのは。反乱軍との内戦に手を焼いているんです」
せっかくだからとルークは説明した。
アルバトロス帝国は隣接する大国と緊張関係にあるが、まだ本格的な全面戦争には至っていない。
各地で抵抗を続ける、反乱軍との戦いが激しさを増しているからだ。
そもそもアルバトロス帝国は、ここ数十年で周辺諸国を次々と侵略して領地を広げた国であり、属領となった地方からは反帝国を掲げる者達が次々と現れていた。
「帝国軍と反乱軍の衝突も、あくまで地方の話です。帝国の中心部である、ここアディンセルではそんな争いは起こらないでしょう。キラさんは気にせず、養生に集中してください」
戦争という言葉に不安を抱くキラの心中を察したのか、ルークはそう言って彼女を落ち着かせつつ同居を許した。
何度も頭を下げて礼を言うキラに、ルークはあくまで落ち着いた態度で応えた。
「本当にありがとうございます。やっぱり、同じ女の人の家に置かせてもらう方が安心できますし……」
キラは勘違いをしているようなので、ルークはそこだけ訂正することにした。
「私は男なんですが、構いませんか?」
「えっ?」
最初素っ頓狂な声をあげたキラだが、徐々にその意味を理解し顔がリンゴのように赤くなる。
「す、すいません! 何だか物凄く失礼な勘違いを……!」
「いえ、慣れてます」
慌てて頭を下げるキラに、ルークは小さなため息をついた。
こうして、ぎこちないながらも二人の共同生活が始まった。
ルークによる献身的な介抱もあり、キラは数日のうちに見る見る回復した。
歩けるようになったキラに彼は室内を案内した。
そう広くはない家だが、余分な物を置かずしっかり整頓されているおかげで、住人が二人に増えても窮屈には感じないだけの空間があった。
「ところで、あの部屋は?」
キラは一カ所だけ案内されていない部屋があったので、好奇心の赴くままに尋ねてみた。
「あそこは私の私室です。家の中は自由に使って構いませんが、私の部屋にだけは入らないでください」
控えめなルークにしては珍しく、この時だけは口調を強めて念を押した。
誰しも自分のプライベートというものがある。他人には覗かれたくないだろう。
それが若い異性とあれば、なおのこと。
そこまで考えて、キラは更にひとつの疑問が浮かんだ。
「今更なんですけど、ルークさんは一人暮らしなんですか? 家族の人とかは……」
数日居候して、ルーク以外の人物と顔を合わせたことがない。
家の中を案内されても、ルークの他の人物の部屋らしきものはなかった。
彼くらいの若さならば、両親を始め家族がいてもおかしくないものだが。
「私一人です」
そう言ってルークは目を伏せてしまった。
普段感情を顔に出さない彼だが、この時ばかりは表情を陰らせる。
まずいことを聞いたのかと思ったキラは、それ以上何も言わなかった。
(私にも家族はいるのかな……? いたら心配させてるだろうなぁ……)
おぼろげにすら思い出せない家族や友人のことを思うと、不思議とキラの胸がズキリと痛んだ。
その日から、キラは自主的に家事を手伝うようになった。
居候で何もしないままでは悪いというのと、リハビリにちょうどいいと考えたからだ。
ルークは料理の作り方などを教え、キラも最初は不慣れだったがすぐに飲み込んだ。
彼女が特に気に入ったのはパスタで、生地の練り方や茹で加減をあれこれと工夫した。
平民が買える調味料などたかが知れているため、味付けはいつも薄味だった。
数日後、いつものように部屋から出てきたキラと挨拶を交わしたルークは、少し外を歩いてみないかと提案した。
家の中は不自由なく歩けているので、そろそろ活動範囲を広げてみようと彼は考えていた。
幸いにも今日はよく晴れており、気温も穏やかで絶好の散歩日和だ。
「はい。私もそろそろ、お散歩をしてみたいと思っていて」
「では最初は、近くを一周してみましょう」
キラはルークの後について玄関をくぐり、外に出た。
穏やかな日差しと、少し暖かみのある風の肌触りが心地良い。
ふと建物の合間を見上げると、青い空がどこまでも広がっていた。
(空……あんなに広かったんだ……)
記憶を無くして放浪していた頃から、落ち着いて空を見上げる余裕などなかった。
ただ何かに追われるような恐怖心が背中をつつくかのように身体を突き動かし、アテもないまま彷徨った。
森に分け入り、山を登り、川を横断してようやく辿り着いたのがここだった。
ルークはしばしの間、呆けたような表情で空を見上げる彼女の姿を見守り、やがて声をかけた。
「さあ行きましょう。天気もいいですし、散歩に向いています」
キラはルークの後ろにぴたりとついて道を歩いた。
確かに自分の足でこの街まで来たはずなのに、何もかもが初めて見るものばかりで新鮮に映った。
住宅地の路地を抜けて大通りまで出ると、景色は一変する。
広い道路を行き来する大勢の人の渦に、それを相手に商売をする露天が立ち並ぶ。
「この先は市場ですね。いずれ案内します」
今日はそこまで足を運ぶつもりはない。
程々に切り上げて家に帰ろうとするルークだったが、その直前に通りが騒がしくなった。
「あ、あれは……?」
目の前を通過する一団を見たキラは、思わず固まる。
それはアルバトロス帝国軍の兵士の行列だった。
前後を兵士に挟まれるようにして、手枷をはめられた数人の人影が歩かされている。
磨かれた鎧を着てふんぞり返る兵隊に対して、拘束された人々はボロボロの衣服で全身に痣を作り、皆うなだれていた。
先頭を歩く兵の隊長と思しき人物が、声高らかに言う。
「よく見るがいい! これが反乱者の末路だ!」
キラが見たのは、帝国に逆らった人物を晒し者にする行列だった。
兵隊に道を開けた通行人達は、憐れむような、恐怖するような視線を向けている。
そんな中、大人しく引き回されていた反乱者の一人が唐突に立ち止まり、隊長以上の大声を張り上げる。
「皆、帝国のやり方に満足か?! 俺達は不満を訴えただけだ!」
すると兵士の一人がその男に詰め寄り、棍棒で殴りつける。
「従っていても、いずれこうなるんだぞ! ぐぁっ!」
手枷で抵抗できない男を死なない程度に痛めつけ、黙らせる兵士。
声も出せない程に弱った男は歩けなくなり、そのまま縄で道路を引きずられていく。
「皇帝陛下万歳! 国に逆らう者は皆こうなるのだ、覚えておけ!」
鬼の首を取ったように棍棒を掲げ、兵士が観衆に叫ぶ。
人々は痛ましい光景に目を逸らし、ただただ怯えるばかりだった。
「見ない方がいいです」
ルークは呆然とするキラを、住宅地へと連れ戻した。
「……あの人達、どうなるんですか?」
少しばかり青ざめながら、キラは尋ねる。
正直に答えていいものかルークも迷ったが、誤魔化しても無駄だろうとありのままを伝える。
「恐らく、広場で公開処刑でしょう」
帝国に逆らう者は死あるのみ、ここでは日常となった光景だ。
(気分転換のつもりが、とんだものを見せてしまったか)
ルークはキラを連れ、家に直帰した。
彼女はまだショックを受けている様子で、帰宅しても黙り込んだままだった。
そしてルークもまた、口には出さないが内心では怒りを燃やしていた。
(あんな行為がいつまでも許されていいわけがない……!)
彼は無意識のうちに、居間の壁にかけられている一振りの剣を見つめていた。
キラの宝剣と違って装飾などはついていない実戦向けの物だが、鞘に収められ大切に保管されている。
それに気付いた彼女は、話題を変えるためにも尋ねてみた。
「ルークさんも剣を持ってるんですね。やっぱり、大事な物なんですか?」
振り向かないまま、ルークは絞り出すような声で答える。
「はい。私にとっては、とても大切な……」
それ以上、彼は何も言わなかった。
何か訳ありの剣のようだが、この家を守るかのような存在感をキラは感じていた。
気まずい空気の中で簡素な食事を済ませ、二人は各々部屋へと戻る。
ベッドに腰掛けたキラは、何となく部屋の壁に立てかけてある宝剣に目をやった。
(あの宝石の青色、空にそっくりだなぁ……)
今朝見た光景を思い出しながら、キラはぼんやりと考えていた。
身に着けていたネックレスとあの宝剣だけが、今のキラの唯一の持ち物。
貴金属や宝石で装飾された、行き倒れが持つにはあまりに綺羅びやかな剣だ。
あれがキラの身元を探す上で、重要な鍵になることは間違いない。
キラ自身もまた、あの宝剣を見ているとどこか懐かしい感覚を覚えた。
(何か、とても大事な物だった気がする……。けど、何だったのか思い出せない……)
眉間にしわを寄せて考え込んで見るが、記憶は靄がかかったように漠然としており、結局何も思い出せない。
だが何かあるのは確かだ。
(ダメだ、寝よ)
もどかしい気持ちごと纏めて毛布に包み、キラはベッドに身体を横たえた。
その翌日、キラが起きてくると、ルークは既に部屋着ではなく他所行きの服に着替えており、外出を控えている様子だった。
「おはようございます。あの、どこかお出かけですか?」
「仕事です。しばらく休んでしまったので、そろそろ出勤しないと」
「あ……」
ここに来て、キラはルークの仕事について思い至った。
彼女が目覚めてからおよそ二週間程、ルークはどこにも外出していない。
キラのことを気遣い、仕事を休んで看病していたのだとようやく彼女は気付いた。
「す、すいません! 私のせいでとんだ迷惑を」
キラは慌てて謝るが、ルークはいつも通り柔和な表情で首を横に振った。
「大丈夫です、心配いりません。それ程厳しい職場ではありませんから」
「そうなんですか? そう言えばルークさんのお仕事って……?」
「図書館の司書です。静かな職場ですし、向いているんですよ」
喧騒より静寂を好むルークにとっては、実に快適な仕事だった。
おまけに空き時間には蔵書を読むこともでき、文化的な生活を好む彼には合っていた。
「それより留守番はできますか? 夕方までには戻りますし、職場も近くなので何かあればすぐ帰ってこれます」
「大丈夫です、できます。あの、今度図書館にお邪魔しても?」
図書館で調べ物をすれば失った記憶の手掛かりが見つかるかも、という思いが半分、残りは単純にルークの職場がどんなものなのか覗いてみたい気持ちだった。
「ええ、構いませんよ。ではそろそろ行ってきます。くれぐれも、私の部屋には入らないでください」
「いってらっしゃーい」
ルークの背中を見送った後、家に残されたキラは取り敢えず掃除でもしようと思い立ち、部屋の掃除を始めた。
と言っても定期的に掃除と整頓は行っているので、汚れていたり散らかっている箇所もなく、居間と台所はあっさりと終了してしまう。
続いて自分の部屋も、私物がほとんどないため箒のひとはきで終わる。
やることがなくなったキラが部屋の外に出ると、自室の隣のルークの部屋の扉へと視線が否が応でも移ってしまう。
(ダメダメ、ルークさんに入るなって念を押されてるし……)
知的好奇心を理性で振り払おうとするが、欲求には逆らえない。
彼が絶対に入るなと言う私室、そこには一体何があるのか。
蓋を開けてみれば何の変哲もない普通の部屋かも知れないし、何かとんでもない秘密が隠されているのかも知れない。
(み、見たい……っ!)
ルークが外出中の今ならば、この扉を開けてもバレないはずだ。
キラは部屋に潜り込みたい衝動に駆られた。
見るなと言われると無性に見たくなるのが、人間の性である。
「あー入りたい! 中が見たい! 机の中からベッドの下まで全部確認したい!」
思っていることを口に出すと、少しだけ気が晴れたような気がする。
結局扉を開ける勇気はないまま、キラは戸締まりをすると気分転換に散歩に出た。
今日は少し雲がかかっているが、空を見上げると部屋に入るべきか入らざるべきか、という難題は些細な事に思えてきた。
「戻りました。留守番は大丈夫でしたか?」
仕事から帰ってきたルークは、葛藤があったことなど知らずにそう尋ねた。
「は、はい。大丈夫……でしたよ?」
キラは平静を装っているつもりだが、あからさまに視線を泳がせていた。
それに気付かないルークではなかったが、敢えてそれについては触れないでおいた。
「明日からも同じように出勤します。その間、家の事はお願いします」
「ま、任せてください!」
あなたの部屋は覗きません、という決意を込めてキラは力強く返事をした。
私室を覗けば知的好奇心は一時満たされるかも知れないが、もしかしたら今の居心地の良い生活が壊れる危険がある。
キラ自身、今の生活を気に入っていた。
身寄りの無い行き倒れには過ぎた程、安心できて安定した日々だ。
最初ぎこちなかったルークとも、大分打ち解けて違和感なく同居できる程に、距離感も縮まってきたと感じている。
(できれば、ずっとこのままでいたいな……)
ふとそう考えて、キラははっと息を呑んだ。
もし記憶が戻ったら、もうこの生活には戻れないのだろうか。
だとしたら自分は、本当は記憶が戻ることを望んでいないのだろうか。
一瞬のうちに疑問が脳裏を駆け巡る。
(まあ、今考えても仕方ないよね)
キラはその考えを頭の隅に押し込めると、いつもと同じように夕食の用意に取り掛かった。
それから更に数日。キラはほとんどの家事を覚え、一人でこなせるようになっていた。
彼女は物覚えが良く、ルークに教えられた家事をすぐに飲み込んで習得していく。
ルーク曰く、こういうことは身体で覚えているはず、ということだったがキラは何となく、記憶を失う前はこういった家事は行っていなかったような気がしていた。
いつもならルークは仕事に向かいキラは留守番をする時間だが、今日のルークは少し様子が違った。
「今日は休みなので、少し遠くまで散歩に出てみますか? 図書館に、その先には市場もあります。あなたがよければ、ですが」
「もちろん行きます!」
キラは目を輝かせて即答した。
体力の方はもう十分に回復しており、以前から気になっていた街の施設に立ち寄ってみたいという好奇心も後押しした。
「では行きましょう。はぐれないよう、注意してください」
そう言うと、ルークはキラを連れて家を出た。
まず二人が向かったのは、ルークの職場である図書館だった。家からそう遠くない距離にある。
外からの見た目は少々古そうだが、頑丈そうな建物だった。
中はキラが想像していた通り、広い空間に本棚が整列しており、棚には一生かかっても読み切れない量の本が収められていた。
「凄い量の本ですね」
「これでも、アディンセルの図書館の中では小さい方です。王城近くの大図書館は、規模も桁違いですよ」
ルークに案内されながら、キラは気になる本を手に取っては流し読みしていた。
(『アルバトロス帝国』、ルークさんの言ってた、私の今居る国かぁ。どんな国なんだろう?)
何となく興味を覚えたキラは、国について簡単に記された書物に手を伸ばす。
アルバトロスは数十年前は中小規模の王国に過ぎなかったが、今の皇帝が即位してから急激に勢力を伸ばし、今や大陸西方を統治する偉大な帝国となったようだ。
流石に帝都の図書館と言うだけあって、政府に批判的なことは書かれていない。
愚鈍な周辺諸国を領内に引き込み、偉大な皇帝がより良く治めたと書物にはあるが、ようするに侵略戦争の結果だということは素人のキラにも想像がついた。
だが違う書物で、キラは面白い記述に目を留める。
今我々が『エルカリム』と呼んでいる世界は単なる一大陸に過ぎず、海の向こうの外洋には別の大陸、別の文化が存在しているというのだ。
それは海洋学者の書いた本で、まだ見ぬ別大陸は必ず存在するはずだと力説していた。
ただし巻末では、『もし新大陸を発見した時、我々が未熟なままであれば、それは新たな戦争の発端となるだろう』と締め括られていた。
(そう言えば、この国も内戦してるんだっけ……)
『戦争』という単語が気になったキラは、帝国の情勢などについて書かれた本がないかと探し始める。
以前見た反乱者の引き回しの光景が気になって仕方なかったからだ。
今も国内のいたるところで、反乱軍との内戦は続き、ああやって人々が処刑されている。
「何か、本をお探しですか?」
それらしき書物が見つからず本棚を見て回っていると、それに気付いたルークが声をかける。
「えっと、この国の最近のことが分かる本ってないかなー……なんて」
それを聞くと、ルークは少し難しい表情を見せた。
「今の帝国は、様々な理由で荒れています。中々本にも書けないでしょう」
「何で、反乱軍の人達は内戦なんて起こしてるんでしょう?」
キラはふと疑問に思ったことを口にした。
「大きな声では言えませんが……」
アルバトロスという国の歴史が原因であると、ルークは説明する。
帝国は元々中小規模の国だったが、周辺諸国を侵略して今の大国になった。
アディンセルのような中枢都市は豊かに発展する一方、植民地として支配される属国は搾取され、不満は溜まりに溜まっている。
属国では重税を課せられた民衆が貧困に苦しみ、戦争のために若い働き手は次々徴兵されていく。
民族の誇りを奪われた上、奴隷のように扱われて黙っていられる程、民衆は従順ではなかった。
「正直なところ、私も帝国のやり口には疑念を抱かずにはいられません。これらは、本にはならない事実です」
もしこんな会話を帝国兵にでも聞かれたら、その場で逮捕されるだろう。
だがキラにそう内心を打ち明けるルークの顔は、かなり深刻な面持ちだった。
彼の表情を見て、話題を変えようとしたキラは、目に飛び込んできた本の背表紙を口にする。
「『魔法学入門』……? 魔法なんて、本当にあるんですか?」
「ええ、あるにはありますよ。ただし、魔術師になれるのは魔力の才のある人物のみです。魔法を使いこなせるのは、一握りの人だけですね」
魔法の才能があるというだけで、それはそれは貴重な人材として扱ってもらえる。
ただし独学で魔法学を学ぶのは難しいため、魔法大学などの研究機関に教えを請うことが多いとルークは言う。
そうして才能だけでなく正しい知識と技術を身に着ければ、宮廷魔術師などとして宮仕えする道もあるらしい。
「私にも魔法って使えるんでしょうか?」
「どうでしょう。一応魔力テストなどはありますが、本当に人それぞれですからね」
一口に魔法の才と言っても、術の種類によって得手不得手が大きく別れるらしい。
中には特定の魔法にだけ特化した才能を持つ、一芸に秀でた魔術師も居るようだ。
少し魔法に興味を惹かれたキラだったが、入門書を軽く読んでみても術式の構築などさっぱり理解できなかった。
まるで数学のような幾何学的な記号による式が次々と並んでおり、『入門』と呼ぶにはかなり敷居が高いように思える。
しばらくそうして二人で本を読んだり話したりしていると、その途中で司書の一人に声をかけられた。
「おや、ルーク。今日は君は休みじゃなかったか」
「ええ。散歩のついでに寄っただけです」
この図書館の司書という事はルークの同僚である。
重たそうな本を抱えた彼は、ふとルークのすぐ後ろのキラに視線を移す。
「散歩ねぇ。その子と?」
「はい」
軽く会釈するキラを見た彼は、意味深な笑みを浮かべるとルークの耳元に顔を寄せた。
「いやぁ君も隅に置けないねぇ。こんな可愛いガールフレンド、いつの間に見つけたんだ」
「そういう間柄じゃありません」
「わかったわかった」
こういう時の『わかった』はわかっていない証である。
完全に誤解した彼は今度、キラに向かって話し始める。
「彼は人付き合いが苦手みたいでね、友達さえ居なかったんだ。君も知っての通り、いつもあの仏頂面で何考えてるか分かりゃしない」
「いえ、そんな」
確かにルークは普段無表情だ。
特に笑った顔を見せたことは、ほとんどない。
キラにとって印象的なのは、過去について触れた時の沈痛な面持ちだった。
「そんなせいで、同僚の僕らも少し心配だったんだが、どうやら要らぬ老婆心だったみたいだな。僕からも、彼のことをよろしく頼むよ」
「は、はい……」
誤解されていると知りつつも、それが満更でもないキラは頬をほんのり染めてそう返した。
(そこは否定して欲しかった……)
これで後々まで、同僚からキラのことでからかわれ続けるだろう。
ルークは内心抗議しつつも口には出さず、もうしばらく図書館内で本を見て回った。
「さて、そろそろ行きましょうか」
ルークに促され、キラは図書館を後にする。
彼の職場である図書館を出た二人は、その足で更に先にある市場へと向かった。
「この先に行けば市場です。人が多いので、離れないでください」
静かだった図書館とは違い、市場は至る所に人がおりあちこちから声が聞こえてきた。
広間一帯が商店街となっており、道路脇の建物に入った店から行商の露店まで、大小様々な店が並んでいた。
そして店に並ぶ品物を求めて、多くの買い物客が今日も通りを埋め尽くす。
キラはその活気に思わず圧倒されそうになったが、同時に好奇心も覚え、ルークの背中にぴったりと付きながら市場の喧騒の中へと足を踏み入れた。
「まずは服を買っておきましょう。いつまでも、男物のままというわけにはいかないでしょうから」
キラが着ていた服は酷く汚れており、あちこち破れていた。
着替えさせる他なかったが、ルークは男の一人暮らしであるため、当然女物の洋服など持ち合わせていない。
仕方なく、彼は自分の服をキラに着せていた。
ルークの背丈は中背くらいだが、それは男性での話。
女性で、かつやや小柄なキラには彼の服は大き過ぎ、袖などは明らかに余ってしまっている。
手当てのために着替えさせた時に勝手にサイズを計るわけにもいかず、今日に至るまでそのままだ。
服屋に入ると店員に試着室へと連れられ、そこで簡単に寸法を計られる。
次にサイズの合う服を次々と持ってくるが、どれも流行りの派手な服ばかりだった。
キラはそれらの誘惑を断ち切り、あくまで大人しく目立たない茶色の普段着を選んだ。
女物の洋服に着替えて試着室から出て来たキラを確認したルークは、同じサイズの服を着替えとして何着か買い足すと、店を出ようとした。
「お姉様の方も、服を見ていかれませんか?」
すかさず売り子はルークに声をかけるが、彼は首を振って答えた。
「結構です。私は男なので」
「……ぷっ」
そのやり取りを見ていたキラは、口に手を当てて人知れず吹き出した。
笑いをこらえて顔が引きつる。
「後は食料品を買い足せば十分です。他に、欲しい物はありますか?」
キラの姉と間違われようが何のその、ルークは全く気にしていない様子で買い物を続ける。
「いえ、私は服を買ってもらっただけで十分です。何か、お返しできたらいいんですけど……」
嬉しい半面、少し困ったような複雑な表情を見せるキラに、ルークは少しだけ笑みを見せて答えた。
「では出世払いということにしましょうか」
日常生活でも、ルークは笑顔を見せることは今までなかった。
いつも無表情のまま淡々と言葉を交わすばかりで、表情豊かなキラとは真逆にある。
そんな彼が不意に見せた微笑みに、キラは知らず知らずのうちに目を奪われていた。
(ルークさんは、どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう?)
変な下心がないことは、かれこれ一月近く同居して分かっている。
なればこそ、何が理由でここまで行き倒れの面倒を見てくれるのか、キラは疑問だった。
「どうかしましたか?」
ルークに聞かれてようやく、キラは自分が彼の顔を凝視していたことに気付いた。
その頃にはもう、僅かに見せた笑顔は消えて元の無表情に戻っている。
「な、何でもないです!」
キラは顔を赤らめて首を横に振った。
ルークと違いよく表情を変化させるキラを連れて、彼は不足していた食料を買うと家路に就いた。
帰る頃には既に日が傾いており、家に着くと早速買って来た食材で夕飯の支度をする。
小麦粉を買い足したので、今夜は好物のパスタが主食だ。
外出で程よく疲れた身体に、作りたての料理が染み渡るようだった。
(私は自分がどこの誰なのかもわからない……。けど)
今、確かに幸せだとキラは感じていた。
願わくば記憶が戻っても、このささやかな幸せが続きますようにと彼女は祈った。
その頃、キラとルークが暮らす帝都アディンセルから離れた帝国東部の国境線。
その一線を超えると東隣にはロイース王国という古い歴史を持つ一大国家が君臨しており、国境では睨み合いがずっと続いていた。
以前から険悪な両国だったが、アルバトロスが内戦により兵力を各地に分散させているという情報を得たロイース側は、着々と帝国領への侵攻を計画し進めていた。
国境沿いのロイース側には砦が築かれ、侵攻作戦の実行に向けて将兵がそこに集結しつつあった。
その砦を少し離れた高台から見下ろし、様子を窺う人影があった。
(将軍とその部隊が入ったな。ここまでは情報通り)
灰色のフードを被ったその人物は、ロイースの将軍が兵士を引き連れて砦に入城したことを確認するとその場で夜を待った。
日が暮れると、フードの男は夜の闇に紛れて高台を降り、単独で砦に近付いた。
厳重な警備が布かれる中、巡回する兵士の目をかいくぐり砦の内部へと潜入する。
時に遮蔽物の影に隠れ、時に地面に伏せて闇と同化して警備を欺いた。
砦の敷地内は松明で照らしているとは言え、全てを昼間のように明るくできるわけではない。
僅かに生じた影の中に息を潜め、影から影へと敵の目を盗んで移動し、彼は最初の目的地まで足を運んだ。
最初に潜り込んだのは、非番のロイース兵が寝泊まりする兵舎だった。
出入り口の見張りさえ抜ければ、中は休憩して寝ている兵士ばかりだ。
フードの男は懐のポケットから爆薬を取り出すと、起爆時間を想定して長めに導火線を切る。
そして鋼鉄の篭手をはめた左手を導火線の先端にかざした。
腕甲の部分に赤い幾何学模様が浮かび上がると、掌の部分に僅かな火が灯る。
そこに導火線をそっと触れさせて着火し、爆薬を適当な場所に隠すと、彼は次の目標へ向かった。
フードの男が狙ったのは兵糧庫と、続いて武器庫だった。
兵士の食糧が蓄えられる兵糧庫も、いざ開戦した時に持つ武器が収められている武器庫も、戦略的に重要な施設だ。
彼は兵舎と同じように着火した爆薬を置いた。
兵舎の時よりも導火線は長く切った。
(さて、本命を狩る準備だ)
兵舎、兵糧庫、武器庫。どれも戦争に欠かせない要所だが、彼の狙う獲物は別にいる。
それを仕留めるためにフードの男は見つからぬよう、砦を見渡せる櫓の上に登り、その時を待った。
しばらく息を潜めていると、設置した爆薬が爆発を起こす。
吹き飛んだのは兵舎。砦中に響き渡る爆音と立ち上る煙火に、当然ながらロイース軍は大騒ぎとなった。
だが爆発したのは一箇所のみ。
これは本命を釣り上げるための、”餌”に過ぎない。
「何事だ、何が起きた?!」
突然の騒ぎに、屋内にいたロイースの将軍が護衛を伴って外に出て来た。
フードの男はこの瞬間を待っていたのだ。
彼は櫓の上から弓を構え、静かに矢をつがえる。
まだ誰も、爆破の犯人が砦内に潜んで弓を引いているなど思い至っていない。
「何者かが、兵舎に爆薬を仕掛けたようです。被害は確認中ですが、休憩中の兵士はほぼ全滅かと」
「警備の者は何をしていたのだ! すぐに厳戒態勢を布いて、警備を強化しろ! 潜り込んだネズミを引きずり出せ!」
将軍が指示を出した直後、その首にどこからともなく飛来した矢が突き刺さる。
彼は糸の切れた人形のように、力なくその場に倒れ込んだ。
「しょ、将軍ーっ! 衛生兵を早くよこせ!」
「まだ敵がいるぞ、警戒しろ!」
ロイースの将軍は既に手遅れだった。
急所である首を射抜かれたのが直接の死因だが、万が一急所を外してもいいように鏃には即効性の猛毒が塗られていた。
兵士達は浮足立って潜入した工作員を探し出そうとするが、一向に見つけられずにいる。
彼らはアルバトロス帝国の工兵部隊が入り込んだのだと思い込んでいたが、侵入者がたった一人ということは考慮していなかった。
混乱したロイース兵は暗いこともあり、味方の兵士を何度も侵入者と間違えては取り押さえ、更に押さえられた側も相手を敵と勘違いし、混沌の深みは増していった。
大混乱の中、元凶であるフードの男は一度も人目に触れることなく既に砦を抜け出していた。
この時点で砦は阿鼻叫喚の状態だが、地獄の本番はこれから始まる。
兵糧庫と武器庫に仕掛けた爆薬が起爆する頃だ。
フードの男の目論見通り、彼が脱出してから再び砦から爆煙が上がる。
だが確かに追い打ちのような爆発は発生したが、爆発音からして炎上したのは一箇所だけだ。
本来ならば、残る二箇所が同時に爆発しなくてはいけない。
(……少し間違えたか?)
フードの男はしばし足を止めて背後を振り向いた。
さすがにこの短時間で爆薬を発見し、消火したとは考えにくい。
導火線が不良品で火が消えたのではないか、という可能性も脳裏をよぎったが、一呼吸置くと残る兵糧庫も爆発を起こし、火の手が上がった。
どうやら導火線を切る部分を見誤ったようで、少しばかり長く切ってしまったようだ。
だがタイミングがズレたとは言え、目標は全て燃やした。
この程度の誤差であれば許容範囲内に収まる。
(楽な仕事じゃなかったが、まあいい。これで報酬上乗せだ)
男はフードを深く被り直すと再び歩き出し、炎上し混乱に陥った砦に背を向けて夜の闇へと消えて行った。
この晩、アルバトロス帝国への侵攻作戦を着々と進めていたロイース軍は、開戦のために準備しておいた兵力、兵糧、武具、そして作戦を指揮する将軍まで全て失い、計画は白紙からの練り直しを余儀なくされた。
キラとルークの二人が知らぬ間にも、戦乱はひっそりと忍び寄りつつあった。
To be continued
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます