第2章

第16話

 あんなに何度も求めただろう、今さら減るもんじゃない。唇を奪われて、思わず張り手をローガンの顔にお見舞いしたジゼルは、ローガンの言い分に納得など一ミリもできなかった。


「何だよ、じゃなきゃ水飲ませらんなかったんだからしょうがないだろ」


「それはそうかもしれないけど、契約とか何とか言って、勝手にするのはまた別よ!」


 恋人役をするのに、張り手はダメだと、ローガンは困った顔をした。それには一切とりつくろわず、ジゼルは真っ赤になって怒りながら、王宮医に受診して行くように言われたのも無視して、とっとと王宮を去って帰宅した。


「恋人のふりだけででいいって言ったじゃない! 何も本当にキスすることないわっ! 看病ならまだしも、さっきのはファーストキスだったのに!」


 家に帰っておめかし用の服を脱ぐなり、ジゼルはオーバーオールに着替えて絵を描き始めた。荒れ狂った心を静めるのには、集中して忘れ去ってしまう他なかったからだ。


 イライラしながらキャンバスにやつ当たりをしていると、あっという間に集中して、全てを忘れて没頭する。


 デッサンをさくっと百枚近く描き上げた後、ジゼルは少しだけ気持ちが落ち着いてきて、大きなキャンバスへと向き直る。あっという間に、絵具が魔法のように置かれていき、画面が激変して行った。


「……ふう、これで良し」


「すげー集中力だな」


 とつじょ聞こえてきたローガンの声に、思わず悲鳴を上げた。すると、驚いたのはローガンのほうで、すぐさま近寄って、ジゼルの口を大きな手で塞ぐ。


「あのさ、いちいち悲鳴上げるな。次、俺を見て悲鳴を上げたら、唇塞ぐからな」


 鬱陶しそうにのぞき込まれるのと、階下からマチルダの「どうしたんだい!?」という声がするのが同時だった。


 ローガンが手を外して、ジゼルは一拍呼吸をおくと、マチルダに何でもないと大声で返事をした。そしてから、じっとりといきなり登場した美男子をにらむ。


「お言葉ですけど。いきなり人の部屋に勝手に入ってきたら、普通は誰でも怒るし驚くけど!」


「一時間半前からいたし、俺はちゃんとノックして窓から入ったぞ」


 そう言ってローガンが窓を指さす。一本の大きな木があり、そこを登って窓から器用に入ってきたようだった。


「窓からノックなんて、常識外よ!」


「じゃあ正面から入ればよかったか? あのマチルダって手伝いには、なんて説明するんだ?」


 それにジゼルは声を詰まらせた。


「だから、困るだろうと思って、これを」


 渡された美しい書簡を受け取り、ジゼルは封を切った。そこから紙を取り出して中を見ると、王宮から正式に宮廷画家としての案内が来ていた。


「それで城へ出向いてこい」


 それにジゼルは、苦虫をかみつぶした顔になりつつも、うなずいた。


「もうジゼルが俺の恋人だということは、王宮内に知らせておいた」


「え……はい⁉︎」


「面倒じゃなくていいだろ? だから、王宮へのお勤めが恥ずかしくて来られなかったって言っておいたら、大概は納得していたぞ」


 困ると言おうとして、またもやカヴァネルを引き合いに出されると参るので、ジゼルはムッとしながらもそれにもうなずいた。国外追放だけは、やはりどうしても避けたい事だった。


「俺が今、最も信用してるのは、カヴァネルとジゼルだけだ」


 ローガンの瞳には、嘘偽りはない。まっすぐとジゼルを見つめる目には、紳士的な色が浮かんでさえいて、よっぽど公にはできない内情なのだとジゼルは悟った。


 それもそのはずで、国の中心である王宮内で不審死が流行っているなど、国民からしてみたら、不安しかない。


「その、宰相には私のこと……」


「男だと伝えてある。あと、恋人はフェイクで、協力者だともな。安心しろ、役に立ってくれれば、俺は約束は必ず守る。絶対に女だとは知らせないし、国外追放させない」


 分かった、とうなずいてから、ジゼルはローガンのペースに飲まれっぱなしだなとため息を吐いた。

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