祭りの風

七山月子

ここ数ヶ月、腑抜けになっていた。生活しているだけの、生物になっていた。考える必要も意味も見出せず、生きているのか死んでいるのかも知らないような、そういう日々をただ潰して追いかけているような。

でも、恋をしたいなと思った。

それは単純に刺激が欲しかっただけかもしれない。公園で見つけたサルノコシカケがなんとなく綺麗だなと思ったからかもしれない。

切り株に生えたそれがどうにも旨そうに手招きをしていた。

恋をしよう。

ちょっとした山になっているその公園には、背の高い林に突き抜けて一本だけ道が伸びていた。真っ直ぐ、真っ直ぐ。

その傍らでサルノコシカケを見つけたのだった。

この公園を歩いて最後に突き当たる神社で、今日はお祭りがあると聞いていた。叔母がくれた浴衣に包まれて、団扇を一枚ひらり持っているのだ。暑さはそんな風一枚で凌ぐにはちょうど良い頃合いの夕方だった。

神社には待ち合わせている友だちが一人。

伊藤ちゃんが私をまっている。

そして下駄で砂利を踏み締めながら、道を歩き私はそっと恋をしようと決めている。

腑抜けた世界に差し込まれたその光は提灯の灯りよりも緩く弱く。

まだ見ぬ相手にとって差し障りない私にならなくては。

差し障りのない私というのは、出過ぎた真似をしない、良い彼女にうってつけの女、である。余計な嫉妬もしない、過剰な我儘も言わず、適当にか弱く、鬱陶しさのない爽やかな女ということだ。

そうしなくてはまた腑抜けになってしまうので、仕方ないのだと言い聞かせてみる。


目指す祭りの踊りはすぐそこまで迫っている。

夏の、もうすぐ終わりを告げる匂いが充満していた。

「なっちゃん、遅いよ」

黒すぎる美しい髪を結いつめた伊藤ちゃんが私に笑顔を向ける。

あのね、サルノコシカケを見たんだよ。

私が口を開けば、また笑う。

傾いた夕焼けがやがて黒く染まり提灯の赤い光が夜を賑やかす。

綿飴に色をつけた、健康上よろしくないそれを私たちは面白おかしく舐め始める。

連なる屋台の並びに入り、祭りは更けていく。笑って、笑って、また幸せになれることを信じている。恋を、しよう。恋を。

「あっ」

石が飛んだ。

下駄のつま先に当たった石が、勢いつけて目の前の男性にぶつかってしまった。

「どうしたの?」

伊藤ちゃんが虹色の綿飴を舐めまわしながら私を見る。

私は目の前の石がぶつかった先、男性の素足に下駄履きの彼が小さく「痛い」と漏らしたのを逃さなかった。

それで目があってしまった。

理不尽な痛みに困惑を乗せた表情の、丸いメガネをした男性だった。

「リツ、こっちはやく、はやく」

リツと呼ばれて跳ねたようにわたしから背いた彼の背中に、瞬間、私は綿飴を投げていた。

「えっ」

リツは驚いた声で髪にべっとりついた綿飴が哀れな姿で砂利道に落ちていくのを見つめた。

しまった。

差し障りのない私になるはずだった私は、出会い頭に綿飴をぶつける女になってしまっていた。

伊藤ちゃんは長い付き合いのその私の行動を見てとって察した模様で、素知らぬ顔を突き通そうとアサッテの方向を向き綿飴ばかり食らい付いている。

「ごめんなさい」

謝ったのは私ではなかった。

「は?」

驚いて聞き返した私に、リツは丸メガネを人差し指で押し上げながら早口で続けて謝り出す。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

まるでぶつけたのが彼でぶつけられたのが私のように。

ごめんなさい、が一つ、二つ、積み重なっていくうちにサルノコシカケの真っ白いキノコが私の腕や足から生えていくような心地になってしまった。

「うるさいな。あんた何もしてないでしょうが」

つるりと口から出てしまった悪態にため息をついた伊藤ちゃんが、

「なっちゃんが悪いんだからなっちゃんが謝んなさいよ」

そう言って私を小突く。

そうだよね。返して困惑と傷ついたような表情のリツに頭を下げてみると、リツが一歩退いた。

小動物かなにかのようだな、と思った。我が家の猫よりもか弱い、昔飼っていた兎よりも。たぶん、ネズミとかリスとかその類の。

そう思って顔を上げると、リツはもうそこには居らず、連れに引き摺り込まれるように雑踏へ消えていた。

「なにあれ」

「なっちゃん、懲りないね」

「いやいや伊藤ちゃん。私は恋をしたよ」

「そのサディスティックなアンテナと行動力はどうにかしたほうがいいと思うよ」

「いやいや伊藤ちゃん。私は今度こそ振られないように隠し通すよ」

「どこも隠せてないと思うよ、なっちゃん」

そう?そう。

最後は目で交わして終わったその会話の最中、私たちはリツの消えた雑踏に飲まれながら彼を探していた。

恋を、しよう。身体中に咲いたサルノコシカケが団扇の風に靡いて言う。

懲りないね。伊藤ちゃんが綿飴のささっていた割り箸を手にぶら下げて言う。

いやいや伊藤ちゃん。一筋垂らした後れ毛を指に絡ませた私が返す。

夜が祭りごと更けていく。盆踊りの太鼓があの公園の林に吹く夏の風に乗って流れていく。下駄が砂利を踏みしめて、混ざっていく。幸せになるんだ。そう信じている。腑抜けた毎日、同じ朝の憂鬱、二度とこない恋の日々、別れ、静か過ぎる家、あなたのいない世界。全部この風になっていく。流れて流れて、いつのまにか気付いた頃にはもう見えない。そういう風に、なっていく。

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