1-6 初戦

 時刻を報せる鐘の音が鳴り響く。

 辺り一帯は、その余韻をたやすくかき消してしまうほどの喧騒に包まれていた。

 試合を行う剣闘士、執行や審判を務める神官だけでなく、会場は見物に来た街の住人たちの姿で溢れ返っている。その人混みは身動きできないほどの密度でこそないものの、無遠慮に歩けば簡単に肩と肩がぶつかりあう程度には、人と人との距離が近い。

 男だけでなく、女もいれば子供の姿もある。また、中には偵察中の剣闘士もいれば、情報を集め売ることを生業としている業者、物見遊山の気まぐれな貴族、金の成る木を探す商売人など、それこそ様々な種類の人間がそこには混ざっている。それは、剣闘士が全ての中心となっている聖地ならではの光景だった。

 九番区闘技場は、屋根もないただの広場をいくつかに区分けしただけの簡素な野外闘技場で、主にCランク以下の剣闘士の試合に使用される。

 ここでは十以上の試合がほぼ同時に開催され、その後も試合が終わったところから順に次の試合が行われていくのだが、その様子は忙しなく、実際に闘う剣闘士それぞれにとっては大事な一戦も、これを執り行う神官たちからすればただの流れ作業の一環でしかない。

 受付で参加証のメダルを渡し、初戦ということで神官から試合に関する規則などひととおりの説明を受ける。

 そういった手続きを済ませた後、フィオリトゥーラは、ディル、ガルディアとともに闘技場の人混みの中に埋もれていた。

 ラモンとの対戦は、闘技場の端に位置する二番の試合場で行われるとのことだった。到着した時、隣ではすでに試合が始まっているようで、人が作る壁の向こうから時折歓声が上がったりしていた。

「凄い人でしょ?」

 ガルディアがフィオリトゥーラの耳元で話す。歓声の中では、この距離でないと何を言っているのか上手く伝わらないのだ。

 フィオリトゥーラは無言でうなずいた。

「ま、せめて死なないようにしてくれよ」

 彼女の背後からディルがそんなことを言う。相変わらずな彼のそんな言葉にも、彼女は同様に無言でうなずいた。ひとつに編んで背中に垂らした長い髪がわずかに揺れる。

「これより、二番場第一試合を開始する!」

 四角く区切られた試合場の中央で、大柄な神官がよく通る野太い声で告げた。

「剣闘士ラモン、フィオリトゥーラ・ランズベルト、前へ!」

 神官の声で、試合場の向かいからずんぐりとした体型の男が姿を現す。

 ラモンだった。

 体型から受ける印象より背丈はあるようで、ディルと同じ百七十センチ半ばぐらいといったところだろうか。

 ラモンは、薄く作られた飾り気のない軽量のヘルメットを被り、上半身だけを守る無骨な金属鎧を装備している。そしてその手には、ディルが以前に見たという柄の長さが通常よりも長い改造メイスを持っていた。

 片手で使う際の扱いにくさはあるだろうが、状況によって片手でも両手でも扱える汎用性を優先しているようだった。

 ラモンの登場に観衆の一部から歓声が上がる。七戦で六勝している闘士だけあって、知る人ぞ知るといったところらしい。

 フィオリトゥーラは喧騒の中、ゆっくりとその目を閉じる。そして、手にした両手剣を胸元へと力強く引き寄せた。

「参ります」

 静かにそう告げると、その碧い瞳でしっかりと眼前を見据え、彼女は足を踏みだした。

 ラモンに遅れて、フィオリトゥーラが試合場にその姿を現した。

 その服は、赤とマスタードイエローを基調としながらも要所が白と黒で彩られている。厚手の生地に見事な刺繍が施されたスカートの裾を彼女が翻すと、その下からは、中に着こんでいる極限まで軽く薄く作られたチェインメイルが、少しだけその姿を覗かせた。

 ドレス調のシルエットを持つその戦闘服の上では、襟元から胸の下までを金属鎧が覆っている。鎧はラモンのそれとは対照的で、身体のラインに添った精巧な作りの美しい鎧だった。

 すでに剣身をあらわにしている彼女の背丈ほどもある両手剣は、彼女の両手に支えられ、その剣先を斜め下に向け携えられていた。

 彼女が足を止めると、喧騒に包まれた闘技場の中で、この試合場を囲む観衆たちだけが、声を出すことも忘れてその姿に視線を奪われた。

 白いホーズに包まれたほっそりとした両の脚がすらりと伸び、シンプルだがその脚のラインを邪魔しない精巧な革製のブーツがしっかりと地面を踏みしめている。

 うつむき加減の白い横顔。凛とした眉、碧い瞳、緩やかな曲線を描く鼻梁に、つんとした高い鼻先、ふっくらとした桜色の唇。

 闘うための鎧に身を包んでいるというのに、剣闘士ではなく浮世離れした天使か妖精でもそこに迷いこんだのかと錯覚するほどだった。

 白金の髪を持つ気高く美麗な剣士の登場に、審判を務める神官でさえも思わずその言葉を失っていた。

 しばしの戸惑いの後、観衆は目の前の光景をようやく認識すると、次第にそれぞれが言葉を取り戻し、やがてそれが大きな歓声となって試合場に渦巻いた。

「ま、こうなるよな」

「予想どおりだね」

 なかなか鳴りやまない歓声の中、ディルとガルディアが周囲を見回し呟いた。

 試合場では、ようやく神官も落ちつきをとり戻したのか、出揃った両者の姿をあらためて確認している。

 そんな中、ラモンが神官へと歩み寄り何事か話しかけていた。何か抗議でもしているようだったが、大方の内容は予想できた。

 あまりにも想定と違う対戦相手の姿に戸惑い、その感情を誰かに吐きださなければ動揺がおさまらないのだ。

 剣闘士登録の性質上、どんな相手が現れても不思議ではない聖地の試合だが、なまじ戦闘経験を持つ低ランク者の中には、こういった時に戸惑ってしまう者も少なくない。例えば、年端もいかない幼子が対戦相手として登場すれば、彼はやはり同様の行為に出るのだろう。

「いいんだな? 俺は容赦しないからな!」

 成立するはずのない抗議を神官があしらうと、ラモンは元の位置に戻りながら神官へと叫んでいた。

 すでにその顔から戸惑いは消え、彼は眼前に立つ華やかな装いのフィオリトゥーラの姿を強く睨みつける。神官が対戦を認めたことで、彼の中で一度揺らぎかけた戦意に再び火がついたようだった。ただ、そこには普段の試合の時にはない苛立ちも含まれていた。

 フィオリトゥーラ、ラモンの二人は、それぞれ神官の指示を受けて開始線の前に立つ。線と線の間には、五メートルほどの距離が空けられていた。

 事前に説明された試合規則どおり、フィオリトゥーラは剣の柄から手を放しその両の手を自身の顔の前に掲げた。手は甲の側を相手に向けている。手放した両手剣は、剣先を地につけた状態で自身の身体に立てかけて保持している。

 対するラモンは、メイスを地面に寝かせるとやはりその手を放し、片膝をつけかがんだ姿勢のまま、フィオリトゥーラ同様に両手を顔の前に掲げた。

 使用武器に関してほとんど規制がない聖地の試合では、弓や投擲武器の使用も認められているため、武器を手放した状態での試合開始が義務づけられている。

 開始線の前に位置取り、武器から手を離してその両手を自らの顔の前に掲げる。これが開始前の最低限の規則だった。それさえ守れば、今のラモンのようにどんな姿勢をとっていても問題はない。

「双方準備よし」

 神官が順に互いの姿を確認する。

「始めッ!」

 試合開始の合図を叫ぶと、神官はすかさず後方へと下がった。


 メイスを掴んだラモンが、立ち上がると同時に大きく前に踏みだしていた。

 右手一本でメイスを小さく振り上げながら、体当たりでもするかのような勢いで突進していく。

 それを見たフィオリトゥーラは、反対に後方へと跳躍する。

 滑らかな動きで柄を握って、くるりと剣を起こすと、彼女は着地と同時に剣先を斜めに傾けて構えた。

 妙に落ちついた表情で、その瞳が静かにラモンの姿を見据える。

「チッ!」

 ラモンは地面を強く踏みつけ、突進しかけたその身体を止めた。フィオリトーラが予想以上に速く迎撃態勢を作り、彼を牽制したためだ。

 ラモンの彼女を見る目つきに明らかな変化が見られた。先の苛立ちがその表情から消えていた。

 剣先をこちらへと傾けて構えるフィオリトゥーラを前に、ラモンはメイスの柄を持ち替え両手で握りこむ。それから、間合いを慎重に測りながらゆっくりと右へ回りこんでいく。

 フィオリトゥーラは最小限の足捌きで、そんなラモンへと向きを合わせた。その構えに一切の乱れはない。

「悪くない始め方だな」

「うん」 

 試合場の傍らで、ディルが二人の動きを凝視していた。隣のガルディアも同様だ。

 ラモンは一定の間合いを保ったまま移動する。右が駄目なら左、それでも崩れなければまた右と、時にわずかな緩急もつけながら相手の動きを誘う。

 両手剣の間合いは広い。彼女の剣技の程度は未知数だが、もしまともに振れるのであれば、中途半端な距離は危険といえた。

 ラモンは再びメイスの握りを変える。

 左手は柄の端を持ったまま、右手を打撃に使う頭部の根元まで滑らせた。それは剣撃をメイスで受けるための構えだった。

 相手にそれを悟らせる前にと、ラモンはすぐさま突進を開始する。狙いは、両手剣の迎撃を弾いてからの接近戦――。

 ところが、ラモンの突進を見た彼女は、振るどころか逆にその剣を垂直に立て、自らへと引き寄せていた。

 むうッ――⁉

 当てが外れたラモンだったが、相手が両手剣の間合いを使う気がないのなら好都合とばかりに、すかさず握りを元に戻すと、突進の勢いそのままに、胸元か手の辺りをと狙ってメイスを振り下ろす。

 その一撃を、身体ごと横にずれてフィオリトゥーラがかわした。だが、そこはすでにメイスの間合いの中である。

 立てた剣を戻す間もないまま、ラモンの追撃が始まった。

 それは、一撃の破壊力よりも隙をなくすことを優先した攻撃だった。

 まず両手で横に薙ぐと、次は右手一本でメイスを逆に振り返し、続いて両手に戻して下からすくい上げる。流れるような連撃。

 しかし、その全てをフィオリトゥーラは紙一重で避けていた。剣を立てたまま、目を見開いて集中する。

 上昇するメイスの頭部が途中で動きを止め、今度は彼女の顔を狙って突きだされた。彼女は剣と顔を同時に傾けて、それもまた回避する。

 ラモンの連続攻撃は、技術と修練の賜物だった。闇雲にメイスを振りまわしているように見えて、その実、攻撃と攻撃の繋がりに無駄がなく隙もない。以前の試合では、相手に一切の反撃の隙も与えずに二十回以上の打撃を絶え間なく打ちこんだこともあった。

 だが、今はそれが当たらない。碧い瞳が瞬きもせずにメイスの動きを追い続けている。

 こいつ、俺が打ち疲れるのを待つつもりか。

 すでに十回目の打撃を打ちこみながら、ラモンは思考を巡らせた。

 相手は華奢だ。わずかでも当たりさえすれば形勢は動く。ならば、次の打撃は両手で、よりコンパクトに素早く。

 ラモンがそう考えた瞬間だった。唐突にフィオリトゥーラが足を踏みだし、このメイスの距離からさらに間合いを詰めた。

 立てたままの両手剣を押しだすようにして、それを次のメイスの一撃へと割りこませる。

 ギィンッ!

 金属音が鳴り響いた。

「うわ、強引――」

 ガルディアが思わず呟きをもらす。

 剣とメイスが衝突したその反動で、フィオリトゥーラとラモンは互いに大きく体勢を崩していた。

 だがその中で、ラモンは視線だけをフィオリトゥーラへ向けたまま、弾かれた勢いそのままに、くるりと身体を横向きに一回転させる。

 メイスを片手に持ち替えながら、最短距離で横向きに薙ぐ。力はいらない、回転の勢いだけでいい。当たればどこだろうと構わない。

 しかし観衆は、そんなラモンの動きとはまるで別次元の動きを目撃していた。

 弾かれた勢いそのままに身体を回転させる。それはラモンと変わらない。

 ただ、フィオリトゥーラはそれと同時に、下がりながら距離を空けた。剣を立てたまま回転しながら後方にずれたのだ。

 そしてさらに、その動きの中で両手剣を振り下ろす。しかも、その全ての動作を、たった一呼吸の中で完了させた。

 間合いが広がった分、最高の威力を放つ距離で、剣はその軌跡を描いた。

 甲高い金属音と何かを擦ったような音が、重なり鳴り響く。

 二人が衝突したと観衆が思った次の瞬間には、すでにそこには剣を振り終えたフィオトゥーラの姿があった。

 衝撃に動きを止められたラモンは、彼女にまだ背を向けたままその場に立ち尽くしていた。届くはずのメイスは半分も振られていなかった。

 ガラン、と音を立て、ラモンの手を離れたメイスが地面に転がった。

 観衆の視線がラモンへと注がれる。

 左の肩口から鎧ごと斜めに背中を斬り裂かれていた。大きく開いた傷口から、一瞬遅れて大量の鮮血が溢れでた。

「あがががががッ!」

 人の声とは思えないような、規則的な呻きがもれだす。

 ラモンはがくがくと震えながら、その両膝を地面に落とした。その勢いで大量の血が地面へと降りそそぐ。

 控えていた救護係の神官二人が、慌ててラモンを取り囲んだ。大きな布で傷口を隠し押さえると、そのままラモンを試合場の外へと連れだしていく。

 ラモンは神官たちに支えられながらも、自らの足でよろよろと歩いていたが、その視線は宙をさまよい、意識は朦朧もうろうとしているようだった。

 しばしの沈黙の後、この光景を見届けた観衆から、思いだしたように一斉に歓声が沸き起こる。

「マジかよ……」

 ディルが呆然と呟く。隣のガルディアは声も出せずにいた。

 衝突の後、ラモンは無駄のない動作で最短の攻撃を狙っていた。メイスを持ち替えるのも見た。正直、巧いとすら感じた。

 だが、そこでフィオリトゥーラはあの動きを見せたのだ。

 剣の間合いを作る動き自体は理に適っている。だが、そういうことは問題ではなかった。一回転して自身の武器を振る。それ自体ラモンと彼女の間になんの差もない。

 差があったのは、単純な速さだった。

 彼女の動きが、理不尽なまでに速かったのだ。

 ラモンは衝突の勢いを利用し回ろうとしていたが、彼女はそんなものは関係なかったかのように、何か別の強い力に弾きだされたような速度で回転した。

 観衆の大半は、フィオリトゥーラの動きを正確に把握できていないだろう。

 鳴りやまない歓声の中、勝利宣告を受けたフィオリトゥーラが神官に渡された布で自らの剣の剣身を拭っていた。見ると、ほとんど血はついていないようだった。

 初戦を見事な勝利で飾った彼女だったが、なぜかその表情は虚ろで、心ここにあらずといった様子を見せている。

 ディルとガルディアの姿を見つけると、剣を携えたまま彼女はしっかりとした足取りで二人のもとへ歩み寄る。

「おめでとう!」

 ガルディアが祝福の言葉をかけた。ディルはその隣から、剣を納めるための革袋を彼女へと手渡す。 

 フィオリトゥーラはそんな二人の様子にこくりとうなずく。それから革袋に剣を納めそれを背負うと、そのまま二人の脇を抜けて歩きだした。 

 途中、彼女に話しかけようとする人の姿もあったが、それには構わず、喧騒と人混みの中を抜けていく。

 彼女は闘技場から離れた広場の入口付近まで歩き続けると、そこでようやくその足を止めた。

「少し、休憩をいただいても構いませんか?」

 近くの壁に背を預けると、フィオリトゥーラが言った。微笑んでみせたが、その表情には疲労の色が浮かんでいる。

 ディルとガルディアは、内心首をかしげた。試合時間も短く、まるでダメージのない無傷での勝利。だが、そんな完勝の後とは思えない様子を、彼女が見せていたからだ。

 壁に預けた背中がすとんと落ちると、彼女はそのまま地面に座りこんでしまう。

「大丈夫です。少ししたら落ちつきますので、私にはお構いなく」

 二人を見上げるその顔は儚げで、ディルはわずかだが視線を逸らした。

「わかった」

 ディルはそう言いながら自身が羽織っていたマントを脱ぐと、それを彼女へと渡す。何も訊かず素直に答えた彼の様子が、ガルディアには少し不思議に思えた。

「さっきの試合の後だ。わけわかんねえ奴が寄ってくるかもしれないし、これでも被ってろ」

「感謝します」

 フィオリトゥーラはそう言うと、言われたとおりに手渡されたマントを被る。すると、彼女の姿は頭までマントにすっぽりと覆われ隠された。

「俺たちは他の試合を観に行ってくる。ここでじっとしてろよ」

 ディルはくるりときびすを返すと、さっさと歩きだす。

 心配そうにフィオリトゥーラへと視線を残しながら、ガルディアもそれに続いた。


 闘技場に戻ってはみたものの、そこに二人の興味を引くような試合はなかった。そもそもあんな闘いを見た後では、このランクの剣闘士の試合を見たところで、何か刺激を受けるはずもなかった。

「あれ、なんだろうね。緊張が解けた反動とかなのかな?」

 互いに腰が引けてなかなか決着のつかない目の前の試合を眺めながら、ガルディアが言った。先のフィオリトゥーラの様子についてのことだ。

「どうかな。あれはもしかしたら……」

「もしかしたら?」

 ディルは言いかけた言葉をのみこんだまま、しばし沈黙する。

「いや、やっぱやめだ。そういうのを勝手に想像して語るのは、俺の性に合わねえ」

 ディルは試合へと視線を戻す。

「そっか」

 ガルディアも無理に話を続けようとはしなかった。このあたりは、すでに一年近い二人の付き合いの長さゆえの呼吸だった。

「それにしても彼女、強かったね」

「ああ」

 ディルが答えた時、目の前の試合に動きがあった。意を決した相手の一撃に怯んだ若い剣闘士が、身をよじりながら慌てて剣を振りまわし、それが偶然相手の脇腹を薙いだのだ。 

 致命傷とはいいがたかったが、脇腹を斬られた剣闘士は即座に降参を宣言していた。

 歓声は少なく、その代わりに多くのため息が聞こえた。

 聖地には様々な剣闘士がいるとはいえ、本来Dランクあたりであればこういった試合も多い。

「僕さ、オカルトには興味ないんだけど、あんなのを見ちゃうとちょっと言いたくなるよね」

 ガルディアの言わんとすることは、ディルにも想像ができた。

「――修羅しゅら、か?」

「そうそれ。だってさ、あんな細い身体であの剣撃だよ?」

「だから〝修羅〟だってか?」

 ディルは皮肉げな笑みを浮かべ言った。

「いや、だから僕だってあんな迷信はどうかと思うけどさあ」

 ガルディアは答えながら苦笑していた。

 この世界では「修羅」と呼ばれる存在、あるいは力があるといわれている。それは、闘いを生業とする者たちの中ではなかば常識的な言葉でもあるが、同時にガルディアが口にしたように、単なる迷信として考えられている風潮も強い。

 人は時に常識的な理屈では説明がつかないような、その本来持ち得るだろう身体能力を遥かに凌駕した強大な力を発揮することがある。そんな現象を言いあらわす時、そこに「修羅」という言葉が登場する。それはこの世界でいつからか語り継がれてきた、ひとつの概念なのだ。

 何かしらの重い業を背負った者、凄まじいまでの決意に身を焦がした者、想像を絶する過酷な環境に身を晒してきた者、そういった者たちが「修羅」をその身に宿すといわれている。

「そもそも、あれはほとんどが結果論としてしか語られねえだろ」

「確かにね」

 ディルの言うことは至極的を射ていた。

 実際、何者かが「修羅」をその身に宿していると他者に語られる多くは、その者がすでに何かを成しえている場合がほとんどなのだ。そして、そんな時使われるそれは、名の知れた実力者の意外性を形容する言葉のひとつでしかなかったりする。

「それにだ。剣を振るうにも色々コツはあるし、分不相応な武器を使いこなす剣闘士だっていないわけじゃない」

「まあやっぱりオカルトだよね」

 ガルディアはディルの意見に納得しそう答えた後、ふと振り向いてフィオリトゥーラが休んでいる方角を眺める。

「そろそろ戻ろうか。フィオさんに次の試合の登録申請とかも説明した方がいいだろうし」

「そうだな」

 二人が戻ると、フィオリトゥーラはあの華やかな出で立ちで広場の入口付近に立っていた。ディルが渡したマントは彼女の小脇に抱えられている。

 その顔に疲労の様子は見られず、表情にももうおかしなところはなかった。

「大丈夫みたいだね」

 ガルディアの隣で、ディルは付近をきょろときょろと見回していた。まだ闘技場では試合が行われているため、行きかう人の姿は多い。

「誰かに声かけられたか?」

「はい。剣術の道場主をされているという方と、武具を販売するお店を経営されているという方がいらっしゃいました」

「はッ、気が早え奴らだな。で、どうした?」

「いえ。私にはよくわからないことでしたので、お話はお断りさせていただきました」

 この聖地では、名のある剣闘士と関係性を築くことで商売を行う者も多い。

 装備品を提供することで品物や店舗の宣伝を行ったり、その剣闘士の知名度を利用しての集客であったりと、それなりでも名の知れた剣闘士の商売価値は、思いのほか高い。

 だが、ある程度有名な剣闘士と組むとなれば、そこには同業者との熾烈な争奪戦に勝ち抜く必要があり、そのため、そういった商売を狙う者は、こういった低ランクの闘技場にも足を運び、将来性や話題性がありそうな剣闘士を見つけては声をかけるのだ。

「その恰好じゃ、すぐに覚えられちまっただろうな」

 ディルはあらためてフィオリトゥーラの姿を眺める。

 赤とマスタードイエローを基調とした鮮やかな色彩に彩られた彼女の戦闘服は、上質な仕立てのわりに行きすぎた過剰な装飾もなく気品に溢れ、さらには耐久性や実用性も兼ね備えている。

 カルダ=エルギムの剣もそうだが、こんな上等な装備を身に着けている剣闘士など「D」はもちろん、Bランクでもなかなか見かけるものではない。

「これ、ありがとうございました」

 フィオリトゥーラは、抱えていたマントをディルへと手渡す。

 思えば、彼女はなぜこんな場所で闘う決意をしたのだろうか。

 そんな当たり前の疑問を、ディルは今更ながら考えた。貴族の道楽とは到底思えないあの闘いぶりを見てしまったからだろうか。

「さっさと戻ろうぜ。剣のメンテも必要だろ?」

「教会だけは寄ってこうよ。申請は早い方がいいし。そういえば、今晩もリディアさんが昨日に続いて腕を振るってくれるらしいよ。祝勝会なんだって」

「それ、無駄にならなくてよかったな」

「またそういうこと言うし」 

 二人のそんなやりとりを眺め、フィオリトゥーラは思わず微笑んだ。

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