1-3 聖地アルスタルト
唐突に冷気が舞い降りてきた。
彼女は思わず肩を震わせる。砂漠の夜はいつも冷えこむものだったが、それとはまた少し違う感覚があった。
空はわずかな赤みを西の彼方に残すのみで、周囲はすでに夜の闇の中にある。
目前にいくつかの松明の灯が浮かんでいた。
辿り着いてみれば、最初の城壁は、少し見上げる程度の高さの簡易的な物だった。もっとも、それがこの広大な土地全てを囲んでいると想像すると気が遠くなるが。
二人の門番が門の脇に控えていたが、彼らは特にこちらに注意を払うでもなく、また、門自体も来訪者を阻むことなく開け放たれてあった。
それぞれ二人が乗っているのと荷物を積んだ計三頭のラクダが、順にゆるゆると門をくぐっていく。彼女はその背の上から、門番へと軽く会釈した。
門を抜けた先では、広大な闇が広がっていた。
闇の遥か向こう、遠方に溶けこんでいる城塞と城壁のシルエットの上方に、積みあげられた無数の街の灯が見てとれる。
アルスタルトの外環は全て農業区域となっているため、あの都市を囲む堅固な城壁へと辿り着くためには、ここからさらに数キロメートル進まなければならない。
彼女は再びフードを脱いで、かすかにうかがえる街の様子を眺めようと、目を凝らす。
夜空に瞬く星々とは違う、不揃いに身を寄せ合う光たち。不意に、その光景が霞んだ。
なぜだろうと目を細めた瞬間、前方からサーッと何かを撫でるような音が聞こえた。そう思った直後には、彼女はすでに音の渦の中にいた。
続く衝撃に慌ててフードを被る。激しい雨が容赦なく彼女を叩きつけた。異変にラクダが足を止める。
斜め後方にいる従者へ振り向くと、彼もまた、突然の豪雨になすすべもなく、ただラクダの背の上で身を縮めていた。
砂漠に入ってからここまでで、初めての雨だった。
じっと耐えるようにして数分が経つと、のしかかる重圧は唐突に消え、その後は何事もなかったかのように、辺りに静寂が戻っていた。
二人を襲った豪雨は、駆け足で東へと去っていく。ここまで二人が来た道を
「凄い。砂漠でもこんな雨があるのですね」
彼女は目を瞬かせ、思わずそう口にしていた。そんな彼女の様子に従者が微笑む。
「年間を通しても、なかなか巡りあえる日は少ないでしょうな」
初老の従者は答えつつも、次に言葉を続けた。
「時に。母国語はいけません。ここはすでに〝
従者の言葉を聞き、彼女は慌てて口に手を当てる。
「そうでしたね。心得ました」
今や世界の共通言語となっている聖剣教固有の言語、「
「流石ですな。美しい発音です」
従者の言葉を受け、今度は彼女が微笑んでみせた。
そうなのだ。もうたった今から、少しずつでもこの地に馴染んでいかねばならないのだ。
そこから先は平穏な道のりだった。
農業区域を抜けそこに現れた城壁は、先の物とは比較にならない巨大さだった。壁の天辺を見ようとすれば、それはもうほとんど空を見上げているのと変わらない。
大きな松明の光に照らされた堅牢な城門が、壁の中へ続く道を閉ざしている。門の上方にある出窓から、門番がこちらの様子をうかがっているのがわかった。
通行証の提示など必要な手続きを済ませた後、ラクダが通れる幅の分だけ開かれた門をくぐり抜けると、何か月かぶりに見る街の風景がそこにあった。
「ここからが、アルスタルト第三環状街です」
従者の言葉にうなずくと、彼女は周囲を見渡した。
門の前は広場となっており、そこから真っすぐに巨大な通りが伸びている。陽も落ちたせいか、人の姿はほとんど見られない。
砂漠の街らしく石壁の建造物が多く並んでいるが、その中に様々な様式の物も散りばめながら、街はどこまでも果てしなく続いていた。
初めて見る聖地の風景は、月明りを受け青白く浮かんでいる。振り向けば、城壁の上から満月が顔を覗かせていた。
建物の造りもその規模も、自分が見慣れた故郷の風景とはまるで違う。それでも、ここは街なのだと安堵してしまう。長かった砂漠の旅のせいだろうか。
都市の中心地へと続く中央通りをいくらか西へ進んだ後、交差点を北へ折れ、同様の大きな通りをさらに進んでいく。
第三環状街東部の十番区に、彼女の当面の住居となる屋敷があるという。
一度曲がった後は、ただひたすら道なりに進み続けた。
交差点の辺りからか、次第に行きかう街人の姿を幾度も見かけるようになっていた。満月の夜とはいえ、灯りがともっている場所は思いのほか多く、この街は夜でも動いているようだった。
石造りの建物が並ぶ変わらない景色を眺めつつ、彼女は砂漠から見たこの城塞都市の巨大さに圧倒されたことを思いだす。
ここアルスタルトは、世界最大の都市といわれている。
正確な数こそ定かではないものの、その人口は三十万人とも五十万人とも伝えられ、少なくとも、ここで生活をしている剣闘士の数だけでも十万は優に超えるという。
そして、その十万を超える者たちが、それぞれの闘う理由や想いを抱え、あるいはただ呼吸をするかのように、日々競技者として闘いを繰り返し、頂点に君臨する十二の座を奪い合っている。
千年近い遥か昔から、気の遠くなるような時の中繰り返されてきたその行為に、もはや疑念を抱く者などいない。ここではそれが常識であり、この巨大な都市の機能は、そのためだけにあるといっても過言ではないのだ。
どれだけ移動しただろうか。中規模の都市であれば、すでに通り抜けてしまうかもしれないほどの距離を進んだ頃、次第に周囲の建造物に多様性が見られるようになってきた。
レンガで造られた家もあれば、見慣れた木造の建築物もある。建物自体の大きさも、比較的大きな物が増えていた。
やがて、その中で目につく、木組みの枠を見せるハーフティンバー様式に白壁の屋敷が現れた。
やや後方に位置していた従者が歩を進め彼女の前に出ると、その屋敷の門前でラクダを止める。同時に、繋がれていた荷物専用のラクダもまた歩みを止めた。
「ここのようです。ようやく到着ですな」
夜の闇で細かな様子はわからないが、小振りだが綺麗にまとまった左右対称の建物だった。もっとも、小振りとは彼女の感覚からすればの話で、その大きさは、敷地も含めて付近の建物の中では一二を争うものだった。
屋敷からはいくつかの明かりがもれていた。住人はまだ起きているらしい。
彼女は横に並んだ従者へと視線を向ける。初老の男は、無言でただ彼女を見つめていた。
「ランズベルト。ここまでの道のり、ご苦労でした」
労いの言葉をかける彼女に、従者ランズベルトはすぐに言葉を返せずにいた。
「職務を退いた身とはいえ、私のために多くの時間を使わせてしまいましたね」
先の忠告どおり、見事な聖教音を用いて彼女が続けた。発音の良さもさることながら、控えめで落ちつきを持ちながらも、それでいて華やかさのある美しい声だった。
「いいえ、楽しい旅路でした。ここでお別れするのが名残惜しいかぎりですな」
ランズベルトはそう言ってから、少しの間を置いた後、温かく柔らかな微笑みを彼女へと向けた。
多くの言葉も名残を惜しむ時間も、ここには必要ない。そう理解しているにもかかわらず、そのわずかな間が、彼の中にある彼女への強い忠誠であり親子の間柄にも似た深い愛情を示していた。
ラクダから降りると、ランズベルトは屋敷の門を開ける。それから荷物の積み替えを行い、積みきれない荷物は門前へと並べ置いた。
「くれぐれもご無事で。そして、ご無理をなさらぬように」
「ありがとう。この恩は決して忘れません」
二人での長かった旅路は、ここで本当の終着点を迎えた。ランズベルトがこの門をくぐることはない。彼は明日の朝早くには、もうこの聖地をあとにすることだろう。
「それでは、道中お気をつけを」
彼女の言葉にランズベルトは深々と頭を下げた。
そして彼は、彼女が屋敷へ向かうさまを見届けることもなく、ラクダの歩を進めると、この場から去っていった。
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