第九章 ④

 祈れと、誰かが言った。

 神に祈れと、聖霊に祈れと、殉教者に祈れと、先祖に祈れと、高き場所にいる者達に祈りを捧げろと。

「一つ、気になっていたことがあった」

 ゼルとフレンジュは、まだ屋上にいた。

「どうにも、向こうの攻撃が温すぎる。狙撃の二発目はなかったし、オデイル連中で俺を倒せないことくらい、分かっているはずだ」

 そこには一体、どんな理由があるのか。

 ゼルは機操剣を引き抜いた。空気弁を最大まで開き、コークスを轟々と燃やす。蒸気機関のシリンダーが十二本、一点へと力を収束させていく。高位解析機関を構築する歯車群が脈動を始めた。MアポートンM一八五〇を補助するSカノッソス零式は三つまで起動している。

 刀身、火竜小唄が夜の湿り気をぬらりと帯びる。刃そのものが、霜が落ちたように鍛えられた霞仕上げだ。だから、夜の方が濡れていく。鉄錆びの臭いで、血の臭いで、死の臭いで。段々と、生死の境目を忘れていく。

 ゼルは鍔を一気に半回転させる。高位解析機関の主力、MアポートンM一八五〇が命令を受けて歯車群の活性化させた。

 火竜小唄の表面で温い風が流れる。蒸気機関の熱が刀身に伝わり、大気との温度差が疑似的な風となったのだ。

 その場で片膝をつき、機操剣を屋上の床に突き立てる。

 トリガーへと人差し指をかけ、深く息を吸った。

「つまり、全力でやってほしいってことだろう?」

 ゼルは振り返り、フレンジュにもっと近付くように目で訴える。フレンジュが辺りを注視しながらゼルの傍まで寄った。

「本当なら、レインにフレンジュを預けたかったんだけどな。あいつは根っこが警察だからな。良い意味も悪い意味でも、権力に影響される」

「上司の命令に逆らえないってこと?」

「逆だ逆。気に入らなければ上司を平気でぶん殴るんだよ」

 フレンジュが苦い顔を作った。

「あの人ならやりそうって想う自分が怖いわ。……まあ、正解よ。その程度で諦めるような場所じゃないもの」

 刀身に触れている床、機錬種が蠢く。砂の下で毒蛇が暴れているかのように。完結された形を分解され、新しき法則を強制される。

他の国では、絶対に有り得ない光景だった。世界を創生した神話は数多く、風景を変えてしまった御伽噺もそう珍しくない。ならば、街の形そのものを自在に変える人間はなんだ。変えることを許された都市はなんだ。このシステムは一体、どんな目的のためにある?

 人間は試されているのか。この小さな世界がどんな形になるのか、実験されているのか。流石に考えすぎた。神でさえ時には間違えてなにかを滅ぼしてしまうというのに。

「欲望が現実と近いっていうのも、厄介だな。目的を達するための手段が、嫌でも物騒になっちまう。……けど、今は感謝しよう。誰かを護れる力っていうのは、格別だ。護る相手が美女なら、これ以上に言うこともない」

「ゼルさん、酔ってない?」

「美女に酔うのはいつものことだ。さあ、フレンジュ。口をしっかりと閉じておけ。生憎と、もう始まっているみたいだ」

「それって、どういう――」


 ――世界が傾いた。


 唐突にビルが悲鳴を上げた。

「えっ?」

 フレンジュがポカンと口を半開きにする。ビルの屋上が崩れ、重力の腕になにもかも掴まれる。瓦礫も空の食器も、人間も。

 ビル自体が倒壊したのだ。

 悲鳴さえも粉塵と暗闇の向こうに飲み込まれる。

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