第八章 ①


 ゼルはテーブルに肘をついたまま両腕を組んだ。神への祈りか、指先に力を込めていないと考えが纏まってくれないのか。

 息を吸う。細く長く、肺の隅々まで新鮮な空気を満たすために。緊張か、不安か。それとも、焦燥か。胸を焦がす痛みと苦しみが真綿で首を絞めるかのよう。

 どこから話すべきか。

 ゼルはフレンジュを見詰めた。

 フレンジュはただ待っている。

 だから、ゼルは唇を動かせた。

「《九音の鐘》がどんな組織なのか当然、フレンジュは知っているだろう?」

 フレンジュが小さく頷く。

「騎士団の少数精鋭。都市を護るために構成された特殊部隊。正義と人道を護るために戦う者達のことですよね」

「極上の皮肉だな」

「ええ、そうですね」

 実態は、そう生温くなかった。

「必要なら暗殺、誘拐、奇襲、ともかく邪魔な連中を潰すための殺人集団。化け物の巣だ。裏の世界で法を正す連中だ。……レインもダルメルも《九音の鐘》の真実を知っている者は誰もいない。そして、俺が四年前まで所属していた組織だ。ただ、不思議なのは組織を抜けるときに俺が〝落としどころ〟を定めた、その一点だ。今頃になって殺される覚えがない。フレンジュは、誰の差し金で動いている?」

「ゼルさんは、バグル・コレンスターレという名前をご存じですか? 今の《九音の鐘》を率いる隊長です」

「……懐かしい名前だな。なんだ、あのオッサンが隊長になったのかよ。元気なのか? もう顔も想い出せない」

「元気ですよ。元気すぎて、困るくらいに。随分とコレンスターレ隊長と仲が良いみたいですが、なにがあったんですか?」

「それを語るには、一晩あっても足りねえな。で、フレンジュは見事に俺の暗殺を失敗したわけだが、これからどうする? 生憎と、向こうは仕事に失敗した奴を生かしておくほど甘くはねえぞ」

 脅しではなかった。精鋭部隊だからこそ、失敗は許されない。仕事もろくに出来ない無能を生かすほど《九音の鐘》は甘い組織ではないのだ。

 フレンジュが、やっと紅茶を飲んだ。カップを持つ指はかすかに震えている。表情も、蒼褪めていた。

「覚悟は出来ています」

「いや、嘘だな」

 フレンジュが、ゼルは睨み付けた。しかし、すぐに目を見張る。

「死ぬ覚悟なんざ、そう簡単に纏まるわけねえだろうが。フレンジュ、お前は死を怖がっている。逃げられるものなら逃げたい。違うか?」

「私だって、逃げられるものなら逃げたいわよ。けど、駄目、駄目よ。あの組織がどれだけ非情なのか誰よりも詳しく知っている。連中は人間の皮を被った機械よ。障害と認定すれば、どんな手段を使っても排除しようとする。私なんか、ボロキレみたいに捨てられるだけ!」

 段々と、フレンジュの声は速さを増す。恐怖が腹の芯に染みていく証拠だった。

 だから、ゼルは極めてゆっくりと唇を動かす。はっきりと伝えるために、想いを届かせるために。 

「そんなこと、俺がさせるものか」

 フレンジュが身をすくめた。

「これは、俺の責任だ。俺がフレンジュを巻き込んだんだ。なら、俺がなんとかしないといけない。自分で戦い、自分でケジメをつけ、自分で終わらせる。お前が背負う荷物なんて、どこにもないよ」

 手前で尻も拭けぬようでは、男の名折れだ。

 フレンジュが辛そうに顔を伏せてしまう。

「罪悪感だというのなら、それこそ筋違いですよゼルさん。私だって、組織の一員として仕事を受けたんです。私が仕事を受けていなければ、あなたにこんな迷惑をかける必要なんてなかった」

「いや、違う。たとえフレンジュが仕事を受けずとも、別の奴が俺を殺しに来たはずだ。いつかは、戦わないといけなかったんだ。たまたま貧乏くじを引いただけだよ。なにも心配はいらない。俺が強いことは、フレンジュも知っているだろう? 俺が、君を護ってみせる」

「だからって、卑怯ですよ。私ばかり護られるなんて。あなたは、なにも得られないじゃないですか」

「今の生活が続けられるなら、それでいい」

 嘘ではない。少なくとも、昔のように生きるよりも百億倍はマシだ。だからこそ、最初から決めていたのだから。

「俺は、最初からフレンジュが怪しいって分かっていたよ」

 フレンジュが喉奥を詰まらせる。嘘がバレていたことへの驚きか。それとも、もっと深く浅ましい理由か。

「狙われているのに祭りに出かけるのは危険だし、オデイル達に追われたときも君は常人以上の体力で走り続けた。それに、銀行領は脅しなんてまどろっこしいことはしない。邪魔だと判断すれば、容赦なく殺す。……なにより」

 ゼルは後ろ髪を掻いた。こればっかりは、自信満々に言えるからだ。

「俺の所に、都合良く美女が仕事の依頼に来るなんて話が上手すぎるからな」

「……もう少し、自分を信じるべきだったんじゃないんですか?」

「そこまで楽観主義じゃないよ。ともかく、だ。俺は俺の判断でここまで来たんだ。だから、ここからどうするかも好きに決めさせてくれよ」

 フレンジュが、言葉を失う。痛みに耐えるように、下唇を噛んだ。目を伏せ、小さく首を横に振る。

「フレンジュ、なんで」

「私は知っているんです」

 ゼルは、目をしばたかせた。

 フレンジュの胸に巣食うのは、後悔、罪悪感、そして、

「私、あなたがどうして組織を抜けることになったのか、知っているんです」

 嫉妬だった。

 ゼルの顔から、表情が抜け落ちていく。頭の奥で、なにか壊れる音がした。これまで必死に紡ぎあげてきたモノが切り刻まれる音がした。

 フレンジュが、おもむろに立ち上がった。

「やっぱり、私は組織に戻ります。……少しの間だけでしたけど、楽しかったです。こんなこと言うの、きっと変ですよね」

 そうして、フレンジュがリビングを出ようとして、

「待て!」

 ゼルがフレンジュの腕を掴んだ。

「離して、離してください」

「いや、駄目だ。君が知っていることを話してくれ。俺が組織を抜けた理由を、誰が喋ったんだ? どんな風に言ったんだ? 全部、教えてくれ」

「ゼルさん、私は」

「話せ!!」

 ゼルの怒気に、フレンジュが顔を強張らせた。対照的に、ゼルの顔からみるみるうちに血の気が引いていく。

 ゼルの手から、力が抜け落ちた。

「……すまない」

 フレンジュが、ゼルに掴まれた腕を反対の手で掴んだ。固く目を閉じ、なにかに怯えるように身を震わせる。

「私の方こそ、ごめんなさい」

 謝らないでほしかった。罵倒された方が、まだマシだった。

「フレンジュ。時間をくれないか。今日一日だけ待ってほしい。二人が納得出来る答えを出したい。そうじゃねえと、絶対に後悔する。それこそ、この世全ての黄金を得ても一生笑えないくらいに」

 ゼルの言葉に、フレンジュが小さく頷いた。

「難しい、ですね」

「そうだな。すごく、難しい」

 ずっと先送りにしてきた問題が今、ゼルの足元まで近付いた。這いずる恐怖、這い上がる焦燥、なによりも胸を突き刺す痛みは己自身への怒りだ。腹の底で、溶岩のごとく激情が泡立っていく。

「フレンジュ。頼むから、どこにも行かないでくれ。必ず答えを出す。だから、早まった真似はしてくれるな」

「……分かりました。夕飯の準備でもして待っています」

「ちなみに、メニューは決まっているのか?」

「それは、見てからのお楽しみです」

 こんな時間〝だけ〟なら、歓迎なのに。

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