第一章 ③
女性は、フレンジュ・マシュクールと名乗った。
ゼルは三度も場所を変えようと訴えたものの、全て却下される。結果、ダルメルの店の二階にある商談用の応接間を借りることとなった。
ソファに座るゼル、丸いテーブルを挟んで対面のソファに座るフレンジュ。
鼻孔に届いたのは、安っぽいが甘く落ち着く香りだった。
「ここは本来、一千万ラルド以上の買い物をした客しかいれない場所なんじゃからな。まったく、お前さんも変わり者じゃのう。まさか、こんな男を探すために今の今まで街中を探していたとはの」
ダルメルがミルクと砂糖をたっぷりと入れた温めの紅茶を用意してくれた。ゼルと、フレンジュの分だ。
「俺の客なんだから、オヤッさんは寝てていいぜ」
「この店で強姦事件でも起こされたらたまったもんじゃないからな。ワシにはお前を見張る権利と義務がある」
ダルメルがどこからか引っ張り出した椅子に座り、やや離れた位置からゼル達を眺めていた。
「医者じゃなくて変態芸術家向けの老人突然変死事件でも起こしてやろうか」
「ほう、面白い。ひよっこがどこまで強がれるか楽しみじゃのう」
両者の殺伐とした空気に、フレンジュが待ったをかけた。
「あの、私の話を聞いてほしいのですが」
「はい、聞きましょう。あなたの美しい声なら、ガルグルの悪魔教連中が持つ暗黒聖書を説いても天使の歌声に違いありません」
とうに酔いなど覚めている。だから、これは全てゼルの性格の標準範囲内だった。
フレンジュが目を丸くする。ゴミを漁る鴉が急に人語を使ったとしても、まだ冷静でいられるだろう。
美女が困った顔で視線を泳がせる。ややあって、決心したのかゆっくりと形の良い唇を動かす。
「クランベルさんは」
「んーんーんー」
ゼルが大根にだって負けるつたない演技で言外に訴える。フレンジュが一度口を閉じ、小さく息を吸い直す。
「ゼルさんは」
後半二文字がいらないと、さらに咳払いしようとするもダルメルがゼルの膝を叩いた。いや、殴った。
「話が進まん。こんな時間に来たということは余程に急用なのじゃろう。まずは要件を聞け」
ダルメルが、フレンジュの訴えたいことの半分を代弁した。多少冷静さを取り戻したゼルが、何事もなかったかのように紅茶を一口飲む。
フレンジュが、やっと本題をテーブルに転がす。
「ゼルさんは、明日から始まるお祭りを知っていますか?」
「勿論。帝国が新大陸〝オールフラット〟を試験都市として運用することを国連議会で決定させた記念日ですね。それも今年は五十周年。特別に盛大な祭りになると、新聞やラジオで話題が持ち切りですよ」
都市全土を巻き込む大祭りだ。それも三日間も続く。とくに最終日の夜におこなわれる打ち上げ花火は、帝国七大美景に数えられるほどだ。
「ゼルさんは、誰かと出かける予定があるのですか?」
「いえ、残念ながら。野郎一人が浮かれた場所に行っても、それ以上に浮くだけですよ。オヤッさんと酒でも飲む予定です」
ちょうど、さっきも話題に上がった。『お前さん、祭りはどうするんじゃ?』『騒がしいのは嫌いだから、せめて高いブランデーを用意する』といった具合に。
「お願いしたいのは、私の護衛なんです。けれど、予定が先にあるなんて」
「いえ、あなたの隣が俺の死に場所です」
ゼルが自分の顔を親指で差した。
「たとえ親兄弟親友が危篤だとしても、俺の全てをあなたのために優先しましょう。ご安心を、フレンジュ。たとえ騎士団が相手だろうとも、あなたには指一本触れさせませがふん!?」
ゼルが咳き込む。ダルメルが脇腹を殴ったからだ。日頃重たい商品を取り扱っているだけあって、老人の拳骨は硬い。
「おい、馬鹿爺。あの世に行きたいなら遠慮すんな。グルマリ川のスッポンの餌にしてやるよ」
「馬鹿はお前じゃ馬鹿! 護衛ってことは、誰かに狙われる可能性があるってことじゃろう。フレンジュさんといったな。ヌシは、誰かに恨みを買うようなことをしたのか? それとも逆恨みか? あるいは私怨か?」
「いえ。女一人では怖いので、男性の方がいると心強いんです」
「だったら、知り合いとか仕事仲間とか、もっとマシな奴を探すことじゃ。悪いことは言わん。こいつは頭の天辺から爪先まで腐った女好きじゃぞ。孕まされる前に逃げることじゃ」
ダルメルの必死な形相に、フレンジュは首を横に振る。
「それが、想い当たる全員に声をかけたのですが、断られてしまいまして。ですから、ゼルさんが最後なんです」
「だからってコイツが隣にいたら祭りなんぞ楽しめんぞ。どんな天国だって、コイツが隣にいたら地獄の一丁目じゃじゃじゃじゃじゃ!?」
ゼルがダルメルを押し退け、フレンジュへと身を乗り出した。
美女が、小さな悲鳴を上げる。
「俺でよければ、地獄の最下層さえもピクニック気分でご案内します。だだだだだだだだっだだだだ!? この糞爺、耳引っ張んじゃねえぞ! 手前の股間引っ張ってちょうちょ結びにしてやろうか!」
「頭冷やせ馬鹿者!」
ダルメルがゼルの耳を引っ張ったまま立ち上がり、強制的に壁際まで移動させられる。
「どう考えてもおかしいじゃろう」
「なにがだ?」
「こんな時間まで祭りに行きたいからと護衛を探すなんざ、訳ありに決まっている。それにたんなる護衛なら、他にも似たような商売をしている連中がいるじゃろう。悪いことは言わん。断れ」
「嫌だ」
「ちょっとは考えろ!」
「俺の脳内で百人の俺が百度会議を繰り返したが、結果は同じだった。俺は、仕事を受ける」
脳内、百人のゼルが万歳三唱していた。紙吹雪が舞い、喇叭が鳴り止まない。一足早くお祭りだった。
ゼルはテーブルを退かし、フレンジュの前で片膝を折った。それはまるで、姫に忠誠を誓う騎士のごとく。
「俺に任せてください。あなたに安全で有意義な時間を約束します」
依頼したはずのフレンジュの方が事態についていけず、ポカンと口を半開きにしたのだった。
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