第弐章 幽霊列車の謎

第6話 普通の幸せ

 それは私がまだ六歳か七歳の頃。沖さんと会った少し後の出来事。


「ねえねえ、お父様、あそこにいる小さい人はだぁれ?」


 私が庭でまりをついて遊んでいると、大きなふきの葉の下に、緑色の服を着た小さな男の人が見えた。


 この頃、私は生身の人間とそれ以外の人間の区別がついていなかった。


 近所の駄菓子屋に居座る小さな赤い着物の少女も、街頭の下にいる黒くて背の高いヒトも、白いポワポワした浮遊体も、みんな私以外にも見えていると思っていた。


 だけど私がそういった「人ならざる者」について話すと、お父様は決まって顔をしかめた。


「何言ってるんだ、千代。そんな所には誰もいないぞ」


「えっ、居るよ。ちゃんと見て! ほら、あそこ――」


 私がお父様の着物を引っ張り、なおも庭先を指さしていると、父親は私の手を思い切り叩いた。


「いい加減にしなさい!」


 私がビックリして目を見開くと、父親は嫌悪感と恐怖感の入り交じった顔で、私を蔑むように見つめた。


「そんな所には誰も居やしない。嘘をつくのはやめるんだ!」


「私、嘘なんて――」


 お父様に信じてもらおうと、必死で食い下がる私に、お父様はピシャリと言った。


「もう二度と、そんな嘘は言ってはいけない。さもないと、お前の母親みたいになってしまうぞ」


 その夜、私はお父様とお義母さんが話している会話を、ふすま越しに聞いてしまった。


「あの子ときたら、あの子の母親とまるで同じだ。居やしないものを居ると言ったり、無いものを見えると言ったり――」


 嘆くお父様に、再婚したばかりのお義母様が寄り添うようにして座る。


「一種の神経症なんじゃないかしら。遺伝するんでしょ、そういうのって」


「だとしたら、千代も母親のように心を病んで……あんな風になってしまうのだろうか。参ったな。これ以上我が家名を汚すような事があっては困るというのに」


 深く肩を落とすお父様を、お義母様は優しい口調で慰める。


「大丈夫。いざとなったら、病院に入れてしまえばいいのよ。圧力をかけて、一生出てこれないようにすれば、誰にも見つからないわ」


 クスクスと笑うお義母様の真っ赤な唇が、目に焼き付いて離れない。


 背中が恐怖で凍る。


 嫌だ。病院に入れられるだなんて。一生出てこられないだなんて。


 その夜、私は一人布団の中で考えた。


 庭に「緑の人」を見た時の、あのお父様の反応。まるで穢らわしいものを見るような瞳だった。


 私は、これまでにも何度もお父様にあの目で見られたことがあったことを思い出した。


 今思うと、お母様が亡くなる前から、お父様はずっとそうだった。


 お父様は普段は優しかったけれど、「居やしないもの」について語るときだけは、酷く渋い顔をしていた。


 お義母様がこの家に来て、跡継ぎとなる弟が生まれて、それからお父様は変わってしまった。そう思っていた。


 だけど違った。お義母様が来る前から、お父様はずっと私の力を疎んでいたんだ。


 ということは――お父様があんな風になってしまったのは、お義母様のせいじゃなかったんだ。


 全ては私のせい。私のこの力のせいなんだ。


 私が「居やしないもの」を見るのが、普通の女の子じゃないのが、お父様は嫌なんだ。


 私はギュッと布団の端を握りしめた。


 普通にならなきゃ。


 お父様やお義母様に嫌われないように、普通の女の子にならなくちゃ。


 ***


 午後の教室の窓から見える空は、晴れ渡っていて、穏やかな日差し。


 だけど、私の心はどうしてこんなにも曇っているのだろう。


「はあ」


 私は読んでいた『少女倶楽部』を置くと、深いため息をついた。


 時刻は放課後、授業はとうに終わったけれど、教室内には噂話をしたり、手紙を書いたりするため教室に残っている生徒がたくさんいる。


 かくいう私も、今日はお華やお茶のお稽古も無いし、家には帰りたくないのでこうして時間を潰しているというわけ。


 卒業したらバラバラになってしまうし、こんな風にみんなとのんびり過ごせる時間ももう長くはない。


 せめてもの今を、のんびりと楽しみたいとは思うけれど

――。


 私は昨日の出来事を思い出し、再びため息をついた。


 あのあと、両親の気迫に押された私は、逆らえずにそのまま婚約を了承しちゃったけど……。


 どうしよう。狐に嫁入りだなんて。まるで昔話の世界じゃないの。


「千代さんっ」


 私が悩んでいると、ニコニコと手を振りながらカヨ子さんがやってくる。


「カヨ子さん」


 カヨ子さんは大きな瞳をくりくりと見開いて尋ねてくる。


「千代さんったら、一体どうしたの? ため息なんてついちゃって」


 どうしたのって言われても、色々あったのよ。話せない事が。


 私は一瞬言葉に詰まったけれど、とりあえず話せるところだけカヨ子さんに話すことにした。


「それが、実は結婚を申し込まれたんだけど……」


 おずおずと切り出すと、カヨ子さんはぱあっと顔を輝かせる。


「そうなの? 良かったじゃない。千代さん、結婚したかったんでしょ?」


 私はぽりぽりと頭をかいて横を向いた。


「うん。でもそれが、相手にちょっと問題があるというか」


 私が言葉に詰まっていると、カヨ子さんの顔が少し曇る。


「もしかして、凄く年上だとか? それとも物凄く豊満な方だとか、あっ、頭が薄いだとか?」


 家庭の都合で、四十も五十も年上の人に嫁がねばならなくなったという人の話はたまに聞く。


 カヨ子さんも、そういう相手を想像しているのだろう。だけれど、そうじゃないの。そうじゃないんだけど――。


「いえ、少し年上だけど、 外見はむしろ良い……かな」


 私は小声でカヨ子さんに話した。


 そう、沖さんは、外見はとっても美しい。麗しいと言ってもいいぐらい。こちらが困ってしまうぐらいに。


 私は沖さんの整った鼻筋や輪郭、蠱惑的な琥珀の瞳を思い出した。


 彼の外見は好きかも。だけど――。


「じゃあ、性格に問題があるの。暴力を振るうだとか、金遣いが荒いとか」


「いえ、そういう訳では」


 私が言葉を濁すと、カヨ子さんは呆れた顔をした。


「分かったわ、千代さん。あなた、本当は理想が高いんでしょう」


「えっ」


 カヨ子さんの思わぬ指摘に、背筋がビクリとなる。


「そうよ。だから、生半可な相手では満足できないんだわ」


 納得したようにうなずくカヨ子さん。


「ち、違うわよ、そんなんじゃなくて、ただ私は――普通の人と結婚したいの」


 普通の人と結婚して、普通のお嫁さんとして、普通の幸せを――。


 だけどカヨ子さんは渋い顔をした。


「あのねぇ、普通の人だなんて、この世にはいやしないわ。皆どこかしらに欠点はあるのよ」


「いや、そうじゃなくて」


 いくらカヨ子さん相手でも言えないよ。

 だって、信じてもらえるわけない。求婚してきた相手が、人間じゃないだなんて!

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