第一章 春の代行者 花葉雛菊 ⑨

「……なずな、春、見たことある」



 薺は、夢心地のままつぶやいた。


「見たこと、あった……お母さんと、あった」


 まるで、隠れていた宝石箱を見つけたような心地だ。


「……すっごい、小さい時にね、なずな、これをお母さんと見たんだよ」


 嬉しくて、嬉しくて、つい興奮気味に喋ってしまう。


「お家にきっと、アルバムあるよ。お父さんに、探してもらわなきゃ」


 もう母との新しい記憶は作れない。悲しいことだけだと思っていたのに。まだ嬉しいことがあった。何と素晴らしい発見なのだろうと薺は思う。


「ねえ、さくら、さくら」


 さくらの腕を掴んで揺らした。だが、さくらはすぐに返事をくれなかった。


「……少し、待て」


 やっと聞けた時には、声が震えていた。


「…………待て……お前のような者の為に……雛菊様は頑張ってきたんだ……」


 必死に泣くのを我慢しているような声だ。薺はそれを聞いて、驚いた。


「本当は、嫌なのに頑張ってきた……自分じゃない、他の誰かの為に、頑張ってきたんだ……」


 この大人は泣くのだと驚いた。そして、嗚呼と思った。


「いま、それが報われて……苦しい」



 春、とは。



「胸が苦しいんだ……」



 春という季節は、こんな風に。




「春が来て、お前が喜んでくれたのが嬉しい……」




 人の心の氷も解かして、雪解けさせてしまうものなのだと。



「……うん、なずな、嬉しいよ」 


 薺は自分の中にあった氷も、完全に解けた気がした。最初は仲が良くなれそうにないと思ったさくらが、急に近く感じられる。だから今までで一番穏やかな気持で話し続ける。


「でも、変だね。どうして、忘れてたのかな……赤ちゃんの頃だって、お母さんと……お父さんとの大事な思い出なのに、何で覚えていられないんだろう……」


 薺の言葉は、祈りのように春景色へ解けていく。


「いま、覚えていることも、忘れちゃうのかな……」


 もっとこの光景を目に焼き付けたいと薺は願った。

 桜色、綺麗な色、夢のような色。ビー玉や玩具の指輪ではこんな色はない。

 この色彩はきっと春だけのものだ。それを見ていると、なぜだか、感極まって。瞳の中にまるで海のように涙が溢れてきてしまう。これも春の効果なのかもしれない。


「お父さんに……見せて、あげたいなぁ……この景色……」


 瞬きすると、海が頬を滴り落ちていく。唇に入って、しょっぱくて、喉がぐっと鳴る。そしてまた別の涙の海が出来る。それの繰り返しだ。


 泣くということは、どうしてこんなにも胸が締め付けられて、自分も心も雨に濡れるようになってしまうのだろう。


 涙にさせる傘がないというのは、あんまりだ。


「ねえ、さくら……」


 薺は、いま見ているこの景色だけは忘れないようにしようとその時思った。


「……なずな、春のだいこうしゃさまになりたいな……」


 朝日のように全てを彩る優しさを、いま知った。


「お母さんのおはか、冬でも、とかしてあげられるし」


 ぽっかりと空いていた寂しさを、この時だけは埋めてもらえた。


「きっと、お父さんも、すごいねって褒めてくれるもん。なずなのこと、見てくれる」


 暖かくて、優しくて。『ずっと』ではないが永遠に寄り添ってくれるもの。

 それは春のような優しさ。まさに、いま目の前で起こっている奇跡が齎してくれている。



「ねえ、なれる……?」



 その無邪気な問いかけに、さくらは。



「…………無理だ。春の代行者様は、一つの国に、一人しか生まれない」



 きっぱりと、だが少し申し訳なさそうに言った。薺はがっかりした様子を見せる。


「だがお前は自分を誇れ……」


 さくらは、そんな薺を鼓舞するように続けて囁く。


「この十年ぶりの大和の春は、お前の為に雛菊様が授けたようなものだ」


 その言葉はきっと、一生、薺の耳に美しい音として残るだろう。




「誇りに思え。今は寂しくとも、お前は世界に愛されているぞ」




 たとえ孤独でも、福音は確かにそこにある。無償の愛とも言える季節は傍に居る。

 雛菊が舞を終え、深々と頭を下げた。




「お粗末、さま、で、御座い、ました。春は無事、此処に、います」




 竜宮での春の顕現はこうして幕を閉じた。

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