第一章 春の代行者 花葉雛菊 ⑧
その場所が、何処だったのかはわからない。
薺の頭の中には、もう霞がかってしまっていた。過去の風景だ。
恐らくはどの土地でもある、花見の名所を訪れた時の記憶なのだろう。
『混んでるね、座れるかなあ』
赤ん坊の彼女の視界には、きらきらした世界が映っていた。周りにたくさんの大人が居るが、誰が誰かもわからない。屋台がずらりと並び、人々の笑い声が満ち溢れ、鳥達が上空を飛び交っている。不安定な視界に、一番多く映るのは母親と父親だ。
『赤ん坊に見せてもわからないんじゃないかな』
『こういうのは体験だから、そういうこと言わないで。ねえ、なずなちゃん』
その人達は薺にとって毎日自分に語りかけてくれる存在で、不安になれば体温と甘い声をくれる守護者だった。
『よし、なずなちゃん、こっちにおいで』
薺はしばらくしてベビーカーから母親の腕の中に移された。目隠しがなくなり、たくさんの人が桜並木を歩いている様子が先程より良く見える。
『ほぅら』
閉ざされた世界では体験出来ない、色鮮やかな景色が視界に広がった。いつもは外に出るとむずがる薺も、その日は気分が高揚していた。
桜の花びらを掴まえようと、小さな手を伸ばす。
手は空を切ったが、花びらを捕まえられなくても楽しかった。
『見て、喜んでる。花びらが欲しいんだよ。とらせてあげよう』
すると母親が舞い散る桜の花びらの中、薺を高く掲げた。薺の瞳には青い空と、白い雲、薄桃色の花弁が夢のように映る。なんて美しいのだろう。
『ふふ、ねえ、笑ってるよ』
こみ上げてくるこの感情の名前がわからずとも、薺の心には強く刻まれた。これは何と素晴らしいのだろうと、気分が高揚する。眼下に広がる世界は色鮮やかで、希望に満ち溢れていて、薺は嬉しくて嬉しくて、笑い声を上げる。取り合うように、次に父に抱かれた。
母よりも少し乱暴な高い高いの後に、甘い香りのする母が顔を覗き込んで言った。
『なずなちゃん』
名前を呼ぶ。
『なずなちゃん、見て、春だよ』
もう失われた声で薺の名前を呼ぶ。これが春だと、我が子に教える。
新しい命に色んなことを覚えさせたかったのだろう。
その時、家族の未来は守られていて、傷つくことなどあるはずがなかったのだ。
「薺、お父さんの言うことをよく聞いて。お母さんが……帰ってきたよ。お仕事の途中で帰ってきた。けど……帰る途中の道で大変なことが起きて、それで……眠っている。ずっと、これから、ずっと、起きない。もう、な、お父さんも、顔も見られないうちに、眠ってしまってな。だから、これからは……これからは……」
あの時、家族の未来は輝いていて、傷つくことなどあるはずなかったのに 。
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