第一章 春の代行者 花葉雛菊 ①

 少女の姿をした春の神様が、窓の外を眺めている。



 世にも珍しい黄水晶の瞳に映るのは、曇天が晴れたのちの青い空と、白の大地。

 世は冬。やわらかな朝のひかりが、『大和』と呼ばれる国すべてを照らしていた。

 銀色の雪に覆われた山々を、朝が優しく包み込んでいる。


「……」


 ほう、と彼女の唇から感嘆の吐息が漏れた。

 冬の神が齎したこの季節は春に比べて色彩を欠くが、美しい。

 だが、人々に与えるのは目に見える美しさだけではない。


 冬は死の季節。食料は乏しくなり、日照は減り、寒さが体を蝕む。

 だが、冬なくして大地は休まらず、やがて枯れてしまう。


 季節とは必然だ。大地に住まう人々の人生を彩る季節というものは、自然発生するものではない。現代の現人神によって行われている神技。それこそが四季というもの。


 繰り返し、繰り返し続いていく毎日が、大いなる奇跡と犠牲によって作られていることは深く知られていない。人々は無情にもその恩恵を日常へと溶かしていく。


 明日が来なければいいと願う人の上にも。

 明日が来ることを祈っている人の元にも。


 神代に大いなる存在と契約した人間達の手によって、等しく四季は降り注ぐ。

 古より、そう決まっている。




「いよいよ、到着します。雛菊様」




 焦がれるように、恋するように、少女雛菊は銀世界に見惚れていた。

 車窓からの風景は色を失ったような雪景色で、この世界の者達からすれば代わり映えしない日常風景だ。もうかれこれ数ヶ月、世界は冬という厳しくも寂しい季節に抱かれていた。

 これが日常となっている者達からすると、見るべきものなどはないように思えるが、彼女は虜になっている。外の世界が珍しいのか、冬という季節の象徴たる雪が好きなのか。

 どちらかは不明だったが、声掛けに反応出来ないほど瞳も心も奪われていた。

 ほう、とまた吐息が漏れる。


「雛菊様」


 雛菊は再度呼ばれた。声音にはたしなめるような響きがあった。雛菊はようやく意識を現実へと引き戻し声の主へ顔をむける。

 するとその時、大きく列車が揺れた。雛菊の身体は毬のように跳ねた。

 すかさず、彼女の身体は細い腕に支えられた。隣で従者然としていた娘が助けたのだ。


「ご無事ですか」


 咄嗟のことで従者も驚いたのか、猫のような瞳が更に見開かれている。

 花唇、花瞼、花顔。三拍子の美少女だ。

 市松模様の髪飾りで総髪に結い上げられている黒髪は夜に咲く桜。

 漆黒から灰桜へと段階を経て染め上げられ、螺旋を描いている。


 彼女は雛菊に怪我など無いとわかると『失礼しました』と、手を離した。

 スーツジャケットに光沢のある蘇芳のネクタイ、桃花色のベスト、下は七分丈の袴パンツに編み上げブーツを合わせた姿は現代の侍女と言えた。腰に下げられた刀は彼女の凛とした美しさと同じくらい人目を引く。


「……」


 雛菊の方が離れゆくその手を自らの手で絡め取った。そしてじっと娘を見る。

 けしてわたしを離さないで欲しい、という気持ちが言わずとも溢れていた。

 従者の娘は孔雀の羽根のような長い睫毛を驚いたように瞬かせる。


「まだ揺れますので、お気をつけ下さい」


 それから唇に微笑を浮かべた。親愛に、親愛を返すが如く、その手をぎゅっと握る。

 お互いの体温がじんわりと交ざりあった。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。海沿いを走るローカル列車は娘二人を優しく揺らす。


「ねえ……きれい、だ、ね」


 雛菊は、またちらりと視線を外に向けた。


「雛菊、は、ふゆ、が、好き」


 舌っ足らずな、それでいて透き通った砂糖菓子のような声。

 特徴的な、途切れ途切れの話し方は、初見で聞けば眉をひそめてしまう者も居るだろう。


「そうでしょうか。自分は春のほうが綺麗かと」


 返事を受け答える方の声は、響きが美しく、良く通る。


「……さくら、冬、嫌い、だもん、ね」

「大嫌いです」


 従者、さくらは今にも舌打ちしそうな顔で言った。


「自分にとっては……忌むべきものです」


 その言葉には、隠しきれないほどの怒りが含まれていた。


「それ、は……」


 雛菊はさくらの言葉に眉を下げた。


「雛菊の、せい、だから、だ、よ……」

「違います、冬のせいです。御身のせいではありません」

「ちがう、よ……雛菊の、せい、だよ……」


 さくらは複雑そうな顔で『貴方は悪くない』とつぶやく。

 話題を変えるように雛菊が言った。


「…………今日から、復帰……これから、冬の、御方に、会う、こと、ある、かな?」

「四季庁が『春帰還』の触れを出したいま、いずれは接触することになるでしょう」

「雛菊、いつ、冬の……狼星、さま、に、あやまり、に、いく……?」

「どうして雛菊様が……? 冬が謝罪に来るならわかりますが」

「……だって、雛菊は……ちがう、し、狼星、さま、は……でも……」

「貴方様は、花葉雛菊様です。この国の春の代行者です」

「そう、だけど……狼星、さま、は、きっと、がっかり、する、と、思う、の……。がっかり、の、気持ち、にごめん、ね……」

「……それはもう終わった話でしょう。貴方が良いと、千回でも言いましょうか」


 さくらは切なげに囁き、より一層ぎゅっと雛菊の手を握った。すると、雛菊も同じくらい強く握り返す。二人の会話は他者には理解不能で、どこか誰も入り込めないような濃密な空気があった。雛菊は何か不安なことがあるのか、袴の下から覗くブーツに包まれた小さな足をバタバタと動かす。そして、ぽつりとつぶやいた。


「……今日の儀式、成功、する、かな?」


 自信のなさが表れている言葉だ。それを察してか、さくらは静かに断言した。


「します。必ずします。自分がお約束します」


 胸元に片手をあてて、毅然とした態度で言われるその返事に雛菊は眉をひそめる。


「…………やるの、雛菊、なのに?」


 責めるような、しかしどこか甘えている口調の雛菊に、さくらは艶のある笑顔を見せた。


「御身は……」


 さくらは、黒髪の隙間から雛菊の黄水晶の瞳をまっすぐと見つめる。

 雛菊もまた、そのまなざしを受け止める。


「御身は、さくらを手放さない為なら何でもして下さるのでしょう? そう、お約束された」


 まるで、口説き文句のような台詞だ。

 それに対して、雛菊は笑いもせず、怒りもせず、ただ淡々と、当然の如く返した。


「するよ。さくらを手放さない為なら、何でも、する。春も、咲かす。雪も、解かすよ」


 春の代行者と呼ばれる少女。そしてその下僕たる娘。


「言いましたね」

「いった……」


 背格好の違う娘同士の主従関係。


「では自分は、御身が務めを果たす為ならば……この身を犠牲にすることもいといません」

「そこ、は、いとわ、なきゃ、だめ」


 春の花の名前を冠した二人の少女。


「御身のご命令とあれば、努めましょう」

「つとめ、て、くだ、さい」

「……はい、我が主のお望みのままに」


 ちょっとへんてこな二人は、ローカル列車が駅に到着すると、揃って立ち上がり、雪景色の大地に足を踏み入れた。

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