星の瞬きのように

まっく

星の瞬きのように

 大好きな本たちを暗い場所に閉じ込めてしまうのは、大いに気が引けるが、読み返す可能性のある数冊の本と、現在読んでいる途中の本を除いて、段ボール箱の中に詰め込んだ。


 約二か月後の、まだ正式には決まっていない引っ越しに向けて、少しずつ荷物の整理をする。希望と不安を綯交ないまぜにした、彼との新生活に向けて。


 窓から外に目をやると、まばらな星たちが汚された夜空で、それでも懸命に輝きを放っていた。


 昨日、行成ゆきなりは、カトマンズに向けて出発していた。カンチェンジュンガ登頂を人生最後の本格的な登山の舞台にする為に。


 日本との時差は三時間程度のはずだったから、向こうは星が見え始めた頃かもしれない。ここの星空とは比べ物にならないくらい綺麗なんだろうなと想像する。

 電気ケトルがお湯を沸かし終えて、カチッと音をさせる。カップに入れた桃のフレーバーの紅茶のティーバッグにお湯を注ぐ。

 ここでタイミングよく星空の写真でも送ってくれれば、紅茶の味も一段と増すのだが、行成はそんな気の効いた男ではない。


 スマートフォンが軽く身震いをする。

 行成から写真が送られてきた。

 まさかと思い、開いてみると、カツ丼の写真だった。カトマンズの日本食レストランで食事中だそう。


 まあ、そんな男だ。


 行成は、登山をやめる決意をしていた。

 そして、大学の大先輩が営む山岳ショップでの仕事と、ゆくゆくはその店を引き継ぐことまで決めてきてしまった。


 行成は出発前、「必ず帰ってくる」と言って、私をぎゅっと抱き締める。

 その儀式が行われると、それが必ず実現する結果だと知っている気持ちになった。

 過去に一度だけ、胸にもやもやが渦巻いた時があった。その時は大怪我をして帰ってきたが、後にも先にも、そんな事は一度だけ。

 今回も胸はすっきりと晴れ渡っている。大丈夫だ。

 それから「帰ってきたら、プロポーズするから」と続けたので、少し驚いてしまった。どうして、それを言葉にしてしまうのかと。

 そんなわけで、現在、絶賛プロポーズ予約中。またはプロポーズ待機状態。もしくは恋人と婚約者の狭間。


 付き合い出して十三年。私としては、特に結婚にこだわりはなかったし、結婚するにしても、両親も既に他界し、誰に反対されるわけでもない。

 親の遺産も少なからずあり、普通に働けている私としては、別に登山を続けてもらっても構わなかった。

 資金を貯める為に働いて、冒険に出る少年のような顔で世界の山に旅立って行く。

 そんな行成を好きになったのだから。


 二人とも四十歳が目前に迫り、行成としても色々と思うところがあったのだろう。人生の岐路に立たされる年齢でもある。


 でも、例えどちらの道を選んだとしても、私は行成の決断を尊重したと思う。



 行成が日本を出発して、一か月が過ぎた。

 カンチェンジュンガだったら、そろそろ頂上にアタックする頃なのかもしれない。

 行成とシェルパの二人きりで、過去に二度チャレンジして失敗に終わっている。今回も同じシェルパと二人でのチャレンジだが、他国の大きな隊の頂上アタックと日程を合わすように登っているので、今までよりもチャンスは大きいと、目を輝かせていた。


 そんな中でも私の日常は、ほぼ変わらない。気ままな荷物整理と、夜、星空に行成の無事を祈る行程が増えたくらいのものだ。

 その日も、それからベッドに座り、本を少し読み進めてから眠りに就いた。



 私は真っ白な世界にいた。

 空も地面も辺りを見回しても、全てが白。音もない。

 歩き出してみても、進んでいる感覚がなかった。


 しばらくすると、私の横を何かが追い越していった。ここにきて、初めて色に出会った。行成だった。


「行成、待って!」


 声が音にならない。

 行成が遠ざかっていく。


 私は慌てて駆け出すが、後ろに向かって走ってしまっているかのように、行成は急速に小さくなっていく。


 そして、また視界は白一色になった。



 目を覚ますと、汗がびっしょりだった。時計は、本を閉じた時から、少ししか進んでいない。

 仕方がないので、新しいパジャマに着替えて、もう一度ベッドに入る。なかなか寝付けなかったが、気が付くと朝になっていた。今度は夢も見ずに眠っていたようだった。


 その朝は出掛ける準備が、なかなか捗らなかった。こんな事は初めてだった。


 それは、電話ばかりが気になっていたからだった。


 願いに反して、電話が鳴る。


 出なくても、どんな内容なのかは確信があった。そして、その通りの内容だった。


 これが虫の知らせというものかと、妙に冷静な自分がいることに、私は驚いた。


 行成は止めるシェルパを振り切って一人で頂上アタックに向かったっきり、行方不明になったという。遺体は見つかっていない。


 見つかっていない以上、生きていることを否定出来ないのかもしれないが、私には分かっていた。


 あの白い世界の出来事。

 それは、星の瞬きのように、生命を燃やし尽くす最後の煌めきだったのだと。

 そうやって、私の元まで一度戻って来てくれたのだと。




 一人きりの夕食。

 それは、いつもと同じはずなのに、味も歯応えもなく冷たい。まるでパウダースノーを食べているみたいだった。


 今となっては、行成が何故無理をして頂上アタックを敢行したのかは分からない。

 最後だからと焦っていたのかもしれない。


 一度だけ「必ず生きて帰ってくるという強い気持ちと同じくらい、山で死ねたら本望って気持ちもあるかもしれない」と言っていたのを思い出した。


 そして、その時ほど行成を強く強く愛おしいと思った事はなかった。


 そんな二人の想いが、最後に結実してしまったのかもしれないと思うと、涙が止まらなくなった。


 窓の向こう側には闇が広がっている。

 室内の照明によって、その窓の向こうの闇に薄ぼんやりと、部屋とソファーに座る私が映り込んで、もう一つの世界を作っている。


 手のひらを見て、もう一度、窓の向こうの闇に映り込んだ、もう一つの世界とを見比べると、あちら側のほうが現実なんじゃないかと思えてきた。


 ずっと見つめていると、窓を叩き壊したい衝動が抑えられそうにないので、急いで立ち上がりカーテンを閉め、熱いシャワーを浴びる為に、 風呂場へと向かった。

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