第30話 夜中の招かれざる来訪者

 十二月も半ばを過ぎたある夜、俺は玲愛とオセロをしていた。


「あー、だめ! やっぱ待って! 今のなし!」

「また? もう四回目だぞ? そんな顔してもダメ」

「だって茅野さんズルいんだもん!」

「ズルくはないだろ」


 案の定俺の圧勝で玲愛はご機嫌斜めだ。

 でも途中で投げ出さずに何度も挑んでくる態度だけは称賛に値する。

 年末のこの時期は仕事が忙しすぎて毎年うんざりしていたが、今年は心の中に余裕すらあった。

 恐らく玲愛がいるからなのだろう。


 仕事終わりの休息でリラックスできるし、この家のローン返済も頑張らなくちゃという気持ちにもなる。

 舞衣と結婚していたときも当然ローン返済はあったが、あの時とは気構えが違っていた。


 あの頃のローンはただただ重責だった。

 借金を返さなくちゃいけない、そんな気持ちだった。

 でもいまは違う。

 この家がなくなれば玲愛の行くところがなくなってしまう。

 そんな考えに変わっていた。


 ちょっと大袈裟だけど守るべきものが出来たという気分だ。

 調子に乗るだろうから玲愛には伝えないけど。


 ピンポーン


 インターフォンが鳴り、時計を見る。

 午後十時前。

 人が訊ねてくるには遅すぎる時間だ。

 本能的に嫌な予感がした。


「はい。どちら様ですか?」


 ドアフォンで応対すると粗い解像度のモニターに中年男性の姿が映った。

 画質が悪い上に暗いので誰だか分からなかった。


「夜更けに申し訳ない。安西です」

「ああ……どうも。ちょっと待ってください」


 安西。

 その名前を聞いて身体が固くなった。


 インターフォンを切り、玄関に向かう。


「誰?」


 俺の様子を見てただならぬものを感じたのか、玲愛も緊張した顔をしていた。


「元嫁の父親だ」


 答えると玲愛の顔が強張った。


「は? なにしに来たわけ?」

「さぁな」

「追い返しなよ、そんな人」

「そうもいかないだろ」


 本当は俺も追い返したかったが、モニター越しに見た彼の顔を見てそれも出来なかった。

 以前のような自信に満ちた高圧的な表情は消え、しょぼくれて精彩を欠いた顔だったからだ。


「なんでしょうか?」


 玄関を出てドアを閉める。

 十二月の夜の空気は凍っているかのように冷たく、さらに吹き付ける風で冷水をぶっかけられたような寒さだ。

 でも彼を家に入れるつもりはなかった。


「すまない。今さら陸くん、いや茅野さんに会わせる顔もないのは承知しているんだが」

「そういうのは結構ですので用件を伝えてください」


 情は挟まず事務的に応対する。


 この人にも色々と苦い思い出はある。

 はじめて結婚の挨拶に行った時はろくに目を合わせず、家にも上げてもらえずに追い返された。


 三度目でようやく結婚の許しを得られたが、そのときも渋々といった態度だったのを思い出す。


「君のように頼りなさそうな男に舞衣を任せるのは心配だが、まあ仕方ないな。娘が選んだ相手なのだから」


 この人もまさか自慢の娘が不貞を働き、俺に多大なる迷惑をかけるだなんてあのときは思ってもいなかったのだろう。


「実は舞衣のことなんだが……」


 舞衣の父は言い淀んだあと、ドラマのような仰々しい勢いで頭を下げた。


「許してやってくれないだろうか! この通りだ! 頼む!」


 娘のためなら恥も外聞もなく頭を下げられる。

 そんな父を演じているようにさえ見え、一気に気持ちが白けてしまった。

 舞衣が演技がかった態度をしていたのは、この父親の影響なのかもしれない。


「やめてください」

「君には本当にいくら謝っても謝り足りない。舞衣を見捨てないでやってくれないか」

「すいません。迷惑なんで本当にやめてください。離婚して俺とはもう本当になんの関係もないことなんで」


 顔を上げた彼はすがるような視線を向けてくる。

 なにがあったのかは知らないが、ただならぬ気配だ。

 相変わらず舞衣は回りの人に迷惑をかけ続けているんだな。

 そう感じただけだった。


 許すも許さないもない。

 もう俺の中ではすべて終わったことだった。


「それじゃ」

「待ってくれ! 舞衣がどうも良くないところで働いてるみたいなんだ」

「良くないところ?」

「はっきりとは分からないが、その、男なら分かるだろ? 夜の街というか、そういうところで働いてるみたいなんだ」

「えっ……」


 さすがにそれは衝撃的な話だった。

 口振りからしてキャバ嬢とかではなく、風俗的なところなのかもしれない。


 驚いたが心が動くようなことはもちろんなかった。

 自分とは関係のないニュースを聞いて驚いた程度の話だ。


「へぇ。それは大変ですね。じゃあ」

「待ってくれ。娘を、舞衣を助けてやってくれ」

「俺が? なんで?」

「なんでって……」

「俺たちは離婚しました。それもあなたの娘さんの不倫が原因で。慰謝料を請求しないだけ感謝して欲しいものです」

「一度は夫婦だった間柄だろ……」

「もし俺への慰謝料が払えなくて身を売る仕事をしてるというのなら、もう払わなくていいとか対応もあります。でもそうじゃない理由なのになぜ俺が動く必要がありますか?」


 至極全うなことを伝えただけだが、彼はひどく裏切られた表情を浮かべた。

 やはり表面的に謝っただけなのだろう。

 自分が頭を下げればなんとかなるとでも思っていたのだろうか?

 職場ではそれなりに偉いさんらしいからそれも通用するかもしれない。

 しかし離婚した夫にはなんの価値もない行為だ。


「お引き取りください。そして二度とここにこないでください」

「君しか舞衣を救える人はいないんだ」

「俺しかいない? 甘えないでください。あなたが助けてあげるんです。俺なんかに頭を下げる暇があったら、あなたが娘さんを助けてやればいいんです」

「もちろん私も色々と試してみた。しかしどうしようもないんだ」

「努力が足りないんですよ。結果が出るまで何度でも努力してください」


 彼はギリッと歯を食いしばり、背を丸めた姿勢のまま立ち去っていった。

 しっかりとその姿が消えたことを確認してから家に戻る。


「なにあれ? マジ信じらんない」

「聞いていたのか?」

「インターフォンのカメラオンにしてね。あの人、風俗で働いてるんだ。かわいそー」

「そうか? 別に自分で選んだんだからいいだろ」

「そうじゃなくて。お客さんになった人が可哀想だなって。あんな愛想悪くて最悪な女をお金払って相手にするとか罰ゲームじゃん」

「はは。そうかもな」


 元妻の成れの果てを聞いても胸が痛まなかった。

 ただただあんな人間に関わって人生を無駄にしたという思いだけが心に残っていた。


 そのとき、不意に玲愛が俺の手を握って来た。

 陰鬱な気持ちに陥りそうな俺を救い上げる天使のような、そんな感覚にさせられた。


「さ、オセロの続きしよ」

「お、そうだな」


 テーブルの上の盤面を見ると、あからさまに玲愛の黒が増えていた。

 しかも不自然に四つ角に黒が置かれている。


「おい、玲愛! 弄っただろ、これ!」

「は? なんにもしてないけど」

「嘘つけ! 確実に黒が増えてるだろ!」

「言いがかりー」

「この角なんて離れ小島みたいにポツンと置かれてるし! オセロのルール的にあり得ないだろ」

「気のせいだって! はい、茅野さんのターンだよ」


 にっこり微笑んで俺にコマを握らせてきた。

 嫌なことがあっても笑顔に変えてくる。

 玲愛は本当に愉快で優しい女の子だ。




 ────────────────────



 自分が頭を下げればみんなが動くと思い込んでる人っていますよね。

 で、そういう人って頭を下げるだけで結局何にもしない。

 自分をなにか偉いものだと思い込んでいるんでしょうね。


 ひとまず分かったのは、先日の間男の事故で同乗していたのはバカ嫁ではなかったということです。

 どうでもいいバカ嫁転落日記ももうしばらく続きます。


 最後に玲愛ちゃんメモ

 オセロが下手くそな玲愛ちゃんですが、将棋はもっと下手くそです。

 ジェンガも苦手。

 テーブルゲームは全般的に下手くそですが、やるのは好きなようです。



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