第20話 旅が終わって(SIDE耕平)
スマートフォンのバイブ音で目が覚めて、内容を確認してから耕平は、腕の中で寝息を立てている千波を揺り起こす。
「千波。伸行が、来たって」
「……完全に?」
「完全に」
「接岸?」
「接岸」
甘えるように耕平の胸元へ擦り寄って、寝起きの掠れた声で質問を繰り返す千波。後頭部を包むようにして髪を撫でてやれば、「もっと」とねだるように、耕平の背中へ回された細い腕に力がこもる。
前髪を掻き上げ白い額へ唇で触れると、顔が上向けられ、視線での要求。
「おはよ」
幸せそうに緩んだ口元へ、キスを落とす。
「うん。おはよ」
満足そうに、千波が笑った。
「朝飯用意するから、来いってさ」
「行くー。天気は?」
耕平はベッドボードへ手を伸ばし、リモコンを手に取りテレビを付ける。
天気予報をぼんやり眺める内に完全に目が覚めたらしき千波が、大きく一つ、伸びをした。
「この天気なら、行ける?」
「あぁ」
「クリオネ見られる?」
「無理だな」
「氷の上、歩ける?」
「無理だ。それをやりたいなら、知床まで行こうって」
「とりあえず流氷を確認しに、海へ行こう!」
「おう」
耕平の実家に四日間滞在して、札幌観光をしたのは先々週のこと。
自宅へ戻り、毎朝伸行から届けられる海の情報を確認することから一日が始まるようになって、一週間。変わらず二人は、ゆったりした時を生きている。
「耕平くんは、毎日この道を歩いて学校まで通ってたの?」
車の助手席で千波が、除雪された道路を眺めながら呟いた。
「雪がない時期は、自転車使ってた」
「冬は?」
「たまに爺ちゃんか母ちゃんが仕事のついでに車で送ってくれることもあったけど、基本歩きだったな。体育でスキーがあってさ」
「体育でスキーするの?」
「うん。スキー履いて通えないもんかと考えたことがあったんだけど、道路は除雪されてるから、無理なんだよな」
「スキー、私やったことない。泳ぐのは得意だけど」
「家のそばの海岸で泳いでたの?」
「そう。海開きすると、お兄ちゃんとか友達としょっちゅう泳ぎに行ってたな」
「男もいた?」
「お兄ちゃんの友達がいた」
「ふーん」
「あ、高校の時は男の友達もいた」
「俺も千波の水着姿、見る」
「今着るなら、ラッシュガードで完全防備になるね。こっちの夏ってどんな感じなの?」
「あー、海水浴場はあるにはあるけど、行かないし泳がないな。ここらだと、海は漁師のもんだから」
「なら、耕平くんってもしかして泳げない?」
「いや、一応泳げる」
「一応? 筋肉だから、沈みそう」
「沈まねぇよ」
車内を満たす、明るい笑い声。この場所にいる時の千波は、空気が緩む。
東京と神奈川での千波は、まるで鎧をまとっているかのようだった。
全身に力を込めて気を張って、千波は自分の棘で、己も傷を負う。
「すごい。海が凍ってる」
村の中心部を抜けて海まで行くと、千波が感嘆の声を漏らした。
伸行の家の敷地内に車を停め、耕平は浜辺へ降りる道に千波を誘導する。
「来たよって、声掛けなくていいの?」
「車で気付くだろ。今日は子どもたちが学校だから、バタついてるだろうし。足元、気を付けろよ」
「ん。ありがとう」
氷に波音を飲み込まれた海。
少しずつ移動する流氷を、千波は無言で見つめる。
耕平は、背中から包み込むようにして千波を抱き締めた。
「……知床、行こうかな。見るだけじゃなくて、歩いてみたい」
「知床で流氷なら、来月の半ばか終わりぐらいかな」
「酔うからやめようと思ったんだけど、船、やっぱり乗りたい」
「流氷堪能ツアー、するか?」
「うん。する」
聞き覚えのある男の声が、遠くのほうから二人を呼んだ。
振り返れば伸行がいて、危なげなく雪を踏みしめ歩み寄ってくる。
「どうだー、チナ。海やべえべや」
伸行の明るく人懐こい笑みに、千波が微笑みで応える。
「一晩でこんなに変わるんだね。びっくり。でもこうなると、伸行くんは仕事が困るのかな?」
海が凍っていては船が出せないだろう。千波の言葉に、伸行はのんびり笑う。
「流氷はさ、海を豊かにしてくれっから。海明けまでは陸での仕事をやるんさ」
「海明け?」
「春が来るのを待ってんだ。海明けの日、見に来いよ。今とはまた違う景色が見られっから」
「春かぁ。……楽しみだな」
青く輝いて見える流氷へ視線を注ぎながら、千波は心底楽しみだというように、表情を緩ませていた。
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