第17話 行きの道を辿る(SIDE千波)
言われた言葉を素直に受け止められるような心の清い人間であったのなら、千波はきっと、真冬の最北端へ向けて中古車で走り出すなどという真似はしなかったのではないかと思うのだ。
耕平のことは好きだ。そばにいると安心する。
彼のそばで生きられたのなら、千波の中の欠けていた場所が満たされる。そんな予感もしている。
だけど、一度落ち着かなければいけないと思った。
自分の日常へ戻り、自分のテリトリーへ帰り、盛り上がってふわふわしているこの気持ちを見つめ直すべきだ。
共に東京までついて来た耕平が、家族と過ごす千波を見て幻滅するならそれで構わない。
きっと、そうなる。
そうなったなら、千波は柔らかで温かい居場所を失うだけ。元に戻るだけだ。
そうなれば、森野耕平という有り得ないほどに優しい彼の人生を食い潰さずに済む。
それがきっと、良い結果。
「耕平くんは作家先生なのか!」
なのに――
「はい。時代小説を書いています。実は、少し前に映画化もしていただきまして」
「お! 知ってるぞ、その映画! すごいじゃないか! 有名な役者さんが出ていただろう」
「撮影現場の見学なんかもさせてもらっちゃって。これがその時の写真です」
「へぇ! 母さん、見てみろ!」
「あら本当。すごいのねぇ」
コミュ力の塊とはこうもすごい生き物なのかと、千波はこっそり、愕然とする。
「うちはみんな小説は読まないから知らなかったけど、俺の奥さんが耕平くんのこと知ってたみたいでさ。会いたいからこっち来るって」
「海晴さんの奥さん、雑誌の編集されてるんでしたっけ?」
「ファッション誌だけどね。本読むのも好きみたい」
兄の家で相談して、両親には千波が北海道へ向かった真実は酷過ぎるからと、隠し通すことが決まった。
千波は話したって構わないと言ったのだが、兄ががんとして譲らず、耕平も兄の意見に賛同した。
そうすると、千波はどうやって耕平と出会ったのかという謎が生まれるのだが――。
「車で一人旅に行ってガス欠なんてとんだマヌケな娘だが、こんないい男に助けられた挙げ句、惚れられるなんてなぁ。こんな鶏ガラの出涸らしみたいな娘の、何がいいんだか。耕平くんが物好きでよかったな、千波」
旅の目的から死を取って、いつもの千波の気まぐれだという話で両親は納得した。
「千波ちゃんの彼氏すごいね。さっき僕、人間アスレチックみたいにして遊んでもらったよ」
耕平は、千波の両親のみならず、甥っ子の心までもをガッチリつかんだようだ。
千波の無事を知らせるなら早いほうがいいだろうと、海晴の息子の帰宅を待ち、四人で海晴の運転する車に乗って平塚までやって来たのが夕方のこと。
事前に海晴が母に連絡していたため、問題なく千波は家に迎え入れられた。
「もう、千波ってば。写真撮ろうとしてスマホを崖下に落としたんですって? お母さん心配して、警察に探してくださいって届けを出しちゃったじゃない」
「日本一周するつもりだったから、家賃がもったいなくて家引き払ったって? 事前に何か言っとけ。このバカ娘!」
これらは全て、千波が語ったものではない。
耕平と海晴の連携により、事情説明の時に千波はしゃべらせてもらえなかった。男二人が、嘘の設定を両親に話して聞かせたのだ。
「千波」
一人で押し黙っている千波の手を取り、耕平が微笑む。
「本当に、私と結婚するつもりなの?」
「嫌なのか?」
「よく、引かないね」
「出会いの時点で、十分引いた」
「それは、そうでしょうがね」
玄関の呼び鈴が鳴り、海晴が玄関へと向かった。
千波の胃が、ずんと重たくなる。
「こんばんはー」
「いらっしゃい、
「大丈夫ですよ、お義母さん。それより、千波ちゃんが無事に見つかってよかったですね。北海道にいたんだって?」
最後の言葉は千波に向けられたものだ。
千波は作り笑いを顔に貼り付け、無難な答えを返す。
「唐突に、最北端に行ってみたくなって」
「本当千波ちゃんって変わってるわよね。そんな突拍子もない行動、私ならできないわー」
「
「まだでーす。頂いてもいいですか?」
台所にいる母に返事をしてから、兄嫁の視線が千波の隣に座る耕平へと向けられた。
値踏みするような視線。
彼女のこれが、千波は苦手だ。
「はじめまして。海晴の妻の、
懐から名刺ケースを取り出し、兄嫁は耕平に名刺を差し出した。
耕平も名刺は持ち歩いているようで、二人が名刺交換する様を、千波はぼんやり見守る。
「美しい心と書いて、ミコトさんですか。素敵なお名前ですね」
「名前負けしているようで恥ずかしいんですけどね。森野さんの作品、全てとまではいきませんが、何作か拝読しました。実はうちの雑誌で、若い男性作家の特集ページを組んだことがありまして。その時、取材依頼をさせていただいたんですが」
「ああ、覚えています。表に出るのは柄ではないので、お断りしましたが」
「あの時にも、勿体ないなと思っていたんですよ。森野さんの作品って、女性読者にもファンがいらっしゃるでしょう?」
仕事の話が始まったが、耕平には困った様子は見られない。会話も和やかに弾んでいる。
それなら千波がここにいる必要はないだろうと考え立ち上がろうとすれば、耕平の骨ばった長い指が、千波の左手にやんわり絡みつく。
「どこ行くんだ?」
「お母さん、手伝って来ようかなって。耕平くん、ビールもっと飲むでしょう?」
「千波、全く何も食ってないだろ」
「お腹減ってないの」
美心の視線も、千波へと向けられていた。兄嫁の視線にさらされるのは、ひどく居心地が悪い。
恐らく話の矛先は、このまま千波へと向くのだろう。
「一ヶ月以上も失踪してた千波ちゃんの、今後の予定は?」
「特に、何も」
「いいなー。ぼんやり生きて、思い付きで旅に出て、こんなに素敵な男性と出会って帰ってくるなんて。真面目に生きてるのがバカみたい」
「美心!」
「海晴だってそう思うでしょう? みんながどれだけ心配したか。ふらりと帰ってきて、旅先で出会った男性と結婚しますって、それってなんか違くない?」
美心の言葉に、父は「まあな」と同意して、母は気まずそうにしつつも黙って料理を運ぶ。
兄がその場をとりなそうとしているのを眺めながら千波は、正論だなと思った。
真面目に頑張っている人間からすれば、千波の生き方は腹が立つものらしいのは、知っている。
全ては千波の責任で、自業自得なのだということも、理解していた。
「何故、千波がぼんやり生きていると思うんですか?」
静かな笑みを浮かべた耕平の言葉で、居間が、水を打ったような静寂に包まれた。
「女性が一人、車中泊をしながら真冬の北海道を旅することがどれだけ過酷か。何の装備もなければ命を落とす環境です。ただの軽い思い付きでは、行けない場所ですよ」
流れるような動作で耕平が立ち上がり、立ったままでいた千波の手を握り直す。
「ご連絡するまで一月も空いてしまったのは、すみませんでした。北海道の過酷な冬を過ごした上で嫁に来るかを決めて欲しいと、引き止めたのは俺です。――今日はこの辺でお暇しますね。千波も、運転のしどおしで疲れているようなので」
有無を言わせぬ雰囲気で頭を下げて、千波を連れた耕平は、玄関へと向かった。
母と兄が慌てて追い掛けて来て、千波の名を呼ぶ。
「千波、あなた携帯は買ったの? すぐに北海道に行っちゃうつもりなの?」
「ホテルまで車で送るって。駅まで遠いし、電車で一本とはいえ、東京駅までは一時間以上かかるぞ」
耕平が立ち止まり、千波は、口を開く。
「携帯は買ってない。貯金、ほとんど残ってないから」
「なら、お母さんは千波と、どうやって連絡取ればいいの?」
「俺の携帯と、家の固定電話の番号をお教えします。今日はお暇しますが、またすぐに伺いますので」
母が自分のスマートフォンを取りに戻り、兄はその場にとどまった。
「すみません、海晴さん」
「いや。こっちこそごめん。美心には、後で事情を話しておくから」
「お兄ちゃん。いいよ、余計なことは言わないで。美心さんは正しいことを言っただけだし。……私、あの人には知られたくない」
母が戻って来たことで、会話が中断する。
耕平と連絡先の交換を終えた母は、いつでも帰ってきなさいと、千波に告げた。
せめて駅まで送ると海晴が言い張るから、耕平と千波は、海晴が運転する車の後部座席へと乗り込む。
「千波は、ロールプレイングゲームってやったことあるか?」
「あるよ、お兄ちゃんと子どもの頃に。突然どうしたの?」
唐突な言葉に困惑している千波へ視線を向け、耕平は言葉を続けた。
「最近のはわかんないけど、昔のRPGは、初期パラメーターはみんな一緒だろ? それぞれ自分の家で、同じキャラを操作して、同じ物語を進める」
「それで、仲間集めて魔王倒すんだよね? 懐かしい」
「家庭環境や体力とか、パラメーターの初期値が全部均一だったとしたら、千波はコツコツ努力しながら先へ進んで、最終的には魔王を倒すタイプだと思うんだ」
耕平の言わんとしていることに気付き、千波は笑う。
「現実の私は、中盤で頓挫してるけどね」
「その頓挫しそうになった中盤で、裏で進行していた隠しクエストをクリアして千波は、仲間を手に入れたんだ」
「それが、耕平くん?」
「そう」
「耕平くんのパラメーター、なんか高そう」
魔王も倒せちゃいそうと言いながら笑った千波の頭を己の肩へと導いて、耕平は、千波の頭へ頬を寄せた。
とても居心地が良くて、安心して、千波は目を閉じる。
「隠しクエストって何だろう? 日本の最北端到達?」
「あぁ。きっとそれだ」
穏やかな空気で言葉を交わす千波と耕平の様子を、運転席から海晴が、ルームミラー越しに見ていた。
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