第15話 年末(SIDE耕平)
様子をうかがう目的で細く開けたドアの隙間から、千波が口ずさむ歌が漏れ聞こえる。同時においしそうな香りも書斎へ入り込み、耕平の胃を刺激した。
どうやら千波は、倫子と気が合ったようだ。
耕平以外にも怖くないと思える人間ができたことは、喜ばしい。
仕事のメールを送信してからキッチンへ向かう。
今日の千波が着ているのは、昨日耕平が桃子から渡された黄色のフレアスカート。千波は明るい色が似合うなと、心の中で感想をこぼす。
「何か手伝う」
「今日のお仕事は終わり?」
「うん。ごちそう?」
「ごちそうってほどでもないけど、クリスマスっぽい食べ物」
「うまそうな匂い」
かぷりと白い首筋に歯を立てれば、千波の手に額を叩かれた。
「そうだ。耕平くん」
何やら怒られそうな気配を察して、姿勢を正す。
「人前で、キスはやめて欲しい」
「どこまでなら許容範囲?」
「どこまでって……人前でイチャイチャするのは、ちょっと」
「抱き締めるのは?」
「アウト」
「手をつなぐ」
「平気」
「かじる」
「ダメ!」
赤く染まった千波の頬を甘噛みして、怒られた。
「今は二人きりだ」
「ご飯の支度をしています」
「千波を食べたい」
耳元で囁きながら、わざと腰を密着させるようにして抱き寄せれば、千波の全身がカァッと熱くなる。
ぷるぷる震えだしたのが可愛くて、耕平は小さく笑う。
「暇ならお風呂入れてきて!」
真っ赤になった千波の耳にキスをしてから、素直に従った。
夕飯は、チキンのトマトクリーム煮とポテトサラダとピザだった。
それぞれ風呂を済ませてから、夕飯を食べる。赤ワインも開けた。
「これだけ料理ができるのに、自分が食べることに興味がないって、どういうこと?」
サクサクした生地がおいしいピザは、千波が生地から作ったのだろう。耕平は、ピザ生地を買った覚えはない。
「パソコン借りたから、レシピが検索できるでしょ」
「それだけ?」
「耕平くんの喜ぶ顔が原動力」
「それは、かなり嬉しいです。全部うまい。最高」
フフフと幸せそうに、千波が笑った。
ワインを一口飲んでから、「うちね」と、小さく呟く。
「食事の度に、父が母の料理に文句を言うの。味が薄いは決まり文句。味見した? とか、ネギを入れるなんて嫌がらせか、とか。他にもまぁ、いろいろとね」
フォークでチキンを突き刺し、千波はそれを口に運ぶ。ゆっくり咀嚼して、飲み込んだ。
「私にとってはおいしいんだよ、お母さんの作るご飯。なのに文句ばかりのあの人の言葉を聞くのが苦痛で。私とお兄ちゃんが、お母さんにおいしいよってフォローを入れると不機嫌になって、食卓の雰囲気は最悪。それで段々、食べなくなった」
「親父さん、自分で作ればいいじゃないか」
「彼自身、料理はうまくないの」
父親を、あの人や彼と呼ぶ千波。
無意識の千波が垣間見せる、家族との距離。
「九年目で浮気した彼もね、私が作った物に毎回点数を付ける人で」
「千波、男運最悪だな」
「これまではね。今目の前にいるのは、私にはもったいないほど素敵な男性だと思ってる」
「それは……光栄です」
思わず、耕平の顔に熱が上った。それを正面で見つめる千波があまりにも幸せそうに笑うから、耕平の胸は、幸福で満たされる。
「耕平くんが、大きな口を開けてたくさん食べてくれると、この味付け気に入ってくれたのかなとか。鍋の中身を見て顔を輝かせる姿を見ると、これ好きなんだなとか。これを作ったら喜ぶかなって、耕平くんの反応を想像しながら料理をするのが、幸せ。向かい合って食事をしながら、私が作った物をおいしそうに食べる姿を見てると、なんか、満たされる」
「千波が作る飯、うまいよ」
「ありがとう」
食事の後は紅茶を淹れて、ケーキを食べた。
千波が食器を洗っている間に、耕平は車に隠しておいたプレゼントを取りに行く。
これは昨日、伸行の家に行く前に買った物だ。村には店が少ないため大した物ではないが、千波には今後、きっと必要になる。
「千波。メリークリスマス」
クリスマスプレゼントと呼ぶには味気ない箱を二つ、差し出した。
「靴?」
「好みがわからないから、とりあえず歩きやすい物にした」
何が欲しいか聞いても、千波はいらないとしか言わないから、耕平が勝手に選んだ。
一足は運動靴で、もう一足は冬靴だ。
箱から運動靴を取り出して、千波の前に置く。靴紐は、事前に通しておいた。
耕平に促され、千波は運動靴を履いてみる。
サイズは丁度いいようで、歩きやすそうだと、千波が感想をこぼす。
「雪が溶けたら、見せたい景色がたくさんあるんだ。一緒に、いろんな場所へ行こう」
「……うん。行く」
運動靴を履いたまま耕平に抱きついた千波は、ありがとうと、震える声で呟いた。
※
耕平が年内の仕事を全て終わらせてから、二人で大掃除をした。
千波は、自分の車をしばらく眺めた後で、車中泊用の装備を片付けていた。
車内から千波が持ち出した紙束の中に火葬の文字が一瞬見えた気がしたが、千波が破り捨てていたため、耕平は何も言わないことを選んだ。
あっという間に三十日になり、耕平の車で雪道を走る。
助手席で千波は、どこか緊張した面持ちだ。
人の家にお邪魔して料理をするなんて、初めての体験だという。
耕平にとって通い慣れた牧場の敷地内に車を停めると、家の中から女の子が二人、飛び出してきた。
「こうちゃーん!」
「こーちゃ!」
突進してきた幼女二人を、耕平が両手で抱き上げる。
「
「ちょっとじゃないよ! にーな、こうちゃんを待ってたのよ!」
「ヒナもー」
「ごめんな。仕事してた」
優しい笑顔の耕平が、千波へと振り向いた。
「この子らは慎太郎と倫子さんの子。新菜が姉で、陽菜乃が妹」
「はじめまして。新菜ちゃん、陽菜乃ちゃん」
こんにちは、と元気良く答えた二人は、耕平を見上げて首を傾げる。
「この人は千波ちゃん。俺のお嫁さん」
「こうちゃんの、よめ」
耕平の言葉を聞いた途端に新菜が泣き出して、腕の中から飛び降りた。家の中へ駆け戻って行く姉を眺めながら、陽菜乃はきょとんとしている。
「初恋ブレイカー?」
「千波が作った言葉?」
「モテるんじゃん」
「ヤキモチ?」
「べっつにー」
千波がふいっとそっぽを向いて、転ばないよう気を付けながら雪道を進んで行く。千波が履いているのは、耕平がプレゼントした新しい冬靴だ。
千波と耕平が玄関へ辿り着くと、腕に小さな男の子を抱いた倫子が顔を出す。
足元には、涙目の新菜が張り付いていた。
「いらっしゃーい。着たり脱いだり大変じゃけぇ、先に牛を見に行っておいで。新菜、ほれ。千波ちゃんが来たら牛さんのとこ案内してあげるって張り切ってたじゃろ」
「こうちゃんのよめ、にーな、きいてない」
「言ったよ。森野くんの彼女来るからねって」
「カノジョはコイビトで、ヨメじゃないけん、にーなにもチャンスありよって。セイちゃんらがいったもん」
「まーたあの子ら、いなげなこと吹き込んで。そがいにはぶてると嫌われるよ」
千波が耕平を振り仰いだが、耕平は苦笑を浮かべて首を横に降る。
「広島弁は、俺もわかんないかなぁ。でも話しの流れから考えると、またあいつら変なこと吹き込んで、そうやって拗ねてると嫌われるよ。かな?」
「すごいね、北海道。方言の見本市開ける?」
「小野田のケンちゃんは名古屋でみゃーみゃー。静岡から来た農業体験中の福ちゃんは、にゃーにゃー言う」
「猫なの?」
「あはは」
千波と耕平の目の前では、母娘の攻防が一段落したようだった。
「チャンスはあっても選ぶのは森野くんじゃけぇ、新菜がいい子なら、千波ちゃんと仲良くして森野くんにアピールしんさい。それがいい女なんよ」
「ちなちゃん。にーなはよい女だから、牛さん見せてあげる!」
「うん。ありがとう。よろしく、新菜ちゃん」
「よろしくおねがいします!」
靴を履いた新菜が千波の手を取り、駆けて行く。
陽菜乃を下ろし、耕平が慌てて追い掛けた。
「新菜待って! 千波は東京の人だから、雪道慣れてないんだ! 転ぶと危ない!」
「とーきょーは、オシャレなまちよってセイちゃんらがいってた」
「セイちゃんは、誰のこと?」
「パパのぶか!」
案の定千波は滑って転び、大股で追い付いていた耕平が二の腕をつかんだおかげで、怪我をせずに済んだ。
牧場の規模に驚き、牛を見て感動して、子どもたちに引っ張り回された後で千波は、倫子と慎太郎の母と共におせちを作った。
夕飯をごちそうになり、重箱に詰めたおせちを持った、帰り道。
「疲れただろ? 明日は何もせず、ゆっくりしような」
「倫子さん、すごいね。すっかり立松家の人だったよ。お嫁さんじゃなくて、本当の娘みたい」
「倫子さんは多分、どこでもするりと入り込むような人だから」
「耕平くんだって、まるであの家の人みたいだった」
「俺はガキの時から入り浸ってたからな」
千波は一瞬沈黙して、車の外の景色をぼんやり眺める。
「自然はこんなにも厳しくて、人間は温かい」
「何だ、それ?」
「倫子さんが言ってたの。私、冷たい他人しか知らなかったからピンと来なかったんだけど。今日、なるほどなって思ったよ」
羨ましいな。私もそこに、入りたい。
小さく呟いてすぐ、千波は静かな寝息を立て始めた。
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