最北の村のクマさん

よろず

第1章 とある一つの出会い

第1話 遭遇

 薄明かりの中浮かび上がるように白い、女の体。

 細くて、薄くて。

 壊してしまわないよう細心の注意を払いながら、組み敷いた。


「……あんた、名前は?」


 今更相手の名を聞くことによる罪悪感と羞恥心から、男は女の顔から視線をはずす。

 己の上に伸し掛かる、熊のように大きな体をした男の耳と首筋が赤く染まったことに気付き、女は笑った。


「ちな」


 囁くように告げてすぐ、行為の先を促すように、女の唇が男のそれへと重なる。


「漢字は?」


 会話をやめるつもりがない男の様子に対して、女は答えるか迷う素振りを見せた。


「漢字は?」


 低い声が、再度問う。

 観念したのか、ため息と共に答えが吐き出される。


「千の波で、千波」

「海が好きな親か?」

「……実家は湘南」

「あんたの車のナンバーだな」

「車庫証明、実家の住所だから。免許証、見せようか?」

「あぁ。明日の朝な」


 冷めかけた熱を再燃させるような口付けを交わした二人は、互いの存在に、溺れていく――。



   ※※※



 千波が彼に拾われたのは、真っ暗闇の、雪の中だった。


 仕事を辞め、持ち物を処分し、借りていたアパートや銀行口座などを全て解約して、一台の中古車を購入した。

 事前に調べておいた豪雪地帯で車中泊するための装備を買い揃え、誰にも何も言わずに東京を後にした。


 後から思い返せば思いきったことをしたものだと自分でも思ったが、何年ぶりかの胸が踊る高揚感が味わえた。


 ひたすら北に向かって車を走らせる旅路は、見るもの全てが新鮮だった。

 だが、目的の場所にたどり着いた後で千波はミスを犯した。

 給油を忘れた挙げ句、道に迷ったのだ。


「あー……ここが私の終着点かぁ」


 路肩に車を停め、冗談混じりの呟きをこぼす。

 日は沈んだ。

 現在地はどこかの山の中。

 朝になれば車が通るかもしれないから、夜をやり過ごす支度を整えた。


 車の音が聞こえて慌てて車外へ飛び出すも通り過ぎた後で、テールランプへ両手を振ったが、止まってもらえなかった。


 耳に痛いほどの静寂と、暗闇。


 見上げてみれば、満点の星空。


 そのまま雪の中へ倒れ込み、星空へ両手を伸ばす。


「……キレイだなぁ」


 泣きたくなるほど、美しい光景だった。


 早く起き上がって車に戻らなければとは思ったが、動くのが億劫で、このまま眠るのもありかもしれないという考えが頭をよぎる。


「人間の味を覚えた熊って、殺されちゃうんだよね。確か」


 自分のせいで何かの命を奪うわけにはいかない。

 起き上がろう。思った千波を、黒い生き物が覗き込む。


「おい! ここで死ぬな!」


 大きな両手が千波の体を雪の中から掬い上げ、手袋をしていないにも関わらず温かな片手が乱暴に頬を叩く。


「……クマさんみたいな、人間だ」


 大きな男の人だなと、思った。


 気付けば千波の体は冷え切っていて、いつの間にか車高の高い白色の四駆車が、千波の中古車の隣に停車している。

 先ほど通り過ぎて行ったのと同じ車種だ。もしかして、手を振る千波に気付いて戻ってきてくれたのだろうか。


「あんた、死にに来たのか?」


 問われ、千波は答えに詰まる。


「ガス欠で……」


 寒さを自覚したら途端に歯の根が合わなくなり、舌打ちした大男により、暖かな車中に放り込まれた。

 毛布でぐるぐる巻きにした千波を、ハイビームを付けたままの四駆車の後部座席へ残し、男は千波の車のガソリンメーターを確認しに向かう。

 四駆車のトランクから取り出した携行缶から予備のガソリンを給油してくれる男の姿を、千波はぼんやり見守った。


「目的地は?」


 戻ってきた男からの問いに、願望を口にする。


「流氷が見たい」

「まだ時期じゃない」

「うん。海見て、気付いた」

「宿は?」

「車」

「これから吹雪くぞ。うち来るか? すぐそこだ」


 人様の家のすぐそばで死にかけたなんて、とんだ迷惑人間だなと、思った。


「行く」


 男の言ったとおり、彼の家は千波が遭難した場所から五分も掛からなかった。


 白の四駆車の後ろについて、ガソリンを補充してもらった中古車を運転した千波は、彼の家の敷地内に車を停める。

 着替えの入ったリュックと財布と、凍って破裂したら困ると考えペットボトルの水を手に車を降りると、玄関ポーチの明かりの下にいた彼は、奇妙なものでも見る視線を千波へ向けていた。


「そのまま逃げるかと思った」


 男の発言で、もしかしたら社交辞令だったのかもしれないと気付く。


「森のクマさんは良いクマと相場が決まっているから」

「誰がクマだ」


 不機嫌に吐き捨てた男が玄関の鍵を開け、千波を招き入れてくれた。

 やっぱり良い人だなと思いながら、見ず知らずの男の家へと上がり込む。


「あったかーい」


 男以外人の気配がないはずなのに、屋内は暖房が効いていた。


「上着はそこに掛けろ。風呂、入れてくる」

「お邪魔します」


 靴を脱いで上がりはしたが、どこにいればいいかわからず、その場に立ち尽くす。

 土間にある薪ストーブに火はついていない。それなのに家の中が暖かいのはどういうことだろうと室内を見回してみるが、エアコンも見当たらない。


「あ、床暖房?」


 分厚い靴下越しに触れた床が冷たくないことに気付き、足元へ視線を向けた。


「ホットミルク、飲むか?」


 浴室から戻っていた男に問われ、千波は頷く。


「これ、俺の名前」


 目の前に差し出されたのは、一枚の名刺。荷物を片手で抱えて、受け取った。


森野耕平もりのこうへい……作家?」

「時代小説書いてる。本読む?」

「あんまり。漫画ぐらい」

「そんな感じだな」

「バカっぽい?」

「実際バカだろ。給油せずに山道入るし、見ず知らずの男の家にのこのこついて来るし。あと、冬の北海道舐めんな」

「クマさんは森野さんだったんだね」

「耕平」

「耕平くん」

「くん?」

「だって多分、私の方が年上だと思うから」

「いくつ?」

「バカだから忘れた」


 初対面の男の人とスムーズに会話していることがおかしくて、思わず笑みがこぼれる。

 くすくす笑う千波の前にマグカップが差し出され、優しい香りが鼻をくすぐった。


「荷物その辺に置いて、座れば?」

「ありがとうございます」

「急に敬語」


 ふはっ、と噴き出すようにして笑った彼の笑顔を見たら、何故か泣きそうになる。


 ホットミルクは、びっくりするぐらいおいしかった。

 本当は牛乳は嫌いで、社会人になってから飲むことはなくなっていたのだが、こんなにおいしい飲み物が世の中に存在したのかと、大袈裟ではなくかなり衝撃的だった。


 千波が風呂に入っている間に、リビングに用意されていた寝床。


 耕平が風呂から出るまで起きて待っているつもりだったのに、おやすみを言った記憶がない。

 自分で入った覚えのない布団の中で、千波は朝まで、ぐっすり眠った。

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