ドロシー・オズボーン

 星ばかり眺める父親に飽きて、母は家から出て行った。

 母がいなくなってからようやく、彼は娘に興味を持った。むしろ、人生で唯一愛した人を喪った寂しさを紛らわすように彼女を溺愛した。多分それは本当の愛では無かったのだろうけれど。


 ドロシーが一二歳の時、父は再婚した。相手は近所のシングルマザーで、彼女の娘がドロシーの友達だった。娘同士の仲が良いし、彼女もドロシーを気に入ってくれているという理由で結婚を決めたらしい。

 義母は悪い人では無かった。むしろ優しすぎた。彼女が父を選んだ理由はドロシーに同情したからだ。その頃にはまた、彼は娘に対する興味を失い始めていたから。

 思いがけず姉妹になってしまったことで友達とはギクシャクした関係に。十五になり、ジュニアハイスクールを卒業した後は滅多に口も利かなかった。嫌いになったわけではないのだが、好きな気持ちが萎えてしまった。


 何年か前から、高校はごく一部の若者だけが入学を許される場所になっていた。地球に迫りつつある彗星“ドロシー”の脅威に立ち向かうため、世界中で地下都市の建設が急ピッチで進められていたから。高校より先に進めるのは一部の天才児か、自分のようなコネのある人間だけ。

 父が発見して、当時生まれたばかりだった自分と同じ名前が付けられた星。それが人類を滅ぼすかもしれない。その事実を突き付けられる度、肩身の狭い気持ちになる。何も悪いことなんかしていないはずなのに皆から責められているような、そんな錯覚に陥ってしまう。

 だから本当なら働きたかったのだけれど、父が勝手に偉い人達に頼んで娘二人の進学を決めていた。そうすることが父親の責任だとでも思ったのだろうか?


 高校は頭の良い人間ばかりだった。それはそうだ、そうでなければ進学できない。

 例外的にそうでないドロシーと義妹は、当然のように目を付けられた。この時代の貴重な落ちこぼれだ、しかたがない。せっかくの優秀な頭脳をくだらないことばかりに費やして、彼等は彼女達をイジメ続けた。

 彼等が仕掛けてきた最も陰湿な手口は、ドロシーが密かに憧れていた男の子に嘘の告白をさせて、彼女が幸せな気持ちになった瞬間にネタバラシをするというものだ。それまで彼だけが彼女に優しくしてくれた。そういう態度も、励ましてくれた言葉も、全てが嘘だったのだとわかった瞬間に熱い気持ちが急速に冷えていって、そして理解した。


 ああ、ママもきっと、こんな気持ちで父を見限ったのだな……と。


 ドロシーは学校に行くのをやめた。彼等に屈したからではなく、意味を見出せなくなったからだ。くだらない人間しかいない世界そのものに興味を失ってしまった。学生でなくなったのなら働かなければいけないのだが、今度もまた父のコネを活用して引きこもりになった。

 義妹は逆に、学校に残ってイジメに立ち向かうようになった。彼等に“敗北”した姉の仇を取ろうと息巻いていた。こいつは強い奴だなあと感心したものである。

 暇で暇でしかたなく、暇潰しになるものを探していたら、その義妹に薦められてジャパニーズコミックにハマッた。それまではナードくさいからと敬遠していたのだが、読んでみたらとんでもなく面白かった。

 だが、面白い作品を貪るように読み漁っていた彼女は、またしても辛い現実に直面する。他人が聞いたら今までのあれこれに比べて軽い不幸だと思うかもしれないが、彼女にとっては今までで一番辛い現実だった。


「このコミック、もう続きが読めないの!?」


 漫画家の多くも日本の建設現場で働いているらしく、大好きなコミックの多くが何年も連載を中断している状態だった。それを知った彼女は悩みに悩み抜いた末、一つの結論を出す。


「パパ! 私、日本に行きたい!」




 二年後、彼女達家族は日本に辿り着いた。世界中がゴタゴタしている状況だったので移住の許可が降りるまで随分と長い時間を要してしまったのだ。

 彼女のワガママな願いを叶えるために両親はかなり頑張ってくれた。義妹とはコミックの話題で再びよく話すようになった。思えば、日本へ行くことを決めてからの数年間こそ彼女達家族が最も幸せに過ごした時だったのかもしれない。

 日本にいれば、彗星の衝突で地下に閉じ込められても、ネットワークが寸断されてしまったとしても大好きな作品の続きを読むことができる。だからもう何があっても大丈夫。日本の技術は凄いから、この地下都市だってビクともしないだろう。

 そんな風に思っていた。




 そして、さらに二年後──ついにその日がやって来た。

 彗星は地球に衝突しなかった。直前で軌道を変え、月の裏側に落下し、より深刻な事態を引き起こした。銀色の霧が地球に降り注ぎ、その霧から生まれた巨大な怪物や人類の想像を超える大災害が発生。世界中の都市が蹂躙された。

 二年間暮らした地下都市が、どこからか湧いた大量の水に飲み込まれて没した。背後から迫って来る濁流に怯え、何が起きているのかわからないまま必死に逃げた彼女は、まだ稼働していた大型エレベーターに乗って多くの日本人達と共に地上へ逃れた。

 一緒にいたのは義妹だけ。両親はエレベーターの入口ではぐれた。子供達を先に乗せたせいでスペースが無くなっのだ。扉が閉まる直前に水はすぐ目の前まで迫っていた。だからもう、あの二人はいない。二度と会えない。

 しかし、ひょっとしたら地下で家族揃って水没していた方が幸せだったのかもれしれない。地上に逃れた彼女達を待っていたのは、さらなる絶望だった。

「な、なによあれ!?」

 義妹が見つめる方角に想像を絶するものがいた。高層ビル群に巨大なドラゴンだ。それが火球を吐き出し、周囲を火の海に変えていく。さながら怪獣映画のような光景。

「あ、ああ……ああ……」

「に、逃げよう! 逃げようドロシー!」

 妹が手を引いて、二人は走り出す。


 だが怪物は一体だけではなかった。

 次々に現れ、同じように逃げまどう人々に襲いかかる。

 人間より大きなカマキリに捕まる者。

 ドロドロの粘液にまとわりつかれ、皮膚を溶かされ絶叫する少女。

 突然ビルとビルの間から炎が噴き出したかと思えば、一ブロック先では何もかもが凍り付いていた。


「なんなの、どうなってるのよ!?」

「わかんないよ!」

 ──この会話を、後にドロシーは深く後悔することになる。

 直後、背後で強い輝きが生じた。足を止めて振り返った二人の目に、天を貫く光の柱が映る。

 その根本で光が膨張し、大量の瓦礫や人間を空中に舞い上げ始めた。


 あ、死ぬんだ。


 抗い様の無い圧倒的な災いを目にした時、人は自然と死を受け入れられる。

 だが、運は彼女に味方した。あるいは、より悲しい現実を突き付けた。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」

 転がって来たトレーラーや巨大な瓦礫が偶然ぶつかり合い、彼女の前で盾となった。それでも凄まじい衝撃が襲いかかったが、逆方向に走ってある程度の距離を稼いでいたことが幸いし、どうにか彼女は生き延びた。


 ──しばらくして、ようやく轟音が収まる。


「……い、生きてる? やった、まだ生きてるよウェンディ! 私達、助かっ……ウェンディ?」

 義妹はそこにいた。

 一部分だけ。

 彼女と手を握り合った左腕だけが残っていた。

 それ以外の部分は千切れ飛び、どこかへ消えてしまっていた。




「……」

 いつの間にかあの赤いドラゴンは消えていた。けれど、建物が破壊される音や悲鳴はまだ時々聴こえて来る。ドロシーは震えながら膝を抱え、小さなビルの片隅で眠れぬ一夜を過ごした。

 翌朝、静かになったのを確かめて外へ出ると、同じように運良く助かった人々が集まり、自然と列を作った。一〇〇〇万人近い人間が住んでいた都市だ。あれだけの災害に見舞われてもまだかなりの数が生き残っていた。

 ドロシーは虚ろな表情でその中に混じり、歩いて行く。

(どこへ行くんだろう……)

 他の被災者達の話では、北へ向かうようだ。他の都市は無事かもしれない。だから東京を脱出するのだと話し声が聞こえた。

 しかし、やがて彼等は気付いた。ドロシーも俯かせていた顔を上げ、呟く。

「ふざけんなよ……」

 ずっと薄暗いとは思っていたが、空が曇っているせいではなかった。東京全域を取り巻くように巨大な壁が出来上がっているのだ。瓦礫や土砂を巻き込みながら激しく回転する気流の壁。

『あんなの抜けられないぞ……』

『どうする?』

『地下鉄を通って向こう側まで行けないか……』

 人々が相談しあう中、ドロシーは列を離れ、彼等を眺められる場所で座り込んだ。なんだかもう、全てどうでもよくなっていた。

 いや、一つだけ心残りがある。

(コミックの続き……読みたかったな……)

 きっと好きな作家さん達もほとんど死んでしまっただろう。もう永遠に続きを読めない作品が大半になってしまったに違いない。ああ、物語の結末を知りたかった。この願いが叶わないなら、こんな世界で生きていてもしかたない。

 ハァ、とため息をついた時、悲鳴が上がった。人々が彼方を指差している。


「あ……」


 彼等の視線の先を見た瞬間、得体の知れない感動が湧き上がった。あれだ、昨夜見たあの赤いドラゴンが再び立ち上がっている。銀色の光に飲み込まれて消滅したと思った巨大な幻想が再び目と鼻の先に出現する。

『に、逃げ──ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああっ!?』

 何が起きたのか、走り出そうとした男の一人が突然燃え上がり、全身を炎で包まれた。彼だけではなく、他の人間にも同じような現象が伝播していく。

(人体発火!?)

 いや、違う。発火だけではない。凍結する者も、異形化する者達もいた。まるで昨夜の災いの全てが同時に“再現”され始めたかのような異様な光景。

 その中の一人が体からスパークを放ち始めた。彼自身にも何が起きているかわからず制御できないらしい。

 最悪なことに、その電流が近くに落ちていた貯水タンクに触れた。次の瞬間──


「ジィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイッ!!」


 巨大なカメレオンに虫の羽を生やしたような生物がタンクの中から現れ、人々を襲い始めた。

「う、うわああああああああああああああああっ!!」

 自衛官なのか、それとも彼等の武器を拾ったのか、銃火器を持っていた数人がそれを使った。しかし弾丸は全て怪物の硬い表皮に弾かれ、全くダメージを与えられない。

「は、はは……」

 笑えて来る。本当に、次から次になんなんだこれは? それこそコミックじゃないか。彗星のせい? 自分と同じ名前を持つ、あの彗星のせいでこうなったの?

 恐怖と絶望で立ち上がることすらできない。周りの獲物をあらかた食い尽くした怪物は、怯えた表情の彼女を見つけて猛然と迫って来た。あの巨体を維持するためには、そりゃ大量の餌が必要だろう。溺死と爆死と怪物の餌。自分達家族の中で、どれが一番幸せな死に方か? そんなことを思いつつ涙を流す。

 すると──



 眼前を、銀の光が駆け抜けた。



「……え?」

『大丈夫ですか!?』

 日本人の少年だ。銀色の光で全身を包み、ドロシーに迫っていた怪物を殴り飛ばしてしまった。素手で。

『な、なんだあの子っ』

『化け物を倒した!?』

『い、いや、まだ倒せてないぞ!』

 地面を転がった怪物が起き上がり、少年を睨みつける。ひしゃげていた頭が見る間に元の形へ戻って行った。銃弾を弾く防御力に加えて凄まじい回復能力まで有しているらしい。

 カメレオンに似た見た目の通り、長い舌を伸ばして少年を絡め取ろうとする怪物。

 だが、逆に少年の右手がその舌を掴んで引き寄せた。

『オォッ!!』

 引っ張って強引に距離を縮めた相手に再び拳を叩き付ける。舌が千切れ、怪物は吹っ飛んだ。なのに、また回復してしまう。千切れた舌まであっという間に元に戻った。

「ジィッ!!」

 マトモにやり合っては不利と悟った怪物は虫羽で空中へ飛び上がった。いや、むしろ逃げた。勝てない相手と戦っても意味は無いと判断したのだろう。

 だが、甘かった。

 背中を向けて飛び去ろうとしたその背後に、少年が一瞬で肉薄する。全身から銀色の光を噴射することで飛翔したのだ。

『逃がさない!』

 少年の瞳には激しい憎悪が宿っていた。その理由なんて訊かなくても察せられる。彼もこの災害で何かを喪ったのだろう。彼の怒りと悲しみが実体化したかのように、拳に銀色の光が集まる。周囲からも膨大な量が吸い寄せられ、渦を巻いて集束する。


『うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』


 突き出した拳からエネルギーが解放された。二重の螺旋を描き、光の柱が横一文字に空を貫く。

 その光は東京を覆った気流の壁までも穿ち、その一部を消し飛ばした。


「なんて……大きな“渦”ボルテックス……」

 瞬間、ドロシーは知った。義妹の命を奪ったあの爆発は目の前の少年によって引き起こされたものだったのだと。

 しかし不思議と怒りは湧いてこなかった。むしろ──


 彼女はもう一つ知った。

 自覚した。

 あの赤いドラゴンが立ち上がる姿を見て、自分が何を感じたのか。何を願ったのか。


『今なら抜けられます! 皆、急いで!!』

 少年がそう叫ぶと、混乱の坩堝に陥っていた人々が正気に返る。

『そ、そうだ! 今なら逃げられる!』

『行こう、さあ、立って!』

 人々は手に手を取り、助け合いながら走り出した。

 そんな中、少年はまだ座ったままのドロシーを見つけ、近付いて来る。

『早く、逃げないと!』

 そう言って右手を差し出して来た彼を見上げ、ドロシーは笑った。

「ついて行く」

『え?』

「あなたについて行くわ。だから見せて──あなたの、私の知らないあなただけの物語を」

『す、ストーリー? ソ、ソーリー。アイキャントスピークイングリッシュ』

「喋ってるじゃない」

 クスクス笑いながら、少年の手を取って立ち上がる彼女。

 彼に手を引かれて走り出す。

 一瞬だけ振り返ると、あの赤いドラゴンがこちらを見つめていた。

 奇妙な親近感を覚える。

 あなたも彼に興味があるの?

 でも、駄目よ──


『彼は私のもの。絶対、誰にも渡さないわ』


 ドロシーは見つけ出した。この絶望的な世界で最も安全な場所と、最も刺激的な物語を。彼の傍らに。

 彼の名は伊東いとう あさひ。それが後に北日本王国の初代王になる少年と王妃の出会いだった。

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