ふしぎの国「ふしぎの国の迷子」

 ふしぎの国は思っていたよりずっとずっと広かった。

「忙しい忙しい!! お! 案内役じゃあないか! ああ忙しい! これから女王様のところに出向かないといけないんだ! またな! ああ忙しい忙しい!!」

 タキシードを着た白い兎が、懐中時計を片手に走っていった。女王様というのは、おそらくハートの女王のことだろう。

「やっぱりここは……自分の知ってる、ふしぎの国……?」

「さぁ? 僕は、キミの思うふしぎの国を知らないから。キミが知ってると思うなら、きっとそうなんだろうね」

 案内役は慣れた様子で国を歩いた。お喋りな花たちの園を抜けた先には……ツギハギの帽子をかぶった老父と、茶毛の兎耳を生やした褐色の青年、それからティーポットの中にはネズミ……いや、ヤマネだろうか、眠っている小さな生き物が1匹いた。

「や。御茶会やってるねぇ。時間さんとはまだ仲直りできていないのかい?」

「おお、案内役、こんにちは。そうさ、時間さんは喧嘩して出ていったっきり! だからここはずっと午後3時、御茶会の時間」

「なんでもない日カンパーイ! あ、それはそうと、カラスと書き物机が似てるのは、なーんで?」

「はは、三月兎、キミも飽きないねぇ」

「仕方がないさ、だってそれしかやることがないのだもの! それとも何かい、俺の楽しみを奪おうっていうのかい? ……おや、そういえばそっちの童話人ひとは見ない顔だね。どの物語にも出てこないような顔をしてるよ」

「自分のことですか……? あの、自分はこの世界の住人じゃないんです。実は、名前をなくしてしまって……」

「なんだ、名前さんと喧嘩したのかい? そりゃあ大変だ! 名前さんと仲直りしないといけない。 ああ、新しくてもいいならとかとかに貰うといい!」

 それだけ言って、また御茶会を始めてしまった。割れて茶渋のついたティーカップをカチャカチャと躍らせている。

「これ以上の話は聞けそうにないね。なんていったって、ここはずっと午後3時、御茶会の時間」

「そ、そうだね……。童話も、聞いたり話したりしなかったな……」

 未登録迷子Unknownは少しだけモヤモヤした気持ちを抱えて、案内役の後ろをついて歩いた。

 しばらく行くと、大きなキノコがたくさん生えた場所に出た。人間と変わらない、いや、それより少し大きな芋虫がキノコの上に乗っている。吸っているのは水煙管だろうか。それに上下逆さまの新聞を読んでいる。なんておかしな芋虫だろう。

「……おーや、案内役じゃあないか。何か知りたいことがあるのかな」

「やぁ、物知りな芋虫。未登録迷子Unknownの名前さんを見ていないかい?」

「……どれどれ……あァ……お前さんの名前は確カに空っぽダね。うぅん、儂が見ていないのだからコッチには居なイだろう……。それから、お前さん…………あァ……それ以上語ってはイけないね……戻れなくなル」

「それは、一体……どう、いう…………?」

 問いかけたときには芋虫は眠っていた。ぷかぁぷかぁと寝息を立てている。

未登録迷子Unknown、キノコをちょっと齧ってごらんよ」

「えっ……毒々しい色のキノコを……?」

 案内役は未登録迷子Unknownにキノコをふたつ渡した。戸惑いながら右のキノコを齧る。すると、ぐんぐん大きくなってしまった。

「わ、わぁ……!?!?」

 慌てる未登録迷子Unknownに、案内役は笑って言った。

「あはは、イイ反応だね。さて、何が見えるかな?」

「何……ああ、なんか、家みたいなのがいくつか……お屋敷? それから城も見える……向こうは……街、なのかな……」

「上出来上出来。さっき齧ったのとは逆のキノコを齧ったらもとに戻るさ」

「……案内役はどこに何があるかなんて知っているんじゃないの……? わざわざ自分にやらせた意味なんて……」

 ちょっと文句を言って、もとの大きさに戻った。案内役は知らん顔をして先に進んでしまう。未登録迷子Unknownはそれを急いで追いかけた。


 森を抜けると、やっぱり街のようだ。他の家よりずっと立派な屋敷が見えると、案内役は立ち止まった。

「公爵夫人、が来ましたよ?」

「あらまぁ、いらっしゃい! 坊やが豚になって出ていってしまったばっかりで暇だったの。丁度いいわ。そちらは?」

 公爵夫人は絵に書いた貴族のような、ふくよかで、けれども美しい女性だった。

「あの……自分の、名前……さん、を探していて……公爵夫人は、何かお見かけしていませんか?」

「アンタの名前さんか、見てないね! 白兎とか、ああ! 女王様なら何か知っているかもね!」

「公爵夫人、あいにくと僕らは招待状を持っていないのです、まったく困ってしまいますね。これではお城へ行ったとてトランプ兵たちにインク塗れにされてしまうことでしょう。あぁ、おそろしい」

 案内役は大仰に身振り手振りをして肩をすくめた。なんてわざとらしい、と未登録迷子Unknownは思ったが、公爵夫人はなんの違和感もないらしく、パンパンッと手を鳴らして召使いを呼んだ。

「これをお使い。大忙しの白兎が招待状を大量に届けていったからね」

 赤い薔薇の蝋封を剥がして、中を見ると、ハートのトランプが。これが、招待状。

「ありがとうございます、公爵夫人。……これでお城に行けるね、未登録迷子Unknown

 案内役が通りの馬車を呼び止める。城に向かって進んでいく。

「お城に行くと、どうなるの?」

「……お城に行けば、女王様に会えるのさ。女王様に会えば――――物語を聞かせてもらえるし、聞いてもらえるかもね」

「物語……を………この、エリアは……ふしぎの国……主人公、は……」


 ――アリス。


「そう、そうだ!! アリス!! ふしぎの国のアリスだ!! ……他の主人公の名前も、自分の名前も思い出せないのに……どうして……アリスは……。あ、他のエリアでは主人公に会えたのに、主人公アリスを見ていない……。主人公アリスは」

 案内役は未登録迷子Unknownの言葉を遮って言った。強く、冷たく。案内役の豹変に言葉を詰まらせる未登録迷子Unknown


 ――そういえば、案内役は何の登場人物なのだろう?


「ついたよ。さぁ女王様に謁見だ」

 灰被りの城よりも大きく、立派な城だった。庭にはトランプの形に整形された薔薇の木が植えられている。真っ赤な薔薇が咲き誇る中、1つの木だけ、真っ白なバラが咲いている。それをトランプ兵たちがペンキで赤く塗っているのだ。

「大変だ、大変だ! 庭の薔薇は赤だと決まっているのに!! 急げ急げ! 早く塗ってしまわないと女王様に首をちょん切られっちまう!」

「……案内役、女王様は恐ろしい童話人ひとなの? ……物語の、通り」

「さぁね。恐怖なんて個人のものさしじゃないか。僕は消えるのも出てくるのも自由だもの。首を切られたって死ぬことはないのだし恐ろしいとは思わないさ。……キミの首は切られても平気かどうか、僕は知らないから」

「そ、そう……ああ、緊張してきた……」

 重厚な扉が開く。馬車を降りて、そっと中に足を踏み入れる。王座には、女王様が。ハートを模した赤と黒のドレスに、ハートの杖。鋭い赤い瞳。

「やぁ女王様。ご無沙汰しております」

 案内役が一礼する。未登録迷子も、同じように一礼した。雰囲気だけで殺されそうな、身の毛も凍るような、そんな冷たさを感じた。

「……そこの。キサマは何者か?」

「じ、自分は……名乗ることができません……。名前を、失くした……アンノウン…です」

「ほう。未登録迷子Unknownか。此処に来たのは何か用があってのことであろう。今日は薔薇の赤が一段と美しいから機嫌が良い、話を聞いてやろう」

「っ……あの……自分は、名前を探して、この世界をまわってきました。此処でも手がかりが得られれば、と思っています……。その手がかりは、物語を……知ること、話すことで得られるようです。……このエリアの物語を、お聞かせ願えないでしょうか……!」

 女王様はしばらく未登録迷子Unknownを見つめていた。やがて、ふっと息を吐いた。張り詰めた雰囲気が、少し和らいだと思った瞬間、どっと汗が湧いた。案内役は涼しい顔をしている。……女王様は静かに童話を語った。


 此処はハートの女王の支配する国。この国はひとりの男によって生み出されたのための国。三姉妹にボート遊びをしながら語ってやったのが始まり。尤も、それは地下の国という名前で、ふしぎの国ではなかったのだけれど。

 ある日、此処はの夢だった。白兎に導かれて、穴に落っこちた迷子の彼女は、大きくなったり小さくなったり、コーカスレースをやったり、首が伸びたり裁判に呼ばれたり、たくさん冒険をするのさ。好奇心旺盛で、勇敢で、礼儀正しいのにおっちょこちょいで……何も知らなかった。物を知ったような口をきくお喋りだったけれど、そんな、幼い子らしいところがたまらなく愛おしい。


 ――そしては狂ってしまった。


 この物語くにを愛してしまった。とある飼い野良猫のことをもっともっと愛してしまった。そして、夢から覚めなければならないとき、彼女はそれをひどく嫌がった。泣いて叫んで、そして寂しくなった。物語くにを愛していたから、彼女が泣くのをとてもつらく思った。そして……ひとつの物語では足りなくなって、を呼んで……いや、創って、世界を広げた。

 寂しいを慰める物語の世界。の好きな童話の世界。此処は始まりの地。彼女のための……


 ――――……ふしぎの国。


「……キサマの名前も、おそらく彼女が知っているだろうさ。いや、知らないかもしれんな。……キサマは、自分のことをどれほど知っている?」

「え……歳は16? 家族は……? 住んでいる、のは……住んでいるのは街中で……アパート……? あれ、一戸建て……? 好きなことは読書、そう、読書で……」

「……なるほどな。それほど自分を知らないのなら、その体に広がったインクのことも、知らぬのだろう」

「な、なんのこと……っ、な、なんだこれ!? か、身体に……こんな、いつから!? ど、どうして……なんで……」

 触わるとぬるっとした生暖かい赤い液体が胸を中心にして首元まで広がっていた。取り乱す未登録迷子Unknownを女王様は冷めた目で、くだらないというように見つめていた。案内役は、笑っていた。

「っ、た、たすけて、案内……役……」

「ふふ、あはは、面白いことを言うね? 未登録迷子Unknown。童話世界を壊してきた人間とは思えないねぇ? いや、人間らしいといえばそれもそうか。……今まで集めてきた虚のかみきれは6枚。……女王様からの招待状。これが7枚目。次で最後さ」

 女王様がハートの杖を振った。恐怖で顔を引きつらせ、青ざめる未登録迷子Unknownと、三日月のような笑みを浮かべる案内役が光りに包まれる。

「……――いや、。さようなら、未登録迷子Unknown


 目を開けると、そこは大きな大きな書庫だった。図書館、というべきなのかもしれない。

「女王様が飛ばしてくれないと来れないからね。良かった良かった」

「ここは……ふしぎの国じゃ、ない……?」

 ふらふらしながら立ち上がる未登録迷子Unknown。案内役が視線を向けた先には、7歳ほどの、水色のワンピースに白いエプロンドレス姿の少女が立っていた。その隣に、背の高い……180cmほどだろうか、顔の整った青年が立っていた。

「まったく、もう、こまるじゃない!」

 少女はそう言った。


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