This is 直観

QU0Nたむ

そういうものだ


 【知識】【経験】【理解】といった根拠を元に事象を瞬時に理解する能力を『直観』というらしい。


 所謂いわゆる職人の勘もこれに該当する。彼らは無意識レベルで経験データを参照して正解に近しい答えを弾き出しているのだ。


 なるほど、経験があれば過程を省いて答えを出せるのは分かる、納得がいく。我々もちょくちょく体験することだ。


 ならば、経験も知識も無い状態なら、どうなるのか。それこそ赤ん坊なら?

 彼ら、彼女らは間違いなくこの世の全てが未経験で予測の立てようもない事だらけだ。


 実際はどうだろう?未経験の世界で彼ら彼女らは気づいた時にはハイハイが出来て、立って歩いて、話し始める。


「それは学習して、そうなったからだ」


そうだろう。



 だが、待ってほしい。

何故、


 親からの教育?四六時中命令したのか?「早くハイハイしろ」と急かしたのか?


 いや、勝手に育つ。



 赤ん坊は本能だけで生きてて勝手にそうなる?


 いいや、赤ん坊は経験も知識もないけれど、知性はある。眼の前で指を振るうなど地面から離れたものを目で追う。落ちている自然なものよりも不自然なものに目を向ける。


 その知性が学習を選択する。まだ、人生経験が無いのにも関わらず『直観』としてそれを選べる。


 おかしな事であるが、誰も不思議に思わない。「そういうものだ」で流してしまう。


 この事象が表すことはとても、恐ろしい。

 『人間は経験してない事にも直観が働く』という薄ら寒い仮説に行き着いてしまうのだ。

 覚えの無い事を『直観』出来るのであれば、我々という存在の根底が覆りかねない可能性を示唆している。


 『我思う故に我あり』有名なデカルトの論説だ。


 全ての事象の存在を疑っても、それらを疑える自身こそは確実な存在であるという論理。先の仮説により、それに余計な一文が追加されて破綻する。


 『我思う故に我あり』【されど、それを思う他者あり】


 我を思う【誰か】という疑える存在の介入を受けている可能性が生まれてしまったのだ。

 我々が虚構である可能性、喩えるなら小説の登場人物である可能性だ。


 我々は我々の事をを想像する【何者か】の『直観』によって存在している。

 『赤ん坊は自己学習して育っていく』その前提条件を『直観』する【何者か】が我々を思い描いている。


 あぁ、恐ろしい!


 確固たる自我を持ち、筆を執る私自身さえも誰かの想像するキャラクターに過ぎないのだ!

 もちろん、この話を読んでいるそこの貴方も例外ではない。貴方が何らかの余暇時間にこの話を読んでしまうことも、【誰か】が描いたの設定なのだ!


 ならば!ならば!?


 【誰か】とは誰だ!!!



 神か、悪魔か、宇宙人か?!!


 ……いや、待て。



 私達は


 『赤ん坊は自己学習して育っていく』その前提条件を『直観』出来る【何者か】を。

 まるであたかもそれが自然な答えだと『直観』出来たを。


 答えは【我々】だ。「そういうものだ」と頷いた私達こそが私達という存在を『直観』している。


 【我々】の『直観』という集合知が実世界の認識を決定づける可能性を持っている。


 以上が私が『直観』した事だ。

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