第30話

「あらお帰りなさい。葵ちゃんも夏樹君も満足した?」


「はい、僕は満足できました」


「そう言ってもらえると嬉しいです」


 僕と岸水は、屋敷まで帰って来ると、真っ先に康子さんに会った。康子さんは皿を運んでいたので、まだ宴会をしているのだろうか。


「それにしても本当に仲良さそうねえ。おばさん、羨ましいわあ」


 康子さんは遠い昔の記憶を見るかのように目を細めて言った。


「そうだ!お風呂沸かしたんだけど先入ちゃって。あ、二人一緒に入るの?」


「「入りません!」」


 僕と岸水は、音楽家もうなるようなハモリで声を発した。


「あらら、全く照れちゃってー」


 そう言い残すと康子さんは台所の方へ向かった。皿を僕も運んだりしていたので、台所の位置だけはかろうじて覚えていたのだ。


「……お風呂先入ってください。客人をもてなすのは当然です」


「なんか悪いな」


「いえ、勝手がわからなければ呼んでください」


 岸水はそう言うと、宴会の開かれている大客間の方へ小走りで行ってしまった。


 僕は自分の着替えを手に取ると、お風呂の方へ向かった。


 風呂場ってどこにあるんだろう……。


 僕は大事なことを聞くのを忘れていた。岸水は行ってしまったし、康子さんも台所にいるだろうが、どこの台所にいるか分からない。


 驚くことにこの屋敷は台所が三つあり、そのうち一つしか僕は憶えていない。


 ちょっと探検してみるか。


 僕の興味本位で、屋敷を歩き回ることにしてみた。庭には池があったり、大きな道場があったりと、驚きの連続だった。


 歩き回っていると、とある一室が他の部屋のつくりとは明らかに違っているのが分かった。


 中に入るとそこは洗面室で、その先に浴場があるのが見えた。服を脱ぎ、中に入ると、よくテレビなどで見るような大きな浴場が広がっていた。


「すっごいな……」


 湯船の中でしばらくゆっくりしてから、僕は湯船から上がる。僕は元々長風呂するタイプではないので、いつもこれくらいだ。もちろん体は洗っている。


 体をタオルで拭き、着替えにそでを通す。


 浴室から外に出ると、ばったり岸水に会った。


「あ、岸水……」


「上がったんですね。今から私が入ってもいいですか?」


「うん、大丈夫だけど」


 するとさっと岸水は洗面室に入ってしまった。


 僕は何か岸水に悪いことを言っただろうか。散歩の帰りあたりから、岸水に避けられている感じがする。


 僕は思い当たるようなことを考えてみるものの、さっぱり分からない。でも相手を理由もなく傷つけてしまったのなら謝らなければいけない。


 あとで岸水に聞いてみよう。


 僕はそうして洗面室を後にした。


※ ※ ※ ※ ※


 私は服を脱ぎながら考える。


 結構恥ずかしいことをしてしまった、と。


 私は湯船につかりながら考える。


 めちゃくちゃ気まずいと。


 自分が謝りながら泣いてるところを見られる。改めて言葉にしてみると更に恥ずかしさがこみあげてきた。


 どうしよう……これから二日間一緒の家に泊まるというのに心が重くなってきた。会話が続かなくなったらどうしよう。


 本当にどうしよう。それにさっきもそっけない態度をとってしまった。嫌われたらどうしよう。


 嫌われるのは嫌だな……。


 こんな時、忍ならどうするんだろう。



 今から十年程前、私はクラスに馴染めないままでいた。


 どうしても他人と他人との奇妙な間がなれなかったのだ。特に会話に面白みも感じないし、楽しくなかった。


 それは他の人も私に思っていたことと同じで、小学校に入学してから、周りに人はどんどん居なくなっていった。


 たった一人を除いて。


 七夕忍という人間はとても強かった。いや、強く見えた。


 彼女とは古い付き合いで、彼女の明るい笑顔に何度も救われてきた。


 初めて会った時の会話もはっきりと覚えている。


「ねえ、いつも一人で何の本読んでるの!?」


「え!?」


 私は急に話を吹っかけられたので、声がかすれて変な声が出てしまった。


「こ、これは図書室で借りたやつ……です」


「ふーん、あ、私は七夕忍。忍って呼んで!」


「え、あ、うん」


 私は急に話しかけられた動揺と、私なんかに話しかける彼女の目的が分からず困惑で混乱してしまった。


 友達が欲しいのなら他にもいっぱい人はいる。本が好きなタイプだとも思えない。


「名前は?」


「……え?」


「だから名前だよー、私なんて呼べばいいか分からないよ?」


「……岸水葵」


「葵かー、良い名前だね!」


 すごくテンションの高い七夕と言う人。きっと良い人なんだろうな、と言った感想を抱いた。


 きっといつも一人な私に気を使って話しかけてくれているんだろう。そう思うと一気に寂しさが沸き上がってきた。


「それで、七夕さんはどうしたんですか?」


 決定的な一言だった。あなたと親しくなるつもりは無いという。


 敬語、まだあの頃の敬語はたどたどしかった。それでも私は無理して使っていた。他人と必要以上の圧壁を生まないように。


 今ここで七夕さんとの会話に敬語を使わなくなってしまえば、それはすることになってしまう。


「……ごめんなさい」


 私はうつむくことしかできなかった。せっかく私にも友達ができるチャンスだったのに、恩をあだで返してしまった。


 目元にジワリと熱いものが滲んでくる。自分の弱さが悔しかった。


「忍って呼んでよ、葵。もう私たち友達なんだから」


「え……」


 私はうつむくのを止めて、七夕さんの方を見た。


 そこにはまるで太陽のような笑顔をした人がいた。


 にっと笑い、まるで世界のお手本のような表情をしていた。

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