燈の橙と灰色サラブレッド
沫茶
第1話
どうして生きているのだろうとたまに考える。
でも、そこに意味はないのだろうし、これといって生きている理由もない。しいて言うなら、死ぬのが怖いから生きているのだろう。死にたいと思っても、死ねないのは、死を恐れるからで、生きることに希望を抱いているからじゃない。
そもそも、この世界でいったいどんな希望を見つけるられるのだろう。かつて、まだ人が人として認められ、個人の自由が誰もに許された時代とはいまではもう訳が違う。今やもう、個人は、人類を発展、存続させるシステムの代替可能な部品の一つでしかない。
いや、そうするよりほかに仕方がなかったのかもしれない。
ここから、見える景色は、白一色でとても綺麗だけど、そのはるか向こうには、今も荒れ果てた廃墟や、草木の生えない人の住めない土地が広がっている。僕がこの世に生を得るおよそだいたい半世紀前に起こった戦争という、今の人類からすればばかばかしいもののせいで、人類は人種とか生まれとかに関係なく綿密に協力をせざるをえなくなってしまった。そうして、その延長線上に僕たちがいる。この合理的で美しい世界が存在する。
「あのさあ、いっつも思うんだけど、そんなとこ座ってたらあぶねえんじゃねえの?」
そんなとこというのは、要するに屋上のへりだった。そこに腰かけて、僕は空中に足をぶらぶらと遊ばせていた。たぶん、声からして、ニーヤだろう。振り返る必要はない。
声を出すのが面倒だったから、手を動かして用は何だと言った。よくする手の動きなので、ちゃんと伝わったはずだ。
「まあ、いいや。どうせお前が死んだところで変わりはいるにはいるからな。それより、管理人が呼んでるぜ」
それだけ言って、足音が遠ざかっていった。急ぎとは言っていなかったから、行くのは日が暮れてからでいいだろう。ああいう少しかび臭い感じのする部屋には進んで行きたくはない。
できればずっとここで、風に吹かれながら青空を見ていたかった。
昔の地球の青空も今とは変わらなかったのだろうか。少なくとも、人類が見てきた空は例外なく青色だったのだろう。その色が無くなる時はきっと世界が滅ぶ時だ。
とりとめもない思考が頭をかすめては流れていった。そもそもそれを望んでここにいるのだった。生きていることは無駄な情報が多すぎる。何も考えないくらいが本当は人間にとって良いに違いない。
でも、そういう訳にはいかない。そんな風には僕たちは生きていけない。現に今も、僕が腰かけているこの建物の中では、千人に近い人間がその頭脳を酷使して、学んでいる。数学、物理、生物、化学、地学、現代文、古典、世界史、地理、世界標準語。それらは人類がその知能を得た時から蓄積されてきた、人類の叡智の根幹をなすものだ。それを、まだ二十歳にもいかない彼らは、自らの血肉にせんと、必死にペンを走らせているはずだ。好むとも好まざるともに関わらず。
僕がこんなところでのんきにいられるのは、ただ彼らの誰よりも僕が優秀であるからに他ならない。でも、それは努力の賜物なんかじゃなくて、要するに生まれつき脳の神経回路の経路数が多かったり、記号や概念に置き換えることなく画像、音声のまま記憶できたりするというだけの話だ。彼らが生まれてから死ぬまでおそらく永遠に手に入れることのできないような能力を僕は生まれながらに持たされていた。それが幸福なことか不幸なことかは僕にはわからないけれど。
僕のような奴はここにはもう一人しかいない。でも、ここから外の違う場所では僕に近い才能を持った奴はおそらくゴロゴロいるだろう。少なくとも、今はいない彼女は、僕よりも上位の存在だった。それは、確かなことだ。
管理人からはよく、外のところに移るべきだと執拗に呼び出されていた。おそらく、今日のそれもその話だろう。僕らが学びを深めている機関はこの国各地に置かれていて、それぞれにランク付けされている。ここの施設は上から二番目の階層に位置していて、僕には一番上の階層に行く資格が十分にある。もし、その資格が僕じゃなくて僕が腰かけるこの建物の中の一人にあったら、そいつは喜んで上に上がることだろう。そもそも彼、彼女らが必死に脳でブドウ糖を大量消費しているのは、それが理由であるともいえる。
でも、僕にはそんな気はさらさらなかったし、管理人だって僕を強制的に上の施設に送り込むことなんてことはしないし、できないはずだ。そういう風にこの機関は体系づけられている。その網目をかいくぐって、うまく利用しているからこそ、僕はここでささやかに風を体に受けながら、流れていく雲とその背景の青を眺めていられる。
太陽の動きは、ある時は流れるように動き、まばたきするとそれからは止まっているように見えた。でも、いつの間にか西に逸れて、空は橙色に染まっていた。この時分はいつも何か胸にせまって、大切なものを失って、あるいは失くしてどうしようもなく心がざわめくような気分になる。それはたぶん太陽が沈んでしまうからなのだろう。古代の人たちの中には太陽は東から生まれ、西で死ぬと考えた人たちもいたし、あるいは西に進めばこの世の終わりにたどり着くと考えていた人たちもいたのだろう。
もうそろそろ潮時かなと呟いて、すくっと立ち上がって屋上の縁に立った。もう太陽は地平線の向こうに見えなくなった。次第に空の色も赤色からだんだん紺青に移っていくのだろう。
まっすぐに地平線と空の境を見つめていると、何か不穏な感覚が下から込みあがってきて、反射的に地上に目線を移す。校舎と校舎の間の通路で、一人の少女が僕を見上げていた。
彼女の髪はついさっきまでの空みたいにメラメラと燃える炎のように透き通った橙色とも朱色とも紅とも言える、美しい色だった。
僕はその髪の色を知っていた。
でも、僕を見上げるその少女を僕は知らなかった。これまでに見たこともない。
彼女がこんなところにいる訳もない。もうずっと前に彼女はいなくなったから。
下から見上げてくる僕の知らない少女がどうしてこんなところにいるのかは推測できるけど本当のところはわからない。でも、どうしても少女のような存在が僕の前に現れたことには少なからず不穏な感じがした。
彼女たちは僕たちと同じような人種だ。今の文明が生み出したものだ。どちらも、旧人類の方が多いこの世界では異物感がぬぐえない。それは僕がこの世に意識を持ってからずっと感じてきたことだし、それがために僕には地上に立つ少女のために何かが動き出してしまう、そんな予感が頭を占めた。
下の少女はずっと僕を見つめていた。その顔は無表情のようで、笑っているようにも泣いているようにも見えた。瞬きもしないでまるで人形のようだった。
ここから踏み出したら、十数メートルを落下して少女の横にはそこそこに大きい血だまりが出来るだろう。その色は多分、赤黒い。それは僕がまだ生きている証拠だ。
「いつか絶対戻ってくるから、そのときまで――」
もうずいぶん前の彼女の声が耳によみがえってきた。たとえここで風に吹かれることができなくなっても、空を眺めれなくなっても、僕には譲れないものがある。
少女から視線を外して、僕は歩き出した。僕の背後の空はもう十分暗い。でも、夜空には綺麗な星が輝いていることだろう。
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