服事の民

犬怪寅日子

服事の民 一

 猿の名前は氓で私の名前は氓々。どちらも閔花がつけた。音はボウとかバウとか聞こえる。

 閔花の仕事は葬式で服を脱ぐことで、氓の仕事はその服を拾うこと。私の仕事は荷物を持つことだけれど、荷物の中に服は入っていない。閔花は自分の衣装は自分で持つし、氓も自分のおむつは自分で背負ってしまう。だから私が持っているのは数珠と塩と蟋蟀だけ。でも鞄は皮でできていて、ちゃんと重い。

 胸の前で鞄を強く抱き締めながら、私は閔花と氓が仕事をするのを眺めた。

 坊主の陰鬱な読経の前で、閔花は体をくねらせている。右足を高く上げ、まずは靴下を脱いだ。氓が走っていってそれを拾う。次は回転しながら上掛けを。氓が靴下を置いてから駆け戻ってきて拾う。開脚して腰まきを。拾う。寝そべって胴着を。拾う。肌着。拾う。手袋。拾う。貞操帯。これは拾わない。

 坊主の前には奇態な金属と裸の閔花だけが残り、仕事の終わった氓は短く声を上げた。光線のような高い音が、読経と木魚の間を駆け去り、消える。

 閔花は引き続き体を後ろにのけぞらせて、陰毛の生えた股のあいだを弔問客に晒している。子供はぼうっと直視し、大人は鋭く掠め見る。坊主は知らん顔で、肌色をした木箱に向けまじないの言葉を浴びせ続けた。棺の中に入っていた死体には髭が生えていたて、何一つ欠けていない人間の顔で、ただ目を瞑っていた。

 一体、人はいつ空になるのだろう。

 髭の生えた死体は服を着ていて、まったくの人間に見えたが、肌の中にまだ人間が残っているかどうかは確認出来なかった。それを次々と眺めて去っていく弔問客は一様に黒い服を着ていて、人間というよりは動く山のように見えたが、よく見るとひとつひとつの肌の中で人間がうごめいているのが分かった。

 あるいは氓は毛むくじゃらなので人間には見えないが、おむつをして走り回っているときには人間の子供に見える。でも毛むくじゃらなので、やっぱり中に人間がいるかどうかはよく分からない。

 死体をもっとちゃんと見ておけばよかった。その人間がその人間でなくなるのはいつなのか、それが知りたい。自分がいつこういう人間になったのか、本当にまだ自分なのか。それを知る手がかりになったかもしれない。

 生きている人間の中に人間が残っていないことがあるのと一緒で、死んだ人間にも人間が残っていることがあるかもしれない。その違いは何なのか。人間とは何なのか。すべからく形が変わっても、それを同じ人間と呼んでもいいのかどうか。

 濃い肌色。

 裸で踊る閔花はいつでも一人の、そうして完全な人間に見える。どの肌を見てもそれは閔花で、皮膚の内と外に隔たりを感じない。出来ることならこれからは、こんな風に生きていたいと思う。どのような外見になっても、一個の人間として、私として、存在し続けていたい。

 私のような存在には叶わない夢だろうか。

「わ」

 突然鞄から左手の小指が外れて、見ると指の側面から血が流れていた。氓が短い鳴き声を上げ、鞄から飛び降りる。私を見上げてくる顔には、ほとんどいつも機嫌がない。私の指を噛むときの氓はまったくの猿だ。

「こおろぎは、今ではない」

 小指に力を入れ、鞄を抱きしめ直して見せたが、氓はすでに私を見てはいなかった。二三度あたりを激しく飛び跳ねたかと思うと、部屋の隅まで行って膝を抱えてしまった。完全な停止。こうなると、もうぴくりとも動かない。

 読経の声量がいよいよ大きくなり、弔問客の瞳が一斉に肌色の棺へ向かった。波のように不気味な一体感のあるその動きの中で、顔を上げない女が一人だけいる。最前列の中央で、頭から爪先までを黒いレースで覆われている女。その墨色の透かしの下で、彼女の瞳は閔花の局部から離れないでいた。居場所と装いから見て、今日の死体の配偶者に違いない。あの髭の生えた、人間のような死体の配偶者。

 つまり、彼女もこれから死体になる。


 むしのにおいがするのになぜみえないのだろう。

 おれはひざがいたい。


 読経が終わり坊主が去ると、黒い人間の波は一気に次の間へと引いていった。祭壇には肌色の棺桶と肌だけの閔花が残っている。黒い人間たちの去った場所には銀色の無機質な椅子が均一に並べられていて、最前列に残った女は、棺桶でも閔花でもない中空を眺めていた。

「氓々」

 私の名を呼ぶ閔花の声は、耳の縁をくるくる回りながら脳に入る。それで最初の一歩の平衡感覚を失い、くらりときたのを指の痛みを思い出しながら踏ん張って、急いで閔花の元まで走っていった。鞄を差し出すと、閔花の指がゆっくりと留め具を押した。眠りこけた泥のような色の金属は、いやいや眠りから覚まされたように、重たげな音を上げて束縛を解いた。

 くぱりと鞄が開き、中から蟋蟀の声がする。座ったままの女が目玉だけを動かしてそれを見た。レースの下の白目は暗く、黒目の縁が滲んではみ出ているように見える。

 閔花は女に向けて笑いかけると、蟋蟀の入ったパックを指で弾いてみせた。もう鳴き声はしない。羽音の重なりと、がさごそとした身じろぎの音。

「声がきけたのはいいことです。あまりない」

 閔花が言うと、女はまるで今そこに閔花が現れたかのように顔を上げた。口の端に、少し前まではなかった溝ができている。雨か涙が降れば川のように流れるだろうそのくぼみは、深々として、もうどうやっても本来の形には戻りそうもない。

 この国の女は夫が死ぬと自動的に年を取るようになっているらしい。そんなことをしなくても、すぐ先の未来で死ぬのに、どうしてそんな特性が生まれたのだろう。

 女は蛇のようなぬるぬるした目線を閔花の首に這わせながら、のったりと体の線を確認し、またのったりと目で首を這い登った。女は背が低いので、閔花の眼球に到達するまでの間は、短い旅があった。旅の終わりに、女の白目には新鮮な白さが戻り、蛇から人間の体温を取り戻したように見えた。

 あなたは、と女の口から声が漏れる。

「自分の生き方を許すことができているの?」

 体のか弱さと裏腹な、太くずっしりとした声だった。閔花は女の声からふたつの音を拾って、微かに首をかしげた。

「生きかたを、許す?」

 女は閔花の目だけを見てゆっくり頷いた。閔花は目を瞬きながら、もう一度小さく女の言葉を繰り返し、答えた。

「それは――私がおどることですか、私がはだになることですか」

「いいえ」

 女の声はやけにはっきりとしている。

「あなたという人間に訪れたあらゆる出来事について」

 あらゆる。

 私はその言葉が分からなかった。あらゆる。あらゆる。変な滑りのある音だ。でこぼこでもないし、ぬめぬめ、とも少し違う。すべすべとごろごろの合間のような。変な音だ。するするとしていて、捕まえにくい。あらゆる。

 この国の言葉はやけに音がはっきりとしているのに、形がみんな曖昧だ。

「あらゆるーーというのは、私の人生のことですか?」

 閔花が尋ねると、女は大仰に、何か大きなものを飲み込むように頷いた。ええ、人生、と女は閔花の言葉を口の中で転がして言う。

「そう。人生。人生よ。あなたの人生に訪れた、すべての出来事について、あなたは許すことが出来る?」

 女の頭には白髪が幾本か生えていた。いつ生えたのだろう。もしかするとずっと前からあったのかもしれないが、凝視していたら増えるところが見られるかもしれない。それだけ、女はみるみる老いている。閔花はその頬を触った。

「許す、というのは少しむずかしい言葉です」

 そうだろうか。

 私は許すということを知っている。それはたとえば氓に噛みつかれたあとや、道端で原住民に突き飛ばされたあと、それから米屋の女将が子供用のキャンディーを渡してきたあと。私は許すを行っている。許すというのは、与えられたものをそのまま捨てるような、留めたまま忘れたふりをするような、あるいは、消えずにあることをずっと秘密にしているような、そんな心の中身のことだ。

 閔花は私よりこの国の言葉に詳しいのだから、許すを知らないはずはない。

「そう――」

 ふと見ると、女の指先に並々ならぬ人間を感じだ。黒い布ですべての肌を隠されている女は、もはや生きているかどうかも分からないくらいだったが、今や、隠しきれないほど全身に人間がみなぎっている。

 けれど人間とはなんだろう。

 皮膚で骨を締めつけたようなか細く肉のない女の指先が、揺れながら閔花の腹に触れた。閔花の肌は日に焼けている場所と、焼けていない場所がはっきり分かれている。それでも焼けていない場所は、焼けた私の肌と同じか、それ以上に濃い。

 女の肌は黄色がかっていて薄かった。

「許さなくていい」

 女の体から揺れが消えた。

 閔花は腹の上で遊ばせていた女の指先を片方の手で握り、もう片方の手で鞄から麻袋を取り出した。女の顔からベールを外す。麻袋から取り出された塩と呼ばれる四角い結晶は、できたての時には透明で、時間が経つとどんな色にも変わる。今、閔花が取り出したものは透けた橙色をしていて、果実のように見えた。氓が見たら飛びつくだろう。氓は肉よりも果実を嗜好する。

 閔花の指につままれた橙を見上げ、女は喉を締め上げられような声を出した。

「許さなければ鬼になる」

 鬼とは角の生えた恐ろしい顔をした化け物のことで、この国では生き物に害をなすものはすべて鬼の仕業とされている。閔花は女の唇に塩を貼り付けながら呟いた。

「鬼は悪くない。悪いのは、くに」

「くに」

 唇が開いて塩が口内に転がり込む。いつの間にか閔花の腕に絡まっていた女の両手指は、弛緩し、緊張し、また弛緩し、幾度か繰り返して離れていった。ぬるりと地面へすべり落ちていく女の腰元を閔花が支える。塩が女の体を巡っているのが見えるようだった。塩というのは塩ではない。言葉がいつでも同じ物事を指すとは限らないのだ。特に、この国では。

 みるみる女は覚醒した。

 白目の内側に青白い潮水が充満し、緊張と弛緩を同時に行いながら、女は閔花と抱き合い、手を握り合い、囁き合った。ころころした個体のような笑い声をこぼし、閔花の手を取ってその場をくるくると回る。踊る。今や女の体は明るく開かれ、軽快な体重で苦悩の上を飛び回っている。声。嬌声。

 ひときわ大きな歓びの声が上がったとき、天井から鉄の檻がおりてきた。閔花はすでに外側にいるが、女はまだ踊りをやめない。ちょうどその時、短い休息を終え黒い人の波が斎場に戻ってきた。銀色の椅子が黒の、でこぼこの山で埋まる。最後に三匹の猿が坊主に連れられてやってきて、部屋の隅で停止していた氓が、膝を抱えながら悲鳴じみた声を上げた。

 坊主が猿を速やかに檻の中へ放り込む。黒い人間の波からは、あらゆる食べ物の匂いがした。これが終われば私たちもそれらを食べられるだろう。

 檻の中で女は喜び、猿は狂って踊っている。

 坊主が嫌に飾り気のない声で読経を初めると、虹色の油が檻の中に降り注いだ。女の着る黒い服はてらてらした虹色で濡れ、輝いていたが、見惚れる間もなく火に隠された。まだ女が生きているそばから第二の葬式は始まる。あの中にもまだ人間はいるだろうか。よくよく見ようと思ったが、黒く燃える人体はせわしなく踊っていて、よく見えなかった。

 ふと横を見ると、閔花はすでに服を着ていた。


 おれはひざがいたい。おれはひざがいたいんだ。

 むしのにおいがしているのにどうしてみえないんだろう。ああ。

 おれにいわないでくれ。おれのせいじゃないのだから。おまえたちがやけるのは。

 おれがそとがわにいるのはたまたまだ。


 この国には夏季と冬季があり、夏季には虫が多く、冬季には曇りが多い。夏季には空青く、冬季に蛇は眠る。本来はその間にどちらともつかない二つの季節が存在するのだが、この国の原住民はもうそれを感知できない。年によっては数日、場合によっては数時間しかない瞬きのように微かな季節。言葉ではそれを春季と秋季と呼ぶ。音がよく似ているので覚えるのが大変だった。そういう時は閔花がいつも唇を触らせてくれて、言葉を動きで教えてくれる。今でも自信がないときには、自分の唇に指を当ててみて、その言葉を確認している。熱心にやっていると舌先に皮膚が触れて、ときどき塩の味がした。私たちは皮膚の塩で、この国を覚えていく。

 もうすぐ秋季が来そうだった。

 秋季はいつも、認めた瞬間にはもうほとんど冬季に体を飲み込まれていて、私たちはその口からはみ出た秋の角を必死になって探すのに忙しい。角がぴくぴくと動けばまだいいが、秋季は春季より生命力がないので、すでに動かないことも多い。死に体の秋季は匂いで見つけるに限る。微かな土と風の匂いや、夏季の生き物の死骸の匂い。湿って腐ってじくじくしたものが、乾きはじめて無臭に近づいていく匂い。私のように耳がよければ、まだ生きている夏の虫の大声の中に、か細く泣いている別の虫の声を聞き取ることで発見することも出来る。

 氓の食べる蟋蟀はもともと秋季の生き物で、野生のものは秋季に生まれてすぐに死ぬらしい。冬季まで盛んに鳴いているのは養殖だと聞いた。私はいつか氓に野生の蟋蟀を食べさせてやりたいと思っている。氓が春季に必ず禿げるのは、生活を変えられた憂鬱な蟋蟀を食べて暮らしているからに違いない。短命だが快活な秋季の蟋蟀を食べさせれば、氓の肉体もきっと変わるだろう。

「しゅうき、しゅんき、しゅうき、しゅうき」

 私たちはこの国を覚えなくてはならない。

 たとえば冬季の終わりに狐に挨拶をすること。夏季のはじまりに空へ魚を泳がすこと。夏季の盛りには緑の馬と紫の牛を供え、秋季の酒には月と菊を浮かし、冬季の夜中には百鬼になり道々を練り歩くこと。それから祈り。あらゆる時、あらゆる場所で、この国の人間たちは祈る。この国は祈りから生まれたのだそうだ。

 私は必死になって空気の匂いをかぎながら、適切な時に適切な場所で祈れるように準備をする。秋の匂いを掴まえて秋を行わなければ。この国を語り継げない。

 語り継ぐことで、私たちは生かされる。

 もうずっと前から母国のことが思い出せなかった。自分が今、どんな形のどんな言葉で思考しているのか、響きもさわり心地も色味も濃淡も、何も掴めない。共感覚を取り払われた言語は、透明なのに存在だけが明確で、なんだか不気味だ。

 私は――私、と考えるときの、私がどういう姿だか分からない。

「わたし」

 声の言葉はこの国の言葉で、意味だけしかなく、私にはまだ親しみが持てなかった。

 口の中で私という音を転がしながら市場を歩き周り、閔花に頼まれた桃を三個買った。どこへ行っても移民だらけのこの国は、すべての肌の色がまちまちで目まぐるしい。色々の肌色がすれ違いながらお辞儀を繰り返している。私もお辞儀を返す。それがこの国の外側の形だからだ。ちゃんと形を守らないと、原住民がどこかから見ているか分からない。

 桃には白い網のクッションが被され、その周りを細かく削られた木々が覆い、またそれを硬い木箱が守っていた。過剰に中身を守るのもこの国の伝統らしい。彼らは形こそを守りたいのかもしれない。中身ではなく。

 振り回さないように注意しながら帰路へついた。

 同じ箱をいくつも並べたような原住民の住宅地を通り抜け、形と色と質感の違う箱をあべこべに積み上げたような移民の団地群まで歩く。

 過剰包装の桃の重たさに肩が飽いたころ、やっと私たちの住む拾弐号棟の階段の前までたどり着いた。階段の前に、針金が作られたような細くて長い見慣れぬ男が立っている。男は木の桶にたっぷり水を入れ、些細な柄杓でそれを掬い、土の上にかけているようだった。

 太陽光にいじめぬかれた砂は、水をかけると焼けたような匂いをたてる。

「こんにちは」

 私は彼にお辞儀をした。

「ああ。こんにちは」

 針金が外からの力で折り曲げられたように、男は不自然な勢いでお辞儀を返した。ひどくぎこちない。つい最近この国に来たのかもしれない。私はお手本を見せるような気持ちで、お辞儀に続く伝統を実行した。

「今日はあついですね」

 男がそれを理解し、あとについてくる。

「ええ、とてもあついですね、きょうは」

「こうもあついと大変ですね」

「そうですね。とてもたいへんです」

「おからだにはお気をつけくださいね」

「あなたも、おきをつけください」

 二人でお辞儀をして、私は階段へ、彼は水で土を焼く作業に戻った。

 この国の人間は形だけの挨拶と会話を好む。壁が溶けるような暑さの中、土に些細な水を掛けるのもおそらくこの国の伝統だ。あれはなんという名前の伝統だったのか。あとで閔花に確認しなければいけない。

 八階まで階段で登って、増築と改築でぐねぐねひん曲がった通路を通り、私はやっと家に帰った。

 閔花が白くて長いワンピースのような下着だけを着て、窓際の床に転がって眠っている。背中の上をカーテンが行ったり来たりして、さざ波のようだった。今日は風があっていい日だ。カーテンの干渉を受けていない床がずっと光っている。

 氓がソファーから電球までの大ジャンプで私を迎えた。

「ただいま」

 氓は私自体には見向きもせず、過剰包装の桃に向かって何度もジャンプをしている。

「これは、今ではない。閔花がおきてから」

 氓は跳ねるのをやめ、その場で小さく二回足を踏み込んだ。納得いかないのだろうか。とにかく喉から水分がいなくなっていたので、蛇口から出る水を飲み干した。この国はどこの水道水でもたいてい飲んでしまえるが、団地の水は他と比べると少し鉄の味が強い。氓が手を伸ばしてくるので、プラスチックのコップに水を入れてやると、ひったくるようにして、前唇を貝の形に捲くりあげて、ちびちびと飲みはじめた。

 氓の口から溢れた水を布巾で拭いて、蟋蟀の籠の様子を見に行く。

 籠は風通しのよいはずなのに、蜜と木くずと糞の匂いで充満していた。これが本当に糞の匂いかどうかは分からない。でも、生き物が生きている匂いはすべて糞の匂いに似ていると思う。どんな日でも養殖の蟋蟀はすべてが鈍く、夢の中で泳いででもいるみたいにとろとろ生活している。紙で作った居住区をいくつか持ち上げてみたが、隠れているものはあまりいなかった。

 また繁殖に失敗した。

 繁殖できればかなりの節約になるのに。養殖の食用蟋蟀など、どの店に行っても溢れかえっているのだから、それほど難しいとは思えない。それなのに、なかなか卵を産まなかった。まったく増えないので、氓にあげるばかりで私たちの食べる分が残らない。閔花に蟋蟀チップスを食べさせてあげると約束をしたのに。

 プラスチックが床に跳ねる軽い音がして、振り向くと赤いコップが床に落ちていた。氓は二足を縫い付けられたようにじっと立ち止まって、床を見下ろしている。おむつが少し膨らんでいるように見えた。蟋蟀を食べさせて、元気になったら替えなくてはいけない。

「氓」

 呼んだが動きはなかった。

 コップが落ちたのが悲しいのだろうか。氓は人間ではないのに、まるで人間のように、あるいは人間以上の純度と深度で、悲しんでいるように見えることがある。猿にも悲しみはあるのだろうか。人間より体が小さいから、人間より悲しみの比率が大きいのかもしれない。

 コップの水はすっかりこぼれきっている。

「水、またいれる?」

 聞いたが答えはない。そもそも氓は喋らない。私は蟋蟀の檻に向き直って、キャベツの端でじっとしているのを一匹ひっつかみ、氓の前に差し出した。蟋蟀も氓も、びくりとも動かない。時間だけが動いている。

 私はしばらくそれらを眺めていた。

 他の動物は、人間のように生きることに図太くないのかもしれない。生活をいじられれば生命がきしみ、ただ病んでいく。それは私にはどうしようもないことだ。生命を搾取しなければ、人間は生きられない。人間はもうそういう命に変わってしまったのだ。それは人間同士だって一緒だ。搾取しないでは暮らせない。

 蟋蟀がやっと後ろ足を動かして、手のひらが少しくすぐったくなった。けれどやっぱり氓は動かない。またしばらくじっとしていると、今度は人間の足音がした。

「氓々」

 振り返ると、閔花が長い髪をぐるぐると回すように掻き上げながら、大あくびをしている。

「ただいまを言った?」

「いったよ。閔花はねていた」

「そう。氓?」

 閔花に呼ばれると、氓は突然に自我を取り戻し、その場で飛び上がった。はっとして見下ろすと、手のひら蟋蟀の足は、すでに氓の口の端にある。そうなってもまだ、蟋蟀は夢の中にいるように、とろとろと足を動かしていた。

「おやつをもらったの? よかったね」

 閔花に頭を撫でられ、氓が小さい鳴き声を返す。蟋蟀は跡形もなく氓の体の中に消えてしまった。こうして憂鬱な生命は蓄積されていく。胸が少し焦げたようにちりちりして、私は無理に市場で嗅いだ匂いを思い出そうとした。あの、溶けているように甘い香り。

「桃をかってきたよ」

 私の声に、閃光が走ったように閔花の顔が明るくなった。

「食べよう!」

 そう言って閔花は裸になった。


 むしがのどでいきている。

 どうしてたべたとむしがさわぐ。たべねばしぬとおれはこたえる。

 うそつきめ。

 ああ、うそつきだ。

 おれはたべぬでいきられるものをのみこんだ。むしはのどでいきていて、どうしてたべたとえんえんさわぐ。

 どうしてたべた。どうしてたべた。どうして。

 

 浴室には小さな窓が一つだけ。そこからの光線が銀色の浴槽に跳ね、また跳ね、とめどなく跳ね、空気が白んでいる。鈍く汚れている朱色と乳色のタイルさえ、生き生きと輝いているように見えた。太陽光を浴びると、すべてが生き物のように見える。氓の毛の一本一本まで。本当に生きているみたい。

 おむつをはがして、尻をすっかり洗ってしまうと、氓は突然に生気を取り戻し明るい声をあげた。そこらじゅうを飛び回るので、額と臍に水滴が降ってきた。獣の匂いのする小雨に肌を刺激して、自分が裸であることをまた思い出させた。

 裸はむずかしい。とても奇妙だ。

「どうして服をぬぐの?」

 風呂に入るわけでもないのに、私たちはみんな裸でいた。閔花は銀色の浴槽の縁に腰掛け、陰毛の上に過剰包装の桃の箱をおいて首をかしげた。氓が肩に乗って箱を覗き込んでいる。

「氓々の国ではぬがない?」

「ぬがないよ、たぶん」

 母国の文化も母国語と同じように存在が曖昧だから定かではない。この国に来たのは今よりもっと小さく、幼くもあったから、覚えていたものもこの国のものと混ざってごちゃごちゃになってしまったのだ。

 はたして、私は私の国で桃を食べたことがあっただろうか。かなり低い可能性だが、絶対にないとも言い切れない。桃の匂いをここに来る前の私も嗅いでいたような気がする。

 ただ、裸でものを食べた記憶はまったくない。

 閔花が上箱と中に敷き詰められた薄い木のかたまりを、ばさばさと浴槽に捨てた。やはりそれらも光線を浴びると、生き物のように見える。

 過剰な防御により桃には一切の傷がなく、毛はちはちはと金色に光っていた。閔花が小さいナイフでくすぐるように桃を刺すと少し汁がこぼれる。いつもより閔花の動作はやや鈍く、なぜだろうと覗き込んでいると、片目を少しだけすぼませて、閔花は桃を示して笑ってみせた。

「――――」

 私はその言葉を聞き取れなかった。きっと知らない言葉だ。

「もういちど」

 そう願うと、閔花は私の手を引っ張り、手首の内側を天井に向けさせた。桃の中へ半端に刺さった刃をぐっと引き、私の肌にもほたほたと桃の果実が落ちる。重たい水滴だった。刃が果実を貫通して、歪な球体が半身になる。閔花は半身のひとつを皮を下にして私の手首の上に置いた。皮膚に金色の細かい毛が触れる。ちくちく、じくじく、いりいり。

 私は閔花の顔を見た。立っている私と、座っている閔花とでちょうど同じくらい。いや、私の方が少しだけ高いようだった。閔花の唇はいつも橙と朱色の間の子のような色味をしている。

 この国で、私が一番によく見ている色だ。閔花はよく分かるように先程の言葉をゆっくり繰り返した。

「い、た、が、ゆ、い」

「い、た、が、ゆ、い」

 私は同じように唇を動かしながら、疼痛と果汁と言葉がまざって脳に届くのを感じた。

「いたがゆい、いたがゆい」

 閔花は頷いて、私の手首の上から桃をどけ、氓に与えた。氓の喜びの声に、シャワーの水音がかぶる。手首に冷水がかかって、皮膚に刺さっていた柔らかい針のすべてが、溶け出たように感じた。

「服をぬぐのは、服が汚れるから」

 閔花は照れたように笑って付け足した。私たちはこの国の伝統を倣う使命を持っているが、それでもふいに自文化が出てきてしまうことがある。それを人が微かに恥じるのを、私は何度となく見た。しかし、外に出さないだけで、みんな体の内側では自文化に対する矜持を持っているのだ。照れてみせるのは外側の態度だ。私は自文化を覚えていないので、それを見ると羨ましいような淋しいような気持ちになる。

 だからせめて、もっと閔花の国の文化を知りたいと思う。本当の自文化を私は獲得できないだろうから、せめて閔花の国を覚えていたい。

「おふろに入るのは?」

 そう聞くと、閔花は少しびっくりしたような顔をした。

「のは?」

 質問の意味が分からなかったらしい。

「服をぬぐのは、服がよごれるから。おふろにはいるのは、それは、なぜ?」

 裸で食卓で食べるのではいけないのだろうか。

「なぜ――」

 閔花は何度か目を瞬いて、止まった。いつも達者にこの国の言葉を紡ぐ閔花の唇が、ぽかんとした空洞になっている。その肩で、氓が毛をぬらしながら桃にかじりついていた。

 幾滴かの果汁が閔花の肩から胸へ、すべり落ちていく。

「桃は、お風呂で食べたいよ」

 子供のような声色で閔花はそう言った。

 つまり、裸になってお風呂で桃を食べるのは国ではなく閔花個人の文化なのだ。途端に私は嬉しくなった。これからは桃を食べる時は服を脱いで、必ずお風呂で食べよう。いつの日かそれは私の自文化になるだろう。外側では照れ笑いをして、内側では誇らしげにすることが私にも出来る。閔花の生き方を引き継げることは、とても嬉しい。

 皮をするすると取り払い、閔花は桃を一切れ私の口に差し入れた。とても甘い。

「桃は、茶色になるよ」

「ちゃいろ?」

「あとでやろう」

 みんなで、裸で、たくさんの桃を食べた。氓は桃を大変に気に入ったらしく、何度もあたりと跳び回った。獣の小雨に果実の匂いが混じって、浴室には複雑な匂いが充満していた。匂いが太陽光を浴び、見えないものさえ生きているように感じる。浴室を出ると、閔花は雑巾にする予定の白いシャツに、桃の皮をこすりつけたてみせた。

 次の日、それは泥水がついたように茶色くなっていた。

「桃はちゃいろ」

 その光景を思い出しながら、私は繰り返す。

「桃はいたがゆい」

 閔花はこの国の言葉を教えてくれる。私は必死でそれを覚える。何度も言葉を繰り返し、私たちはこの国を続ける。あるいは、いつの日か、私たちだけが。


 おれだっていつかやかれる。



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