第15話 聞かれたくないこと

「もう、いいよ。帰ろう……早く」

走ってきたのか、それとも恐怖なのか、一の息は上がっていて、途切れ途切れに言葉を発した。

「一……なんで来たの、どうして」

今まで、目の前にいるこの女のことを考えるだけでも具合が悪くなっていたのに、自分から来るなんて。

「……俺が、俺が動かなきゃ、きっと少しは楽になっても、終わらないと思ったから」

体は縮こまって震えているが、真剣な目で訴える一に、オレは呆然とした。

「あの、もう関わらないでください。この次、またこういうのがあったら……警察に相談します」

一は、怯えながらも女に強い声で忠告した。すると女は、一を睨んだ。

「……私だってつらいのに」

「はぁ!?あんた、この期に及んでそんなこと……」

オレは食ってかかったが、一がオレの肩を掴んで止める。話を促すように女を見ている。

「関戸くんの父親に、体の関係を求められたの。私、断れなくて、今も続けてる」

耳を疑った。正直、女がついた嘘だと思った。それでも一は、黙って続きを聞こうとしている。

「あなたに関わらない約束で私が許された直後から。口約束で許されたのは体の関係を迫るためだった。」

女は悔しそうに泣いていた。

「もうやめたいって訴えるたびに、あなたにしたことを持ち出して脅してくるの」

どうしても信じ切れない。オレは一の方を恐る恐る見た。小さくため息をついて、衝撃的な一言を発する。

「知ってました」

オレと女は目を丸くした。

「知っていたと言うより、わかってました。あいつがするのはそういうことです」

一の震えはいつの間にか治まっていて、いつになく堂々としていた。

「自業自得ですよ。仮に親父を訴えても、俺は問題ありません。また邪魔がひとつ、消えるだけなので」

女は青ざめていた。オレは、情報が脳の許容量をオーバーして、ただぽかんと口を開けて一の顔を見ていた。一が微笑んだ。まだいつも通りの、微細な表情。でも充分に、安心してと言わんばかりの、穏やかな気持ちが伝わってきた。

「……お金置いておきます、さようなら」

一は財布から一万円札を一枚、取り出してテーブルに置いた。一のことが先ほどとは全く別人に、余裕のある大人に見えた。オレなら金出さずに帰ると思う。

「比嘉、行くよ」

「あ……うん」

女は俯いていた。オレはしばらく背後を警戒していたが、結局追ってもこなかった。



最寄り駅から、街灯の少ない住宅街を歩く。 2人の足音だけが周囲に響いている。

「あ!そういえば潤くんと水那ちゃんは?」

「2人には鍵を渡しておいた、先に家に戻ってる」

一の横顔が微かな明かりに照らされて、吐いた息は白く雲になって、それが綺麗で寂しくて、胸が苦しくなった。

「弟たちは、知らないから帰したんだ。まだ父親を純粋に慕ってる。今は知らなくていい」

一は、女が一の父親の話を持ち出すだろうと思って、2人を先に帰したらしい。

「ふーん、オレだったらそんな父親慕ってほしくないから言っちゃうかも」

「……俺は、今の2人と同じ歳の時に、そういうことを親父がしてるって偶然知ったんだ」

一はゆっくり歩きながら、少し俯いて淡々と話す。

「父親のことは、普通に尊敬してたし頼りにしていた。それを知った時は苦痛だったんだ」

「そっ…か」

多感な時期だ。尊敬する大人が、人道を踏み外していると知ったら、どうしていいかわからないはずだ。自分の尊敬が間違いだったという事実、裏切られた絶望感、ひっくり返る父親への感情が、一の心を蝕んだ。弟と妹には、無駄な苦しみを味わってほしくないということだろう。

「家族のこと聞いたことなかったから、ちょっと嬉しいかも」

「……うん、言ったことなかった」

街灯に照らされ、一の表情がくっきりと見えた。眉間に皺を寄せ、前をキツく睨んでいて、ちょっと不機嫌そうだ。多分、こういう時は深掘りしない方がいい。



家の前に着いて、鍵を開けようとして気づく。

「あれ、電気ついてない。潤くんたちどうしたんだろ」

「もう寝てるのか?」

鍵を開けて静かに入り、廊下の電気をつける。2人の気配は全くしなかった。廊下の明かりが差し込んで、テーブルに二つ折りの紙切れが置いてあるのがわかった。

「なにこれ?」

拾い上げて中を開くと、丸っこくふにゃふにゃした文字で『れいぞうこみて!』と書いてあった。一は首を傾げながらも、冷蔵庫を開いた。白い紙箱の取手の隙間にまた二つ折りの紙切れ。開くと、同じ筆跡でこう、書かれていた。


『お兄ちゃん、比嘉さんへ

ちょっと心配だけど、多分お兄ちゃんなら上手くやってくれると信じて、私たちは帰ります!

なんか2人とも私たちにめちゃめちゃ気ぃ遣ってるの丸わかりだったからね!疲れただろうし、私たちで選んだスイーツ食べてゆっくり休んでね。で、これが食べれる時間に帰ってきてたなら、お兄ちゃんも比嘉さんも無事だったということ!無事じゃなくても帰って来れたなら万々歳だよ。一応連絡して欲しいな!

またいつか会う機会があったら、二人のお話(惚気とか!)聞きたいよ~ 水那より』


「気を遣ってたの気づかれてたんだ……悪いことしたね」

「まあ……結構細かいところ見てるから、水那は」

女の子ってすごいな、とオレは感心する。

手紙はもう一枚あった。今度は筆圧が強めで、男の子だなあとわかる、固く崩れた文字で簡潔に書かれていた。


『兄さんと比嘉さん

帰ってこられて何よりです、借りていた鍵は郵便受けに入れて帰ります。また連絡します、返せる時だけ返してくれればいいです。では。潤より』


可愛らしい2枚の手紙を交互に眺めていると、冷蔵庫が甲高い電子音で喚いた。

「あ、開きっぱで読んじゃったじゃん。早く買ってきてくれたの出して閉めて!」

慌てて取り出した紙箱を台所で開ける。真っ黒で苦そうなコーヒーゼリーと、生クリームの乗ったプリンがひとつずつ入っていた。

「これ結構いいお店のじゃん?美味しそう」

「本当だ」

ローテーブルに準備をして、クッションに座る。やっと日常が戻った感じがして、体の力が抜けて「あ~」と、おっさんみたいな声が出た。一が目を細めてオレを見る。笑っている。やっぱりまだ、ぱっと見じゃ全然わからない笑顔だ。オレも微笑み返した。



一件落着に見えたが、一はまだ何か抱えていそうで、それを踏み込んで聞く勇気がオレにはなかった。聞いたところで話してくれるとは限らない。それにまだこの先つらいことがあるならば、今は一緒に一休みしたい。

「さ、食べよ食べよ」

わざと呑気に、へらへらとオレは笑った。これで一が少しでも楽になれば。今だけは全部忘れてオレだけを考えて欲しい。

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