Iris ~歌姫恋譚~

詠月 紫彩

「私を、買ってくださいませんかぁ?」


 寒い夜空の下、イリスは道行く人々に声をかける。

 冬の厳しい寒さ。

 それ以上に、振り向かずあくせくと通り過ぎて振り向かない人々の冷たい心の方が、沁みた。

 まるで身を切られるような痛み。

 誰も彼も、知らぬ振り。

 無関心。

 寒さと痛みで震える体を時折、自分の手で撫でながら、イリスは道行く人々に声をかけ続ける。


「誰か、私を買ってくださいませんかぁ?」


 朝からヒュムヌスの町の大通りをウロウロと歩き、自分を売って来たがどうやら今日は収穫がないまま終わりそうだ。

 イリスが売っているのは、自分は自分でも、春ではない。

 歌だ。

 歌姫カナリアである自分に出来るのはそれだけだ。

 美しい声で高らかに詩を詠み、歌を紡ぎ、壮麗なる舞台で美声と美姿を競い合う。

 イリスには、数ヶ月前まではちゃんとした主人がいて、貴族達の間でブームになっていた歌姫競技会カナリア・コンチェルターレでは栄冠や称賛をほしいままにしていた歌姫カナリアであった。


「誰か……」


 力なく、冷たい地面に座り込んだ。

 それでもなお人々はせわしなく帰途につこうとイリスを見ることもせずに素通りをしていく。

 飽きられて捨てられた歌姫カナリア、主人から逃げ出した歌姫カナリアもいる。

 イリスだけではない。

 このヒュムヌスの町にはごまんといる。


「ご主人様……会いたいです……。イリスを、見つけてください……」


 主人に買ってもらえるまでは、悲惨だった。

 汚い店先。

 酷い店主。

 家畜のように檻に詰め込まれ、歌とは到底言えない濁声を上げながら、その他の歌姫カナリアとして買い手を求めていた。

 幸せというものがどういうものかは知らないけれど、幸せになれたらいいな、という夢を抱きながら。

 店主から与えられた教育は、歌を歌う為の言葉と、音。

 そして、主には絶対服従。

 物心がつく前に売られたイリスも例外ではなく刷り込むかのように何度も何度も教え込まれた。

 やがてある一定の年齢まで買い手がつかない歌姫カナリアは、檻の中から引きずり出されてどこかへ連れていかれる。

 連れていかれた彼女達がどこへ行ったのかはイリス達も知らない。


「あの時と、一緒……」


 その他大勢の惨めな歌姫カナリアは主人が買ってくれるのを歌って待つしかない。

 店先と違うのは、町往く人々は足を止めることなく、見向きもせず、たとえ少なかろうとも物を買う為のお金を恵んでくれることもなければ、口を開けようとも食事を恵んでくれることすらないこと。


「もう、ダメなのかしら……」


 心の中で何度も主人を呼ぶ。

 主人との生活は、幸せだった。

 走り去る馬車達。

 あの中の一つが、主人の乗る馬車だったなら……。

 何度もそんな幻想を夢見て、この数ヶ月を過ごしてきた。

 主人を得たイリスは、まず名前を与えられた。


「イリス」


 優しく名前を呼んでくれた。

 まだ若いのにまるで娘か恋人のように可愛がってくれて、屋敷にいた人達も歌姫カナリアだからと蔑んだり、歌を歌うだけの奴隷のように扱ったりしなかった。

 温かいお茶を淹れてくれ、体調を気遣ってくれ、美しい金の髪や服や体を綺麗に整えてくれ……歌を頼まれる。

 歌姫競技会カナリア・コンチェルターレが行われるオペラハウスへ向かえば、イリスが出演というだけで満員。

 身を整えて歌を歌えば拍手喝采。

 その度に、若き主人はイリスに笑いかけ、労い、頭を撫でてくれたのに……。

 今となっては髪同士が絡み合い、美しい金の髪も色褪せくすんだ色を放っている。

 白かったはずの簡素なワンピースは路地裏を歩き、雨に打たれたせいもあって鼠色へと変わってしまった。

 みすぼらしい。

 いや、ただの商品である歌姫カナリアとして売られていたあの頃に、戻っただけだ。

 違うのは巣を失い放浪をしているということだけ。

 幸せだった日々を思い出し、かつてと同じ絶望に囚われそうになるのを、イリスは頭を振ることで忘れ、もう一度だけ口を開く。


「一晩だけでもいいですから……。どうか、私を買ってくださいませんかぁ?」


 誰も、応えてはくれない。


「ご主人様……。どうして、どうして……イリスを置いて、死んでしまったんですか……?」

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