拝啓、試験監督さま

押田桧凪

現代版懸想文

 英語のリスニング試験の開始を控えた僕は、試験監督の女性に一目惚れをしていた。つまり、告白イベントの発生である。このチャンスを逃してはいけない。この気持ちを、伝えなければならない。思い立ったが吉日。今から作戦を確認する。


 まず、かなりの確率で試験開始前の準備中に手渡されるリスニング用の「ICプレイヤー」は故障していない。ここで、もし仮に彼女しけんかんとくにICプレイヤーが壊れていないのに壊れている、と申告した場合、


【⑤不具合のあったICプレイヤー一式は,回収後,原因を調査します。調査の結果,虚偽の申告をしたことが判明した場合は不正行為になることがあります。】

とのことだ。(試験実施マニュアル p.16 より)


 仮に偽りのない申告だった場合は、

【② 解答時間中にICプレイヤーの不具合や , 問題冊子の乱丁,落丁や印刷不鮮明を申し出た場合は,監督者の指示で試験を中断することがあります。中断を指示された受験者に対しては,試験終了後に再開テストを実施します。】

 というような救済措置が取られるので、有難いことだが。


 では、どうやって彼女しけんかんとくとの意思疎通を図ろうか。

 ……もう、結論は出ている。試験実施マニュアルを、試験前日夜にも関わらず徹夜で熟読してきた僕の中で導かれたのは、


【(6) ① 解答時間中に, 監督者に申し出なければならない事由じゆうが発生した場合には, 黙って手を高く挙げて知らせてください。その後監督者からが受験者に手渡されます。監督者とのやりとりは , 周囲の受験者の解答の妨げにならないよう, 声を出さずにこの用紙を使用してで行います。】

 という項目を利用することだった。



 以前のセンター試験まで50点だったリスニングの配点は、今年の共通テストから「100点」となり、試験時間は30分になった。

 前半のイラスト問題は捨てて、その時間を彼女とのコンタクトに充てる。あとは、後半の問題を確実に得点すれば大丈夫だ。模試の時だって、これまで平均点を取ってきたのだ。円滑に行えば、そこまで手間はかからないはず。


 いや、そんな簡単に「前半の問題を捨てる」と言うのはおかしいと皆は思うだろう。たかが告白のために? ってね。それに加えて、前半パートは配点が高い上に読まれる内容も平易で聞き取りやすいこともあり、非常に重要な設問のはずだと。

 しかし、されど告白。僕は、必死だ。



 1609年、ガリレオ・ガリレオは天体望遠鏡を作り、その翌年に太陽の黒点を観察することに成功した。今の時代では到底考えられないことだろう。太陽を天体望遠鏡で。肉眼で、見るなんて。おそらく、まだ遮光板がなかった頃の話だ。


 今では小学校の理科の授業でも言われるはずだ。虫めがねで太陽を見てはいけません、と。


 73歳のときにガリレオは両目を失明した。肉眼で太陽を観察したことが影響しているかもしれないという説もある。が、このエピソードを小学校の時に伝記で読んだとき、当時、大変危険な行為だったにも関わらず研究に身を捧げるガリレオの姿勢に僕はいたく感動したのだった。それぐらい、必死になれる人間は、なんて素晴らしいんだ、と。



 ──試験が開始した。イヤホンには英語の音声が流れている。当然だ。先程のサンプル音声は終了したのだから、本番が始まったのだ。


 フフッと笑いがこぼれるのを抑え、周りが懸命に聞き取りながら、まさに𝓛𝓲𝓼𝓽𝓮𝓷𝓲𝓷𝓰している中、僕は高らかに手を舞い上げる。湧昇流のように、クジラの潮吹きのように。けれど、どこかおしとやかに。優雅で、可憐なる乙女の仕草のように。


 手を挙げ、俯いたまま、問題冊子のイラストから問題内容を必死に推測している。……フリをして待つ。


 カツカツとハイヒールの彼女が僕の方に向かって来ているのが、聞こえる。

 幻聴だろうか。なぜなら、僕の耳には英語の音声が流れているはずなのに。この「出逢い」を祝福するかのように、生命の息吹を髣髴ほうふつとさせるクラシックが流れているように聞こえるのだ。換気のために、開かれた試験室の錆びた鉄製の重い扉から時折吹き込む、あの北風をものともしない春の陽気な……𝓜𝓾𝓼𝓲𝓬 ♪ が僕を包み込む。ありがとう、ヴィヴァルディ。


 予期した通り、彼女は僕に『所定の紙』とやらを差し出してくれた。ささやかな微笑みとともに。これがいわゆる、0円スマイルというやつか? とんでもない。いくらか僕のなけなしの、お金を、帰りの電車賃が無くなってでもいいから、恵んであげたいくらいだよ、𝓜𝓪𝓻𝔂聖母マリア



『どうかされましたか?』

 筆談を先制リードしたのは、彼女の方。


 僕は、鉛筆を握りしめて、文字を走らせる。ちょこっと絵文字っぽいものも付けてみる。


「あなたが、かわいすぎて、集中できません(><) 」


 彼女は、目を丸くして驚きながら、きょろきょろしながら、周りに視線をめぐらせる。透視してしまったのだろうか。彼女は気まずそうに、口の端を引いて微かに笑っている。……ように見えたのだ。当然、顔はマスクで覆われているというのに。そんな彼女のマスク奥の表情を、僕は見つめる。


『からかわないでくださいっ♡』


 僕は首を横に振る。からかいではなく、本心であることを伝えなければ。そして、鉛筆を持ち直した。


「ぼくは、本気です」


 すかさず、彼女は反撃。

事由じゆうがなければ、試験を受けてください』


 冷たい。小中学校の給食に出てきた、冷凍ミカンの表面に僅かに残った薄氷に触れたときのような、冷たさ。そして、それに触れると一瞬のうちに溶けてしまうような儚さ。でも、彼女の、この言葉は一介の試験監督としての義務であり、仕事なのだということを、僕は知っている。


 こういうときは、ギャグだ。早急に彼女のガードを解く必要がある。なんとかして、なごませなければ。


「あなたを自由じゆうにしてあげたい」


 彼女の、伏せられた睫毛がゆっくりと上がって、頬をわずかに紅潮させる。それから、雲の隙間からちらりと覗く月のような、控えめな笑顔を浮かべた。ように見えた。うん、そんな風に見えただけだ。そろそろ透視にも慣れてきたようだ。


 その文を、何度もじっくりと味わって読むように、目を往復させながら、彼女は肩を震わせていた。どうやら、笑いを堪えているようだ。それを見て、僕もつられて笑いそうになる。


『0123-24**-□□○○』


 彼女は数字の羅列を紙に残して、去った。また、カツカツと鳴らしながら。(正確には、鳴らしているように聞こえただけだ)。その音は虚空に吸い込まれるようにして、遠く遠く、鳴る。どこか、ウキウキしているような浮き足立った軽い足音を、僕は聞いた。


 やったぞ、と心の中でガッツポーズしたその瞬間。周りの皆がイヤホンを一斉に外しはじめた。ん? 何だ。


 試験終了の、チャイムが鳴った。


 待って、待って、待って。え、ちょっと待ってくださいっ?!


 それは、僕にとって、つんざくような、黒板を爪で引っ掻いた時のキィなんていう音の比にもならない、断末魔の悲鳴に近い破滅をもたらす音だった。

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