第50話 違和感
「その頃の変化の要因に」
「さあ、どうでしょうね。安西は子どもがいるなんて、これっぽっちも思っていないと俺は考えています。だからこそ、そこの弁護士の先生だって知らなかったんです。ただ、ちょっと俺の周辺を探れば、ああ父親が違うのかと理解できるでしょうね。そして毎月のように振り込みがあったことが解る」
「なるほど」
その振り込みをしていたのは、もちろん田辺なのだろう。ここにも、忠文が疑う理由があったわけだ。遺産の話をしていたのは金の流れを知っているということだ。そこで不審な点があり、田辺を疑っていた。候補の中には美紅もいたのだろうが、こちらは殺されてしまったため外されただけだ。
「先生の子を身籠ったと、連絡を受けたのは私でした」
そこで観念したように田辺が呟く。
「じゃあ本当に」
驚いたのは忠文だ。総ての事実、安西に関することを知っていると思っていた弁護士にすれば、これは驚愕の事実だろう。
「ええ。しかし、先生には知らせない、その代わり生活は保障する。それで納得してもらいました。彼女、つまり安達さんの母は、その時すでに別の方と結婚されることになっていましたから」
「ああ」
どうしてそうなったのかは、想像するしかない。いや、友也は知っているかもしれないが、深く問い質すことの出来ない問題だ。しかし、田辺と友也の両親、そして友也本人は知っていたのだ。本当の父親は安西だということを。
「俺が安西のことを父だと知ったのは、皮肉にもこの建物の設計を依頼されてのことでした」
友也はぽつりと、溜め息のように吐き出した。ペンネームとして安西を使っていたのは、何度か目にしたことのある苗字だったからだ。しかし、それがどうして何度か目にしたことがあるのか、深く考えたことはなかったという。
「じゃあ」
「そう」
頷いただけで友也はその先を話すことはなかった。想像しろということか。となると、やはり殺人を起こしたのは友也ではないということになる。
「安西の方が疑心暗鬼だったんですか」
「さあ。もしそうならば、終活するに際して俺を調べると思いませんか」
「ああ」
何と複雑なことだろう。目に見えている事象は単純なはずなのに、そこに人の心が絡むと、途端に何も見えなくなってしまう。まるで自分が研究している内容のようだと、千春は溜め息を吐きたくなる。そう、人の心は不可解だ。それが確実にその人の意思決定に強く働きかけているというのに、観測される事象と必ずしも一致しない。
「最後まで互いに親子だと名乗り合うことはなかったんですね」
「そういうことです」
そう言えば、友也が二つの名義を使っていることを、美紅は言及していたのではなかったか。緊張していて忘れていたが、美紅は別の名義といっていた。つまりここの設計に関して友也が手掛けたことを知っていたというわけか。
「あなたが手伝ったことは何ですか。そもそも、どうして」
「起こった出来事を入れ替える必要があったからですよ」
「えっ」
「それが事実です。そして組み立てるには何が必要かというと」
「岡林さんですか」
「そう」
なるほど、自分を悪者にしたい理由はそれか。千春は頭の中で一気にすべてが繋がったと思った。これもまた、人間の不可解な部分だ。まさしく美紅と話した自己犠牲の問題に落とし込まれた。千春はごくりと唾を飲み込んだ。しかし、そうなると真相は今まで考えていたものとまるで違う。
「安達さん、あなたは犯人でも共犯者でもないんですね。実際は巻き込まれたかのような岡林さんですが、彼女が積極的に事件に加担していた。腹を引き裂いたのは岡林さんだった。つまり、先に殺害されたのは遠藤先生だったということですね」
「何だって」
驚きの声を上げたのは大地だった。それでは、今まで考えてきた総てが覆るのではないか。しかし、すぐに冷静になると、なるほどと頷いた。
「死体を隠したのは、死亡推定時刻を割り出されては困るから、ということですね」
「そう。恐らく安西先生にも悪いという思いがあったということでしょう。安達さんの例を出すまでもなく、安西先生は女性関係にルーズなところがあったということでしょう」
「ああ。岡林さんもまた、恋人だったと」
「安西先生ならば、師弟関係の延長くらいに考えていたんでしょうね」
美紅との関係も恋人と認めていなかったのだ。安西にすれば、男女の関係もまた人付き合いに必要な何かとしか捉えていなかったのではないか。
「しかし、当事者は納得できるものではないってことですね。遠藤先生が現れた時に田辺さんが懸念したように、心変わりを疑ってしまった」
「ええ。特にあの晩、俺と親しく喋ってしまったことが、より捩れたのかもしれませんね。だから真実を知っていた安達さんは、自分が総ての罪を被ろうとした。あの夜、眠らなかったのは故意ですか、それともたまたまですか」
このくらいは答えてくれと、千春は友也を見る。
「故意というのはおかしいですね。田辺さんに、寝ないように頼まれたんです。そのために、食後の飲み物として紅茶をリクエストしてくれと言われていました」
まったくもうと、友也は肩を竦めて答える。どこまでも思い通りにならない人物だと、そう顔に書いてあった。
「頼まれた」
どういうことかと千春は田辺を見る。
「胸騒ぎと申しますか。嫌な予感がしたんです。しかし他の方が起きていると、隠し子であることを隠して初対面の振りをしている手前、相談できない。そこで、皆さんの飲んだコーヒーには睡眠導入剤を混入させておきました。他の方が紅茶を選択されなくて、良かったと思っております」
すまなかったと田辺は頭を下げる。事件をややこしくする要素を作ってしまったと反省しているのだ。もちろん、友也がそれさえも利用したからややこしくなったのだが。しかし、食事の嗜好を安西が調べていたことを考えると、誰もがコーヒーを選択することは、ある程度推測できたのではないか。
「そしたら電話があったんです。渡り廊下が使えなくなってから少し経った頃、安西から大変なことになったと」
「内線ですね」
「ええ。その時はすでに安達さんと話し合いをしている最中でしたので、すぐに相談に乗ってもらいました」
「そうですよ。そして俺は、あなたが死ぬことを許容するならば手伝うと、そう言いました」
ここまで真実が判った今、あえて嘘を吐く必要はない。ということは、その提案は真実なのか。たしかに安西に自殺する雰囲気はなかった。終活していたとはいえ、それは自分の年齢を考えてのことだ。しかし、どうして友也が自殺を促す必要があるのか。不義の子として生まれたことを恨んでのことだったのか。
「少し躊躇っていましたが、自分が悪いという自覚はあったようですね。最終的に納得し、俺の提案に乗ってくれました」
「ああ。ずっと無視していましたが、部屋が異様に真っ赤だった理由も」
「そう。遠藤先生の死体の傷から流れた血を隠すためですよ。安西に指示して、絵の具を撒き散らせたんです。安西の用いているのは油絵具ですからね。水に溶ける心配はない」
「なるほど。じゃあ、あそこにあった絵も」
「そう。安西が隠しました。それこそ、あの本が山のように積まれた書庫にね。誰もあそこを詳しく捜査しない。それにポンプを弄るにもあそこに入るしかない。丁度良かったんです。絵は木枠から外し、本の間に丸めて隠してあるはずですよ」
事実は意外なほどあっさりしているものだなと、千春はそんなことを思ってしまった。そう、あの建物の中にいた人が総てを行ったのならば、謎は何一つ存在しないのだ。事象の入れ替え。それで総てが見えなくなっていた。
「そうやっておいて、水を一気にあの部屋に流し込んだ。もちろん、岡林もそこで死ぬはずだったんですが、どうにか逃げおおせたみたいですね。尤も、意識が戻るかどうかは不明ですが」
友也が自嘲的な笑みを浮かべて笑う。そう、単純だったはずの事件が不可思議な方へと動き出したのは、桃花が入り口に倒れていたせいだ。
「やはり、殺すつもりだったんですね」
「そうですよ。だから惚れているのかと訊ねたんです」
「――」
どうにもまだ違和感があるな。それが千春の意見だったが、その根拠がない。ただ、会話がどこもかしこも不自然だ。そう思うだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます