第38話 本当に怖いのが苦手
「次に俺も行こう」
一人が行くと、それぞれがトイレを意識してしまった。そこで順に行くことになる。千春も大地の次に行くことにした。ついでに外の雨の状況も確認したい。そう言うと、大地は一緒に行こうと高校生のようなことを言う。千春は苦笑しつつもそれを了承すると、二人揃って石田を追い掛けるように廊下へと出た。
「廊下に出るとやはり、事件のことを思い出しますね」
しかし、誰かと一緒に行きたかった理由はすぐに判明した。最初の事件でも現場に入ることを拒んだほど、大地は殺人事件を怖がっている。
「今村さんが一番意外ですよね。だって、小説で殺人事件を扱っているんでしょ」
「そうですけど、無理でしょ。実際に起こった事件は目の前に死体も、血もあるんですよ。臭いもありますし。俺、身内の葬式ですら失神しそうなのに。駄目なんですよね、死体ってものが」
「はあ」
「まあ、そういう現実世界では弱いから、ミステリー作家なんてやっているんだと思います。自分では絶対に無理ですからね。それに死という恐怖に向き合いたいのかもしれません。あと、怖がりを直したいってのもあるかも」
ぶるぶると震えながら大地は言う。なるほど、一理ある答えだ。それに、想像は出来ても現実は無理とは厄介だろうなと思う。しかし、人間とはそういうものなのかもしれない。千春だって、感情のある人工知能を研究しているが、自分は日頃、それほど感情豊かだとは思えなかった。そういうギャップを人間は内包しているものだ。
いや、逆だからこそ惹かれるというのは、頻繁に起こる心の現象だと思う。人工知能に対して人間の反応を色々と試すうちに、これは難しいなと思ったことの一つだ。真逆の行動を人工知能に選択させることは、常にならば可能だが、時々、それも突発的に起こさせることは出来ない。
「どこかに行かないでくださいよ。ま、待っててくださいよ」
トイレは浴室の近くとあり、大地はますますびくびくしていた。たしかにここまで進むと、ダイニングでは気にならない血の臭いがはっきりと嗅ぎ取れた。シーツを掛けてあるだけだから、まだ死体から血が流れ出しているのだろう。それに、意識してしまうと余計に敏感にその臭いを感じてしまうものだ。
「待ってるから、さっさとしなよ」
千春は苦笑しながら大地をトイレに押し込み、約束とは違って、自分はそのまま廊下を進んだ。そしてあの仕掛けのあるドアを押してみる。やはり開かない。普段からこの時間は開かないからなのか、それとも雨のせいなのか。その判断は出来なかった。
「ううん」
ドアの横には小さな窓が付いていたので、そこから外を眺めてみる。真っ暗だからはっきりしないが、まだ雨は降り続いているようだ。雨音がはっきりと聞き取れる。それでも、あの七時ごろの激しさはない。しかし、小雨と呼ぶにはまだほど遠いくらいに降り注いでいる。
「ちょっと椎名さん」
「あ、ああ」
ぼんやりと外を見ていると、大地が廊下を慌てて走って来た。それはもう必死の形相で、先ほどの言葉のどこにも嘘がなかったと解るほどだ。そして約束を破った千春を鬼のような形相で睨んでいる。
「離れないでくださいよ、もう」
しかし、千春の顔を見るとほっとしたのか、恥ずかしそうに言う。顔も千春の傍に来ると、途端にふにゃっとなった。それで恐怖が和らいだのなら、ちょっと離れたことも効果があっただろう。
「じゃあ、トイレに行くか」
「俺、椎名さんが終わるまで待ち構えていますからね。一番信頼してますから。本当、椎名さんみたいな人がいてくれて良かったですよ」
「えっ」
意外なことを言われた気がして、千春は振り返る。すると大地は真剣な顔をしていた。揶揄っている様子はない。
「他の二人は、なんか解らない感じがするじゃないですか。裏表があるっていうか」
「そうかな」
自分もかなり取り繕っているはずだが、裏表がないように見えるのか。千春はどう感じているのかと、ちょっと質問してみる。
「緒方さんは仕方ないんじゃないかな。弁護士だし」
「ええ。それは思います。でも、ころころと態度が変わる感じがどうも苦手で。一見いい人に見えるだけに、怖さを感じるんですよね。特にあの人、明らかに田辺さんを疑っていますよね。何の根拠もないのに」
「ううん。そうだね」
根拠がないかどうかそれは知らないけれど、と千春は苦笑していた。忠文は安西が終活をしていたことを知っている。それに絡んで、何か掴んでいるのかもしれない。金の流れがおかしいと、それを把握しているようだった。
尤も、使用人である田辺に遺産が関係するのか。今後の就職先の問題なのか。そこまでは解らない。金を動かしていたとしても、執事として必要な行動だっただけかもしれないのだ。
「それに何か隠している感じがして嫌なんですよね。あの人、何度かここに来たことがあるんですよね。どうしてドアの仕掛けを知らなかったのかなって」
「ああ」
その疑問は最もだなと千春は頷いた。たしかに何度も来ているようだし、ここについてすぐ、二つある建物の役割を教えてくれた。ということは、少なくとも通行止めになる時間があることを知っていたはずだ。
「それに安達さんも怪しいですよね」
「怪しい。そうかな」
何か怪しいことなんてあっただろうかと、千春は首を傾げる。社交的でその場を上手くコントロールしている。多少、この状況を楽しんでいるのではないかと疑問に思うが、それ以外は問題なさそうだった。
「ずっと笑顔ってのが気になりますよね。こんな状況なのに」
「場を和ませようとしているんだろ」
「他にも疑わしい点はありますよ」
「ほう」
「だってあの人」
何かを言おうとして黙ったので、千春は咄嗟に後ろを振り向いていた。するとそこに話題となっていた友也の姿がある。
「ああ、二人で話し合いの最中でしたか。なかなか戻って来ないんで、何かあったのかなと思いましたよ」
「すみません」
「俺もトイレに行きたくなっただけです。ワインの飲み過ぎでね」
にっこりと笑う友也は酔っている様子がない。飲み過ぎというのは、水分の取り過ぎと同じ意味だろう。
「ああ、俺もトイレを忘れていた」
「そうでした」
実はさっき、怖がっていたせいで出なかったのだと大地が恥ずかしそうに言う。千春が離れた気配を敏感に察知したらしい。本当に苦手なのだ。
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