天使は呪う

KuKi

天使の呪い

「母さん、ただいま」

「……おかえり。一笑。」

靴を脱いで寝たままの母親に近づく。壁を向いたままの母が優しく返す。

「プリン買ってきた。食べる?母さんの好きなやつ。」

「本当?後で食べるわ。ありがとう。」

うん、と呟くように頷く。

「あ、ベッドから落ちかかってるよ。重いでしょ。」

そう言って僕は、母親の背に手を伸ばす。純白の、ずっしりとした羽に手を添えてベッドの上へ押し上げた。羽はツヤツヤと輝いて、母が呼吸をする度にゆっくり上下する。

「ありがとう。最近は寝返りもうてないから、助かるわ。」

母は少しだけ顔を動かして僕を見た。痩せこけた頬が少し吊り上がる。朧気な目に光を湛えてその『天使』は僕に微笑んだ。



天使病。突如人間の背から羽が生え、その羽が成長するにつれて人間の生命力を奪うという奇病だ。羽が美しく、強く成長すればするほど宿主の体は衰弱し、いずれ死へと導かれる。治療法も確立されていない奇病ながらも、その美しさと宿主の姿から「天使病」と名付けられた。

僕の母は物心ついた時から羽が生えていたそうだ。それが奇病と知らない僕は母の羽が大好きだったし、幼い頃はよくその羽の中で眠った。

おかしいとは思わなかった。うちの母は特別なんだと。奇病と知らされたのは小学校5年生のときだった。

母は、綺麗な人だった。母の羽が急激に成長したのは、父が家を出て行ってからだ。父は母とは違う他の女の人を選んだらしい。僕は悲しくも腹立たしくもなかったが、母は違った。夜に何度も泣いていたし、ご飯もあまり食べなくなった。


「一笑。今日は学校どうだった?」

「……別に。」

「お友達は?なんて言ったっけ?お母さん名前忘れちゃったけど、よく遊んでる子がいたわよね。」

「うん……。でもそいつとは最近一緒にいないんだ。」


嘘だよ。本当は友達ですらない。


「そうなの。まあ男の子はあまり友達とずっと一緒にいないのかしらね。」


ごめんな母さん。友達作るの苦手なんだ。


母を前から見るのは苦手だ。骨だけみたいな細い首も、痩せこけた頬も。見たくなくて、だから母が壁側を向いているのは少しありがたい。


「一笑。」

もう寝ようとしている時、母が僕を呼び止めた。

「何?母さん。」

「こっちに。」

母さんが呼ぶままに側へ近づく。

ベッドまで来ると母は細い腕を少しあげて、「手を握らせて。」と掠れた声で言った。

理由も分からないまま手を差し出すと、母さんの細い指が僕の手を握りしめた。

「一笑。」

「何?」

「お母さんね、一笑は世界で一番いい子だと思うの。」

「なんだよ、それ。」

突拍子もないことを言い出した母親に少し笑ってしまう。

「一笑。お母さんがあなたに何かあげられるとしたら何がいいかなってずっと考えてたの。あなたがお腹にいる時に。」

「……うん。」

「それだったらずっと残るものがいいじゃない?だからね、お父さんにお願いしてお母さんが一笑の名前を考えたの。」

「うん。」

母は笑っている。僕の手を握りしめたまま、あの痩せ細った顔で笑っていた。

「ずっと笑ってられる人生も、一緒にあげたかったんだけどね。お母さんにその力はなかったから、願うことしか出来ないの。」

母は笑顔のまま続ける。

「だからね一笑。ここから先は自分で進みなさい。お母さんのお願いは一笑が自分で叶えて。」

「え?」

「お母さん結局何も出来なかった。だけど、一笑がとってもいい子で、お母さんの自慢だからきっとこれから先も大丈夫だと思うの。」

「……」

「ごめんね。一笑。」

母は最後まで笑顔だった。手がするりと外れてそのまま母はその手をヒラヒラと振る。

「それだけだよ。もう寝なさい。」

「……うん」


次の日の朝起きると、母の背には今までで一番美しい姿で広がる羽があった。

羽は一瞬ドクンと脈打ったように見えて、僕は思わずその美しい怪物に近寄った。引き寄せられるように近づき羽に触れると、ゆっくりと羽は折りたたまれてベッドの中に収まった。


母は事切れていた。


僕は、不思議と落ち着いていた。ゆっくり羽が折れないように母を仰向けに寝かせる。昇ったばかりの朝日が窓から差し込んで、淡く母の顔を包んだ。


「なんだよ。めちゃくちゃ綺麗じゃん。」


母は天使の羽よりも何よりも綺麗だった。痩せこけた頬に手を添わせる。母は微かに笑っている気がした。


「プリン、結局食べないんじゃん。俺が食べちゃうよ……母さん……ッ……」

気付くと、僕は涙を流していた。



母さん。なんで一笑なんて名前付けたんだ。僕は笑うのが苦手で、友達作りも、人と関わるのも苦手で、学校でも孤立していて、本当に孤独な人間なんだ。一生笑うなんて無理な話なんだよ。母さん。母さんみたいに笑えないよ。


『一笑。大好きよ。』


母が昨日、寝る前に僕に囁くように呟いた言葉。


『あとは自分で生きていきなさい。』

『お母さんの願いは、一笑が叶えて。』


母が僕にかけた呪い。


こんなにも美しくて、こんなにも残酷な呪いをかけて、僕の母は天使になった。


母の細い手を握りしめて、僕は昇っていく太陽に照らされる街を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使は呪う KuKi @kuki-kuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ