2つの救い

ヒカルは,どうしても,母親に会って,謝りたくて,ホタルに相談してみることにした。


「無理やり呼び出すと,関係がさらに拗れるだけだから,来てくれるのを待つしかないんじゃないの?」

ホタルが言った。


「僕が困っていたら,来てくれると思うの…。」

ヒカルは,自分が考えついたことを言ってみた。


「どう言うこと?」

ホタルが訊いた。


「僕が溺れそうになったら,きっと助けに来てくれる。」

ヒカルがはっきりと,ホタルに自分の考えていることが伝わるように言った。


「それはやめといた方がいい…万が一,来てくれなければ,本当に溺れちゃうよ。」

ホタルが注意した。


「絶対来てくれる!…僕のことをずっと見ている。そう言ったもん!」

ヒカルが自信満々に断言した。


「…本当に信頼できるの,お母さんのこと?」

ホタルには,ヒカルの母親に対する揺るぎない自信が痛々しく思えた。もう少し,警戒した方がいいと思った。


「信頼できるに決まっている!お母さんだもん!」

ホタルに疑問を投げかけられても,ヒカルの自信堂々とした態度は,少しも揺るがなかった。


「でも…いつも,自分でも言っていたでしょう,自由じゃないって?ヒカルを助けたくても,助けに来れないかもしれないよ…。やめといて。」

ホタルは,もう一度釘を刺しといてから,帰ろうと立ち上がった。


「行こう。」

ホタルがヒカルに手を差し出した。


ヒカルは,首を横に振った。母親を信頼しない方がいいと忠告したホタルと一緒に帰るのは,嫌だった。


ヒカルは,母親を信じたくてたまらなかった。母親が自分を愛しているとも,困ったらすぐに助けに来てくれるとも,信じたかった。そう信じることが,母親に会えなくなって心細い心境のヒカルにとって,希望の一筋,心の拠り所そのものだった。ホタルの忠告に従ってしまえば,希望を完全に捨てることになる。ヒカルは,断じて,またいつか母親に会えると言う希望を捨てるのは,嫌だった。


「何?怒っている?」

ホタルがヒカルの渋い顔が気になって,訊いた。


ヒカルは,小さく頷いた。


「今日は,一人で帰る?」

ホタルがさらに訊いた。


ヒカルがまた無言で,頷いた。ホタルと目を合わせようともせずに,うつむいたままだった。


ホタルが帰ると,ヒカルは,頭を激しく横に振った。


「お母さんは,違う。お母さんは,僕を愛している。ホタルは,知らないんだ。会ったことがないし,知らないだけだ。」

ヒカルは,自分にそう言い聞かせながら,作戦を考え始めた。


ヒカルは,わざと潮の流れの速いところを目指して,泳ぎ始めた。ヒカルは,幼い頃から水泳を習っていたので,潮の速いところではないと,溺れそうになることはないはずだ。


ヒカルは,計算通り,すぐに潮に流された。ところが,頭の中で作戦として計画している時は,恐怖を一切感じなかったものの、潮に流され、自然の威力に実際晒されてみると,とても怖くなった。ホタルが警告した通り、これで,母親が来てくれなければ、自分は本当に溺れ死んでしまう。そう思うと、ますます怖くなった。


潮に流されたヒカルは,荒い波の中を,まるで風になびく旗のように,激しく振り回され続けた。全力で足掻いて,一瞬水面から顔が出せたと思いきや,またもや高い波に襲われ,飲み込まれて行く。これを繰り返していると,何か硬いものに頭が当たり,意識を失ってしまった。


気がついたら,砂浜に寝かされ,頭から血を流していた。目をとろんと開けてみると,母親がヒカルの頭の傷を押さえ,出血を止めようとしているところだった。


ヒカルが目を開けたのをみると、頭を押さえたまま,呼びかけた。

「ヒカル!大丈夫!?」


ヒカルは,少し奮闘しながら,起き上がった。


「寝ていた方がいいんじゃない?」

母親が止めようとしたが,ヒカルは,無視した。気まずい沈黙が続いた。


「…わざとだね?」

ヒカルの母親がようやく沈黙を破った。


ヒカルは,すぐに頷いた。


「なんで,そんなバカなことをするの!?死ぬところだったよ!」

母親が涙目で息子を叱った。


「…来てくれないから。」

ヒカルが単純に答えた。


「バカ…!私は,深く反省している。あなたが今辛いのは,私のせいなのは,わかっている。私が我慢してあなたに会わなかったら,あなたは寂しい思いをせずに済んだ。私は,我儘だった。ごめんなさい。」

母親は申し訳なさそうにうなだれて,謝った。


「ち、ちがう!僕が悪い…お母さんに,無理やりそばに居させようとして,悪かった…謝りたかったけど,来てくれないから…。」

ヒカルが必死で謝った。


母親は,首を横に振った。

「子供が親と一緒にいたいと思うのは,当たり前のこと。あなたは,何も悪くない…親として,申し訳ない…人間になれたらいいのに,なれないから辛い思いばかりさせて,本当に申し訳ない。」


「違う!…人間になって欲しくない!お母さんは,人間じゃないから,お母さんなんだ。人間になってしまったら,お母さんじゃなくなる。お母さんは,このままでいい!人間にならなくていい!…ただ,居て欲しいだけ。」

ヒカルが心を込めて、自分の気持ちを伝えた。


「…ありがとう…わ,わかったよ。」

ヒカルの母親が涙ぐんで言った。


「居てくれる?」

ヒカルが訊いた。


「…とりあえず,今日は,一緒にいるよ。そして…どうしたら,もっと一緒に居られるか…明日から考えるね。」

母親が慎重に言った。


「そんなに難しいことなのかな?」


「…決して,簡単なことではないよ。住む世界が違うからね…。」


「…前も言ったけど,僕は,お母さんのところに喜んで行くよ。」


「それは,無理だ…ちゃんと考えるから,今は大人しくしていて。」

母親はヒカルが横になるように促した。


「でも,やっぱり,来てくれたね!」

ヒカルが嬉しそうに言った。


「来るに決まっているでしょう?二度とバカな真似はするな!」

母親がまた厳しい口調で,念を押した。


「しないけど…ホタルは,来ないかもしれないって。信じない方がいいって言ったよ。そう言われて…初めてホタルのことが少し嫌いになった。」

ヒカルが話した。


「まあ…あの子は,人を信じるのは難しいだろうね…お母さんが旦那さんを裏切り,兄と関係を持ったし,兄も,父親なのに,少しも構ってくれないし…。でも,ヒカルのことを大切に思ってくれていると思うよ。だから,そのことを言ってくれたんじゃない?自分みたいに傷ついて欲しくないから。」

母親が考え深く言った。


ヒカルは,母親の説明に納得し,ホタルが少し可哀想に見えてきた。


「助けてくれてありがとう。」

ヒカルがまた起き上がり,母親に抱きついて言った。


母親がヒカルを抱きしめ返そうと腕を伸ばしかけたが、すぐに手を止めた。


「これがいつも邪魔だ…。」

そう言うと,片手に持っていた皮を膝の下に敷いて,両手をフリーにして,ヒカルを思いっきり抱きしめ返した。


「二度とあんな危ないこと,するな!」

もう一度,強く念を押した。

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